第三十一話「夢から醒めても」-7-
戦いが終わった後の病院の裏庭は、嵐が通り過ぎたかのように荒れ果てていた。
瑞季たち三人は、アスラと共に、静かに眠るめぐみを車椅子へとそっと乗せる。彼女の身体は驚くほど軽かった。
四人で病室へと戻り、めぐみをベッドに寝かせる。その間、誰も何も話さなかった。ただ、先ほどの重い戦いの余韻が、四人の間に静かに流れていた。
「……じゃあ、私たちは先に戻るね」
瑞季が小声でアスラに告げる。昼休みは、とうに終わっていた。
「アスラちゃんも、あんまり無理しないでね」
優菜と星輝も心配そうに頷く。三人は足音を忍ばせながら病室を出て、学校へと戻っていった。
ひとり残されたアスラは、静かに眠るめぐみの手に、そっと触れる。
まだ温かい。
生きている。
その、あたりまえの事実に、心の底から安堵する。
そのとき、めぐみの瞼が震えた。
「……アスラ、さん……?」
「はい。ここにいます」
「あれ……もう、こんな時間? 私、ずっと寝ちゃってたのかな」
めぐみは、まだ夢の中にいるかのように、ぼんやりとした声で言った。
「ええ。少し、お疲れのようでしたから」
「そっか……。テレビを見てたところまでは、覚えてるんだけど……」
「リハビリは大変ですか?」
アスラは話題を変える。
めぐみは少し不思議そうな顔をしてから、力なく笑った。
「うん。大変だよ。本当に。でもね、先生たちも看護師さんたちも、みんなすごく良くしてくれるから。そのおかげで、なんとか頑張れてる。……こんな病気になっちゃったのは不運も不運だけど、アスラさんみたいな優しい子に会えたのは、ささやかな幸運だったのかなって」
彼女は一度、言葉を切った。そして、窓の外の青い空を見つめながら、続ける。
「だからね、私、諦めたくない。みんなと同じように、とまでは行かなくても。ちゃんと自分の足で立てるように、がんばり続けたい。……この気持ちは、アスラさんたちと出会えたから生まれたものなの」
その言葉はか細かったが、その奥には、けっして消えない光が宿っていた。
アスラは、彼女に手を差し伸べる。
「めぐみさんなら、必ずできます。微力ながら応援させていただきますね」
「ありがとう」
めぐみは、その手を、ありったけの力で握り返した。
その力は弱々しくも温かい。
「はい。また、会いに来ます」
めぐみの手が離れても、そのぬくもりは消えなかった。その温度を感じながら、アスラは病室を後にしようとする。
しかし——。
「待って!」
その声にアスラは振り返る。
めぐみは右手を胸に当て、力強い瞳でアスラを見つめていた。
「何があったかは全然覚えてないんだけど……。でも、アスラさんが私を助けてくれた。そんな気がしてならないの。……ありがとう」
「……救われたのは、私も同じです」
アスラは改めて深く頭を下げた。
「これからもお互いに助け合っていきましょう」
その言葉を残し、彼女は今度こそ病室を後にした。
ひとり残されためぐみは、アスラが出ていったドアをしばらく見つめていた。そして、再び窓の外に目をやる。
空が、こんなに綺麗に見えたのは、いつぶりだろう。
先ほどまでの記憶は、曖昧な霧の中にあった。だが、胸の中には漠然とした温もりが残っていた。
その不思議な感覚に包まれていたときだった。
コン、コン。
病室のドアが、控えめにノックされた。
「どうぞ」
めぐみが応じると、ゆっくりとドアが開く。
そこに立っていたのは、青いパーカーのフードを深く被った、小柄な少女だった。
「だ、誰……?」
少女は、めぐみの問いに答えない。
ただ、フードの奥の暗い影の中から、桃色の髪と、幼く大きな瞳が見える。
少女はめぐみをじっと見つめていた。
糸を張ったような静けさの中、少女は病室の中へと足を踏み入れた。
◆
病院の正面玄関から出た瑞季、優菜、星輝は、空を見上げて大きなため息をついた。遠くからかすかにチャイムの音が響いている。五時間目が始まるのを無常に告げる音だった。
