第三十一話「夢から醒めても」-5-
地面を蹴り、弾丸のような速さでスレイヴへと肉薄する。そして、両手に、圧縮した空気の刃を生成した。
「はあっ!」
鋭い呼気と共に、両手の真空の刃を高速で回転させながら、ブーメランのように投擲する。二条の白刃は螺旋を描きながら、スレイヴの装甲の継ぎ目——点滴スタンドとベッドが歪に融合した、もろそうな部分を狙った。
だが、スレイヴの反応は、その見た目にそぐわず速かった。
スレイヴは腕を変形させ、瞬時に巨大な鋼鉄の盾を作り出す。耳をつんざくような金属音が響き渡り、真空の刃は火花を散らしながら弾き返された。
リアウインズは咄嗟に風の壁を自身の前に展開する。
次の瞬間、風壁に無数の亀裂が走った。
一拍遅れて、その正体がガラス片の豪雨だったと知る。
「くっ……!」
風を貫くガラス片に、リアウインズは咄嗟に身を丸める。
すると、スレイヴがブルドーザーのような猛烈な勢いで突進してきた。周囲のベンチや植木をなぎ倒し、地面をえぐりながら粉砕する、直線的な破壊の奔流。
リアウインズは、冷静に、その動きを見切っていた。
彼女は、突進してくるスレイヴの頭上を、一枚の紙が風に舞うかのように軽やかに跳躍して回避する。
そして、すれ違いざま。
スレイヴの無防備な背中へ、極限まで圧縮した空気の塊を、零距離で叩き込んだ。
スレイヴの背中が、不自然に膨らんだ。
次の瞬間。
装甲の継ぎ目という継ぎ目から、爆ぜた空気が血のように噴き出す。
「ギ……ィィィ……!」
巨体が大きく前のめりに傾いた。
その光景を、ルフィトヴェルツェは満足げに眺めている。
「素晴らしい……。実に素晴らしい反応だ。だが、まだまだ。そんなものではこの子の真価は計れんよ。さあ、かわいい我が子よ。キミの本当の悲しみを、あの偽善者に見せてやるのだァ」
その言葉に呼応するように、スレイヴが天に向かって、甲高い絶叫を上げた。
その身体から、黒い感情の波紋が同心円状に広がっていく。そして、次の瞬間、病院の裏庭全体が、半透明の黒い球体状のフィールドに覆い尽くされた。
リアウインズの脳内に、何の脈絡もなく、膨大な情報が濁流となって流れ込んできた。
——痛い、痛い痛い痛い……! 身体が動かない。指先が震える。息が苦しい。なんで私がこんな目に……。もう嫌だ。疲れた。楽になりたい——。
それは、瀧本めぐみが長年の闘病生活の中で耐え続けてきた、痛みと苦しみ。
リアウインズは思わずその場に膝をついた。立っているだけで精神が削られていく。
「どうした、アスラ君。イヒヒ……。心地よい黒感情に、キミも身を任せてみないかい?」
その言葉に反応する余裕などなかった。
脳に直接響く、絶望のノイズ。
その中で、スレイヴが再び動き出す。
リアウインズは歯を食いしばり、立ち上がった。
「負けるわけには……いきません……!」
彼女は、力を右腕に集中させた。風のエネルギーが渦を巻き、凝縮され、巨大な三日月の形をした斬撃へと、その姿を変える。
対するスレイヴもまた、その腕を、しなる巨大な鋼鉄の鞭へと変形させ、リアウインズを叩き潰さんと、大きく振りかぶった。
「はあああああっ!」
風の斬撃と、鋼鉄の鞭が、空中で激突する。
勝てる——リアウインズは、そう確信した。自分の技の方が、威力も速度も、わずかながら上回っている。
だが、次の瞬間、その確信は絶望に塗りつぶされた。
再び、めぐみの心の叫びが、津波のように押し寄せてきたのだ。
——もう、がんばれない。がんばりたくない。いっそ、このまま——。
その声に、リアウインズの攻撃の手が鈍った。
彼女を救うための一撃が、彼女のか細い願いを打ち砕いてしまうのではないか、と。
ほんのコンマ数秒の躊躇い。
だが、致命的な一瞬。
凄まじい衝撃波と金属音が、周囲に響き渡った。
結果は相打ち。
スレイヴの腕は、半ばから無残に切断された。だが、リアウインズもまた、衝撃波の余波をまともに受け、近くの壁へと強く叩きつけられていた。
「がっ……は……!」
口の中に、鉄の味が広がる。
朦朧とする意識の中、リアウインズは初めて、スレイヴのはっきりとした心の声を聞いた。
《私……歩いてる?》
思いもしない一言だった。
スレイヴから聞こえる声は、黒感情そのものであるはず。しかし、その気持ちは、ただの黒感情とは言い難い、異質なもの。
《私、歩けてる……。自分の足で……ちゃんと前に進めてる》
黒い涙を流し続けるモニターの中で、めぐみは微笑んでいた。
《もう転ばなくていい。手すりを掴まなくても、誰かに支えてもらわなくても……! 行きたい場所に、自分で行ける!》
その声は、幸福そのものだった。
リアウインズの胸が締めつけられる。
彼女にとっては当たり前のこと。
歩くこと。
走ること。
転ばないこと。
それらすべてが、めぐみにとっては願い続けた奇跡だった。
《好きな服を着てウインドウショッピングをしたい! 旅行もしたい! 恋をして、好きな人と手を繋いで歩きたい!》
次第に弾んでいく声。
