第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」-1-
ぱん、と乾いた音が、静かな部屋に響いた。
アスラの手が、畳の上に置かれた札を鮮やかに弾き飛ばす。その動きは、初心者とは思えないほど鋭かった。
「……はい」
アスラは札を静かに自陣へ並べた。これで、陣地にある札はたった五枚差。
月音家の優菜の自室。休日の午後、ふたりはいつものように、競技かるたの練習に励んでいた。
だが、今日の優菜は、明らかに様子がおかしかった。
読み上げられる歌に集中できていない。得意なはずの決まり字を聞き逃し、目の前にある札にさえ、反応が遅れてしまう。かるたを始めてまだ数ヶ月のアスラにここまで札を取られてしまうのは初めてのことだった。
優菜は次の句を待ち構える。しかし、いつまで経ってもスマホアプリから音声が流れることはなかった。
顔を上げると、アスラがスマホアプリの一時停止ボタンを押していた。
「アスラちゃん? どうしたの?」
「それは私のセリフです。優菜さんこそ、どうかしましたか?」
アスラが心配そうに優菜の顔を覗き込んでいる。
「……ううん、なんでもないの。ちょっと、ぼーっとしてただけ」
力なく笑ってみせる。その笑顔が、ひどくぎこちないものであることは、自分でも気づいていた。
磐名式乃に言われた言葉が、呪いのように、頭から離れない。
——誰々がどうこう言ってたとか、そうやって、いちいち他人の言葉を借りないと、テメエの意見も言えねえのか!?
——アンタみたいな絵に描いた優等生なんてのは、どいつもこいつも外見ばーっかり気にして、中身がねえんだよ。そういう無個性なガキが、アタシは一番嫌いだね。
あの声が何度も何度も脳内で再生される。
その度に、自分の足元がぐらりと崩れていくような感覚に陥った。
「——なんでもないわけ、ないでしょう」
静かだが有無を言わせぬアスラの声が、優菜を現実へと引き戻す。
「この間の県大会での優菜さんの戦いぶりは、本当にお見事でした。その後も、優菜さんは一日も練習を欠かさず、精進を続けていました。その姿を見て、私は心から尊敬していました。でも、今の優菜さんは……」
アスラは言葉を切った。彼女は、磐名式乃との一件を知らない。もしかしたら優菜の知らないところで瑞季や星輝から聞いたのかもしれないが、それを表には出さなかった。
だからこそ、その心配の言葉が一層痛かった。自分にはないものをアスラは持っている。彼女に心配されるたび、自分の空虚さが、くっきりと浮かび上がる気さえした。
アスラには、異国で罪と向き合いながら生きる強さがある。
星輝には、太陽のような明るさと音楽という武器がある。
瑞季には、普段の内気さと、戦うときの凛々しさという鮮烈なギャップと、誰よりも強いヒロイックさがある。
それに比べて、自分には何があるのだろう。
口から出る言葉は、ただ、物語で読んだ知識を表面的になぞっているだけ。
性格は良くも悪くもトゲがない。誰とでもそつなく付き合える。でもそれは、誰の心にも深くは残らないということ。
無個性。
その三文字が、胸の奥で冷たく響いた。
今は、勉強という分かりやすい物差しが価値を持つ『学校』という場所にいるからいい。でも、いつか、そこを飛び出した後、自分は有象無象の波に飲み込まれて、あっというまに消えてしまうのではないか……。
「……ごめん。大会も迫ってるのに、わたしがこんなで」
今週末には、かるたの全国大会が控えている。
それは、かつて同じかるた会に所属し切磋琢磨し合ったライバル鳥羽茜と再会を誓った、約束の舞台。
だが、今の優菜には、晴れの舞台に立つ自信も、資格さえも、ないように感じられていた。
空っぽの自分があの大舞台で、いったい何ができるというのだろう。
◆
ヴォイズ・アークのアジトの一室で、磐名式乃は漆黒の長椅子に深く身を沈め、文庫本を読んでいた。天井のシャンデリアが放つロウソクの光だけが、彼女の顔と開かれたページを、ぼんやりと照らし出している。
その静寂を、凪宮琥珀の声が、何の気配もなく破った。
「何を読んでいるのですか?」
いつの間にか、凪宮は磐名の隣に立っていた。
磐名は、本から目を離さないまま、気怠そうに答える。
「ファンタジー小説さ。主人公が好奇心の果てに見つけた偉大な功績が、本人の意志とはまったく関係なく、戦争に利用されていくっていう、胸糞悪くて暗い話だよ」
「ファンタジー小説とは意外ですね。フィクションなんて、あなたがもっとも嫌うものだと思っていましたが」
「別に。現実とフィクションを、ごっちゃにするバカが嫌いなだけだよ」
磐名は紙のしおりを本に挟み、静かに閉じた。そして、面白くなさそうに凪宮を見上げる。
「で、何か用か? 寂しくなって、お姉さんにお勉強でも教えてもらいにきたか? おチビちゃん」
「あなたに教わることなど何もありません」
凪宮は眉ひとつ動かさず淡々と答えた。
磐名はひとつほくそ笑む。
「それより、あの研究ジジイはどうしてる? まだ引きこもってんのか?」
「ええ。かれこれ一週間はあの様子ですね。先ほど部屋の前を通ったときは、何やら不気味な笑い声が、ドアの隙間から漏れ聞こえてきましたよ」
「気色わるっ。声聞いてるだけで吐き気すんだよな」
磐名は心底うんざりしたように顔をしかめた。
凪宮は、その様子を値踏みするように、静かに見つめている。そして、まるで何かの駒を動かすかのように、新たな情報をテーブルの上に置いた。
「風の噂で聞いたのですが。今度の土曜日に、月音優菜さんが競技かるたの全国大会に出場するため、東京へ行くそうですよ」
「三十歳をとうに過ぎた女が、風の噂なんていうスピリチュアルなものを信じると思ったか?」
「信じるか信じないかは、あなたにお任せします」
凪宮は、肩をすくめてみせた。
「ただ、あなたにとっては、興味深い出来事かと思いましたので。必要以上に月音優菜さんを敵対視しているように見えますし」
その言葉に、磐名の目がわずかに光る。
「……アンタこそ、高梁星輝にずいぶんと粘着してるように見えるけどな」
「少々興味があるだけですよ。ああいった、正反対の人間にはね。ともかく、ちょっとした気分転換をしに行くのも、悪くないと思いますよ。……『大洪水』の準備のついでにね」
その言葉を残し、凪宮は姿を消した。
ひとり残された磐名は、しばらく虚空を睨みつけていたが、やがて、ふっと息を吐いた。
「……気分転換、ね」
その目に、不気味な光が宿る。
「せっかくの全国大会だ。忘れられない思い出にしてやるよ」