「あー……。五時間目、始まっちゃったね」
「もう間に合わないのは確定だし、いっそ、六時間目が始まるまで、そのへん、ぶらぶらしてく?」
「もう、星輝。さすがに先生が心配するし、できるかぎり早く帰って、ちゃんと謝ろう」
「いいことしたのに謝るってのも、なんか変な話だけどな。まあ、仕方ないか」
星輝がやれやれと肩をすくめる。その声は、以前までのそれよりも、どこか暗い。先日の一件から、まだ立ち直りきっていないようだ。あれ以来、瑞季たちはデシリアの話題に触れづらく、避けていた。
病院の敷地を出て、学校のある西側へと道を曲がったとき、三人の足が同時にぴたりと止まった。
すぐ先の白い壁に寄りかかるようにして、ひとりの女が紫煙をくゆらせていたのだ。
磐名式乃。
「よお。戦い、見てたよ」
磐名は大きくあくびをし、目を擦る。
「ここのところ寝不足でさ。本当は一日中寝てたかったんだけど、ちょっと興味が出てさ。……アンタたちは、ほんっとに綺麗事がお好きなんだねえ」
ためいき混じりの言い方だった。
その不遜な態度に、優菜が一歩、前に出た。
「あたりまえだよ。わたしの好きな物語のヒーローも言ってた。『綺麗事じゃ世界は救えないかもしれない。でも、綺麗事で救える心は、確かにある』って」
「——あのさあ!!」
突如として発せられた怒号が、平穏な街に響き渡る。
「誰々がこう言ってたとか! ああ言ってたとか! アンタは、そうやっていちいち他人の言葉を借りねえとテメエの意見も言えねえのか!?」
「……っ!」
「アンタを見てると反吐が出る。SNSの返信で、漫画のコマを得意げに無断転載してくるゴミどもを思い出して腹が立つよ。空っぽだから、他人の都合のいい言葉を借りるしか能がねえんだよなあ、アンタらみたいな奴は」
その残酷な指摘に、優菜は目を見開いたまま、何も言い返せなかった。
磐名は、そんな彼女の顔を、愉快そうに眺めている。
「ほら、言い返してみろよ。……できねえよな? アンタの頭の中には、他人から借りてきた、聞こえのいい綺麗事が入った引き出ししか、ねえもんな?」
磐名はタバコを咥え、煙を吸いながら、優菜のすぐ目の前まで、顔を近づけた。
そして、肺に溜まった紫煙を彼女の顔に向かって吹きつける。
「アンタみたいな絵に描いた優等生なんてのは、どいつもこいつも外見ばーっかり気にして、中身がねえんだよ。そういう無個性なガキが、アタシは一番嫌いだね」
磐名は満足したようにほくそ笑み、踵を返して去っていく。
「そ、そんな言い方ないでしょ!」
瑞季が叫ぶ。
「そうだ!」
星輝も声を荒らげる。
だが、その先が続かなかった。
胸の奥では反発している。なのに、言葉にならない。
磐名は振り返ることなく去っていき、あっという間に彼女たちの視界から消え去っていた。
「優菜、あんなやつのことなんて気にするなよ」
星輝がそう声をかけるが、返事はない。
「優菜?」
優菜は、その場に、ただ立ち尽くしていた。
「他人の……借りるしか……」
瞳から光が消え、空っぽの目で、足元のマンホールを見つめている。
磐名の言葉だけが、何度も何度も頭の中で反響していた。
——空っぽだから、他人の都合のいい言葉を借りるしか能がねえんだよなあ。
その言葉を否定することができなかった。……ずっと前から、自分自身でも薄々気づいていたから。
物語が好きだった。
ヒーローが好きだった。
いつも彼らの言葉を借りてきた。
その言葉たちは、確かに優菜の心を支えてくれた。
けれど——自分自身の言葉は、どこにあるのだろう。
わたしって……なに?
(第三十一話「夢から醒めても」了)
第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」2026/09/19 8:00投稿予定