リアウインズには、どう声をかけていいのか分からない。
「キミは今、美しく、力強く歩いている」
そう答えたのは、ルフィトヴェルツェだった。
「ワタクシがキミを救ってあげたのさ。しかし——これは残念ながら夢。目が覚めれば、また震える身体に元通り」
残酷な現実に、モニターに映る眉が曲がる。
《夢……?》
「醒めたくはないだろう?」
《夢……。そっか、夢か。もう、戻りたくない。……また震えるんだ。転ぶんだ。迷惑をかけちゃうんだ。旅行も恋も、もうできないんだ……》
ひとつひとつの言葉が、鉛のように重かった。
《なんだか、疲れちゃった。もうがんばりたくない》
黒い涙が、モニターの中の頬を伝う。
《この夢が終わるくらいなら……またあの現実に戻るくらいなら……お願いだから》
短い沈黙。
そして——。
《——私を殺して》
時間が止まった。
呼吸すらも忘れる。
虫や鳥すらも、動くことをやめていた。
「……」
あまりに静かな時の中、リアウインズは自問自答する。
このスレイヴを浄化することは、本当にめぐみさんを救うことになるのでしょうか――。
彼女が葛藤に身動きが取れなくなる中、再生を始めたスレイヴが襲いかかろうとしていた。
反応が遅れる。
もう、避けられない——。
そう覚悟した瞬間、目の前を、青と赤の閃光が駆け抜けた。
水の壁がスレイヴの攻撃を受け止め、炎の弾丸がその巨体を弾き返す。そして、純白の流星が天から舞い降り、強烈な蹴りでスレイヴを弾き飛ばした。
「お待たせ、ウインズ!」
リアハイリン、リアマイム、リアスピサ。
三人の仲間たちが、そこにいた。
「みなさん……! どうして」
「ちょうどお昼休みだったの。ヒナが気づいてくれてね」
リアハイリンは優しく微笑んだ。
だが、その表情は、すぐに苦しげなものへと変わる。先ほどまでリアウインズを苛んでいた絶望の感情が、この場にいる、すべてのデシリアの胸の中へ浸透していく。
——同年代の友達は、恋をして、仕事をして、旅行して、新しい何かを手に入れていく。私は、薬の副作用に悩まされ、通院のスケジュールを気にして、歩く速度さえ遅くなっていく。悔しい。情けない。寂しい。何よりも——怖い。この先、私はどうなってしまうんだろう。恋愛だって結婚だって、本当はしたい。でも、こんな私を受け入れてくれる人なんて、いるのかな——いないよね——。
リアマイムとリアスピサの顔が、流れ込んでくる苦しい感情に、悲しく歪んだ。
「なに、これ……」
「もしかしなくても、今回のスレイヴの素体の黒感情だよな」
リアハイリンもまた、その感覚に既視感を覚えていた。
「これ……この前、未来の私から黒感情を流されたときの感覚に似てる……」
「イヒヒ……」
ルフィトヴェルツェの不気味な笑い声に、リアハイリンたちが、はっと顔を上げた。
「誰だ、てめえ」
リアスピサが警戒を露わに睨みつける。
「詳しくは、後でお伝えします。ヴォイズ・アークの一員で、今回の召喚主です」
リアウインズがかろうじて説明する。
ルフィトヴェルツェは、まるで舞台役者のように、高らかに笑った。
「おやおや。自己紹介は要らないようだねェ。まあ、ワタクシはキミたちにはさして興味がないから好都合サ」
その不気味な男の姿に、リアハイリンは表情を歪めた。だが、すぐに思考を切り替え、仲間たちへと向き直る。
「行こう! 今は、素体の人を助けなくちゃ!」
「待ってください!」
リアハイリンたち三人を、リアウインズが引き止めた。
そして、自らの葛藤を、震える声で打ち明ける。
「めぐみさん——素体の女性は、不治の病の闘病をしている方です。症状はまだ軽度なので、命の危機に瀕して亡くなってしまうということはありませんが、日々、少しずつ自分の身体が不自由になっていくことに、めぐみさんは怯えています。そして……もう楽になりたいと、願っています」
言葉を発する度に、喉が重たくなっていく。まるで筋肉が骨に変わっていくような痛み。それでも、リアウインズは、自分の心から溢れ出る言葉を、抑えることはできなかった。
「私たちがスレイヴを浄化しても、苦しい闘病生活は続くことになります。しかし、このままスレイヴとして力尽きれば……」
今にも、涙が溢れ出してしまいそうだった。それを下瞼の裏で堰き止めながら、リアウインズは続ける。
「——私には分からないのです。本当に浄化すべきなのか。ここで救うことは、ただの偽善なのではないでしょうか……」
その問いかけに、リアハイリンたちは返す言葉を見つけられず、ただ、互いに顔を見合わせることしかできなかった。
その沈黙を、ルフィトヴェルツェの甲高い嘲笑が、切り裂いた。
「さあ、どうする、デシリア! 彼女を解放することで、終わりのない生き地獄を続けさせるのか? それとも彼女を自由に暴れさせて、楽に死なせてあげるのか? イヒヒヒヒ!」
助けたい。でも、彼女は死を望んでいる。
どうすればいいのか。
何が、本当の『救い』なのか。
四人は誰ひとりとして、すぐには動けなかった。




