第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」-2-
土曜日の朝。白いステップワゴンは、高速道路を滑るように走っていた。
ハンドルを握るのは、かるた会の顧問でもある足立先生だ。顔も身体も丸っこく、オールバックに整えた髪には白髪が混じっている。
助手席には優菜が座り、後部座席では瑞季と星輝、アスラが、遠足気分で楽しそうにおしゃべりをしている。
「うわー、見て見て! スカイツリー、でっか!」
「ほんとだ! 写真撮っとこ!」
「快晴の青空をふたつに割るようなタワー……美しいです」
騒ぐ後部座席の女子中学生たちの楽しげな声を聞き、足立先生は目尻に皺を寄せ、「あっはっは」と快活に笑った。
「元気だねえ。月音さんは写真、撮らないのかい?」
「え? あ、はい、撮ります」
バッグからスマートフォンを取り出し、窓の外に向ける。
「緊張してるのかい?」
後頭部にかけられる声に、優菜は振り返らずに答える。
「はい。……とても」
「そっか。全国だもんね」
それ以上、足立先生は何も言わなかった。必要以上に深く踏み込んでくれないことが、今は嬉しかった。
みんな、優しい。自分のために、わざわざ東京まで付き合ってくれて。だから、心配をかけちゃいけない。楽しまなきゃ。
そう思えば思うほど、心は逆に、重く沈んでいくようだった。
カメラのシャッターを押そうとした瞬間、車はトンネルに入ってしまった。
「あっ……」
カメラを向けていたはずの窓ガラスには、ぎこちなく笑う自分の顔だけが映っていた。
会場である体育館に到着すると、その独特の熱気に、優菜は思わず息を呑んだ。
全国から集まった、青春をかるたに捧げる選手たちの、静かに燃えるような闘志。張り詰めた空気。応援に来た保護者たちの緊張。
選手用の入り口で、身分証を提示して本人確認を済ませ、名札を受け取る。足立先生や瑞季たちとトーナメント表が張り出された掲示板へと向かうと、自分の名前を探した。
「どこだろう……」
「あった! ……あっ」
そう指を差したのは星輝だった。最後に漏れた一音が気になりながらも、優菜は彼女の指が差す方向を見て、自分の名前を見つける。
そして、その隣に記された一回戦の対戦相手の名前に、優菜の心臓が大きく跳ねた。
『鳥羽茜』
運命という言葉が、頭をよぎる。
まさか、初戦で当たることになるなんて。
「もしかして……」
瑞季が足立先生の顔を怪訝に見上げる。
「先生、またやりました?」
「いやいや! そんな権限ないって!」
また? と、茜との最後の一戦が仕組まれたものだったと知らない優菜は疑問に思うが、それに言及する余裕はなかった。
劇的な再会に心が震える。だが、それと同時に、今の自分で彼女と本気で戦えるのだろうかという不安が、暗い影を落とした。
呆然とトーナメント表を見つめていると、不意に背後から声をかけられた。
「——やっぱり来てたんだ。優菜ちゃん」
振り返ると、そこに彼女はいた。
鳥羽茜。
黒縁のメガネに、すっきりとしたショートカット。最後に会ったときよりも、少しだけ大人びて見えた。だが、その瞳に宿る、一点の曇りもないまっすぐな闘志の光は、少しも変わっていなかった。
「茜ちゃん……!」
「久しぶり。足立先生もお久しぶりです」
「鳥羽さん! 元気にしてたかい?」
「はい」
「まさかうちのかるた会から全国出場者がふたりも出て、この晴れ舞台で戦うことになるなんて……まるで夢のようだよ」
足立先生の瞳は、潤んでいた。いつも明るい彼のそんな表情を優菜が見たのは、初めてだった。
「先生、さすがに大袈裟だよ」
茜がふふっと微笑む。
「大袈裟じゃないよ」
足立先生の声は、わずかに震えている。
茜は足立先生に歩み寄り、彼の膨らんだお腹をさすった。
「また太りました?」
「うん。たったいま、五キロ幸せ太りしたよ」
茜がクシャッと笑う。
「そういうことにしといてあげる。——ねえ、優菜ちゃん」
茜は改めて優菜に向き合い、彼女の瞳を見上げた。
「私は、この日のために全力を尽くしてきた。あなたも、ここまで這い上がってきたのなら、きっとそうでしょ?」
茜は、ふいと視線を逸らしながら、少しだけ早口で言った。その素直じゃない態度が、彼女らしくて、優菜の心も少しだけ温かくなる。
「うん」
優菜は微笑む。うまく笑えるよう、いつものように取り繕って。
だが、茜はそんな優菜の顔を見ると、ハッと表情を固まらせた。
「……なに、その目」
彼女の声から、わずかな温度が消える。
「なんで、そんなに暗い色してるの?」
「え」
暗い顔をしているつもりなどなかった。必死でいつも通りの様子を演じているつもりだった。
しかし、畳の向こうで何度も向き合ってきた茜には、その笑顔が作り物だとすぐに分かったらしい。
茜は大きくため息をついた。
「すっごく楽しみにしてたのに。がっかりだよ。集中できてない相手に勝っても、全然嬉しくないんだけど」
その言葉は鋭く、的確に優菜の心のもっとも痛い部分を抉った。
「鳥羽さん。そんな言い方は……」
足立先生が間に割って入るが、彼女の視界には、もはや足立先生も優菜も入っていない。
「私のライバルは、もう、いなくなっちゃったのかな」
茜はかすれた声でそう言い残すと、くるりと優菜に背を向けた。そのまま一度も振り返ることなく、その場を去ってしまう。
その背中が、あまりにも遠く見えた。
◆
その頃、大会会場からほど近いオフィス街の公園では、ひとりの青年が力なくベンチに座っていた。
相田透。大学四年生。
彼のスマートフォンには、ついさきほど届いたばかりのメールが表示されていた。
『今後のご活躍を、心よりお祈り申し上げます』
まただ——。
これで何社目だろう。もう数えるのも嫌になる。
最終面接まで進んでいた企業からの不採用通知。いわゆる『お祈りメール』だ。
もう秋。周りの友人たちはとっくに就活を終え、残りの大学生活を謳歌している。自分だけが置き去りだった。
今日参加した合同説明会の企業は、一年前に夢見ていたような華やかな大企業とは程遠い。それでも、合格通知さえもらえれば就活を終わらせたいと願っていた。しかし結果は——不合格。もう選り好みなどしていられない。
メールの最後には、不採用の理由まで簡潔に書かれていた。
『教科書通りの模範的な受け答えが目立ち、あなた自身の個性に欠けていると感じられたため』
個性。
また、その言葉だ。
「……個性って、なんだよ……」
吐き捨てるように呟く。
「全員に同じ黒いスーツを着させて、同じ髪型をさせて、個性を全部潰しておいて……今さら個性がない、だなんて。ふざけるなよ……! 俺だって、こんな誰かの真似事みたいな格好じゃなければ、もう少し——」
やり場のない怒りが沸々とこみ上げる。
そのとき、隣から気怠い女の声がした。
「バカだね、アンタは」
顔を上げる。
肌面積の大きな白いシャツに短パンというスポーティーな格好の女——磐名式乃が、ベンチの背もたれにだらしなく寄りかかっていた。
「人と違うことをするのが個性じゃない。人と同じことをして、それでも滲み出てくるものが個性なんだよ」
「……なんだよ、あんた」
「なんで就活生がみんな同じ格好させられるか、分かるか? 表面的な情報を抑えることで、その人間の中から滲み出てくる個性を見るためだ」
磐名は気怠そうに言葉を継ぐ。
「まあ、実際には就活なんて、服屋や就活塾みたいなくだらない連中のビジネスに利用されるだけの、クソイベントだけどな」
磐名の視線が、じろじろと相田を舐めるように上下した。
「にしても——アンタ、見事なまでに『就活生の標本』って感じだな。髪型もネクタイも、ネクタイの結び方も、どうせマニュアルの一番上に書いてるやつだろ? もうちょっと、自分にふさわしいものをちゃんと選べよ」
「……は?」
「どうせ、口では『御社が第一志望です』とか言いながら、目では『早く終われ』って訴えてたろ? この時期に第一志望なわけねえだろうに。そりゃ落ちるわ」
ぐさぐさと刺さる言葉が、冗談とも本気ともつかない口調で投げつけられる。
「立ち方、息の仕方までマニュアル化されてるのが目に見える。そこまで徹底して型にハマろうとしてるから、アンタは空っぽなんだよ」
「てめえ……!」
相田は怒りに任せて立ち上がった。
「黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって……!」
「じゃあ教えてよ。アンタの長所は?」
「は?」
相田は困惑しながらも、ぼそっと答えた。
「……真面目なことだ」
「フッ」
磐名は鼻で笑う。
「真面目だあ? ハッ、そんなの、何の取り柄もねえ奴が最後にすがりつく、誰にでも言えるゴミみてえな要素じゃねえか。それを長所にする時点で『私は能動的に行動したことがない指示待ち人間でーす』って言ってるもんだよ」
「……っ!」
自覚はあった。
勉強は確かに言われた分だけしてきた。それ以上に、自分で望んで勉強をしたことはない。遊びやサークル活動だって、積極的にアクションを起こしたり、成果を上げたことはない。
磐名の顔を睨むこともできず、視線が落ちていく。
その、あまりにも分かりやすい反応に、磐名は満足げに微笑んだ後、甘い吐息と共に語りかける。
「まあ、良くも悪くも、そういうマジメ人間を量産するのが日本の教育だし、そういう人間が必要な場所もある。別にアンタが悪いわけじゃない」
「え……」
相田は背中を丸めたまま、顔を上げた。その目は正気を失いながらも、わずかな光を含んで、救いを求めるように磐名へ向いていた。
彼女の手には、不吉に光る水晶。
「そんなアンタには、量産機がお似合いだ。誰かに利用されながら、ほどほどに生きる量産機がね」
相田の目は、水晶の鈍い輝きだけをぼんやりと写していた。
「——『水晶よ、黒を架けろ』」




