第三十一話「夢から醒めても」-4-
断りなく開けられた引き戸の向こうには、ひとりの男が立っていた。
よれた白衣を纏い、猫のように背中を丸め、ねっとりとした視線で室内を窺っている。その白衣は、この病院の医師や看護師が着る清潔なものとは明らかに違っていた。長年研究室に籠もってきた者だけが纏うような、薬品の染みと不潔な匂い。
男が室内へ足を踏み入れた瞬間、アスラの全身の肌が粟立った。
「だ、だれ……?」
めぐみが怯えた声を漏らす。
アスラは静かに椅子から立ち上がった。そして、めぐみのベッドを自らの背で庇うように、男の前へと立ちはだかる。
「ここは瀧本さんの個室ですので、無関係な方はご遠慮——」
「イヒヒ……」
男は、アスラの言葉を遮るように、軋むような笑い声を上げた。その視線は、値踏みするように、アスラの全身を頭の先からつま先まで舐め回している。
「キミはワタクシを知らないだろうがねェ。ワタクシはキミのことをよぉく知っているよォ、アスラ君」
その言葉を聞いた瞬間、アスラの中で、点と点が繋がった。
この男は、自分たちが身を投じている戦いの渦中にいる存在なのだと。
「あなたは……」
「ワタクシは、ルフィトヴェルツェ」
男は自分の名を誇るように、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「!」
アスラの表情が強張った。
「おやおや、しがない科学者の名前くらいはご存じかね。これはこれは、実に光栄だ。イヒヒ、イヒヒヒ……」
ルフィトヴェルツェ。
ジンと共にスレイヴを開発した科学者だ。ヘヴンにいた頃、人との会話の中で何度かその名を何度か耳にしたことがあった。そして、ジンとの最後の戦いの中、彼の記憶を通して、アスラは確かにその姿を見ていた。
だが、記憶の中の姿と比べ、目の前の男は明らかに老け込んでいた。その顔には深い皺が刻まれ、瞳の奥には狂気の色が淀んでいた。
「私に用があるのであれば、外でお話をお聞きします」
「その必要はない」
ルフィトヴェルツェはアスラの提案をあっさりと一蹴した。
「無関係のモノの記憶なぞ、消してしまえばいいだけサ」
「え」
アスラが声を漏らすと同時に、男は背中に回していた左手を、その身の前に持ってきた。その手には、鈍く光る水晶を握られている。
それが何を意味するのかは、考えるまでもない。
「めぐみさん!」
振り返るが、もう遅い。蛇に睨まれた蛙のように、めぐみの視線がその不吉な輝きに吸い込まれていた。
強い黒感情を持つ者が、それを見てしまったが最後。
アスラの叫びは、もう届かない。
ルフィトヴェルツェが、恍惚とした表情で、詠唱を口にする。
「『水晶よ、黒を架けろ』」
その瞬間、めぐみの上半身が風船のように膨れ上がった。そして、彼女の全身から黒い霧が噴水のように激しく吹き出す。その姿は、一瞬にして黒い感情の濁流の中へと、かき消された。
部屋中を嵐のように吹き荒れる黒い感情が、次々と水晶へと吸い込まれていく。その勢いは、第二世代のそれとは比較にならないほど激しく、暴力的だ。まるで、魂ごと肉体からむしり取っているかのよう。
そして、部屋中を覆い尽くす黒感情の中で、病院のベッドや点滴スタンド、心電図モニターまでもが、ひとりでに震え始めた。それらが、磁吸い寄せられるように黒い霧の中心へと集まり、融合し、再構築されていく。
やがて病室に現れたのは、天使のようであり、悪魔のようでもある、禍々しくもどこか神々しい、異形の怪物だった。
ベッドのシーツは純白のドレスのように変形し、その本体を覆っている。点滴のチューブは、まるで彼女を縛る鎖か、あるいは涙の跡のように、その体中からだらりと伸びていた。本体の胸部には、安らかな表情で眠るめぐみの顔がモニターとなって映し出されている。しかし、その閉じた瞳からは、黒い涙のような液体が絶えず流れ続け、モニターの下からぽたぽたと滴り落ちていた。
身長は三メートルほどもあり、病室の天井よりも高い。そのため、窮屈そうにその首を、こきりと傾げていた。
「めぐみさん!」
「イヒヒ……。我が子よ、ここは窮屈だろう。さあ、外で思う存分遊んでくるがいい」
スレイヴはその言葉に従い、病室の窓ガラスを轟音と共に突き破り、外へとその身を躍らせた。
「これで邪魔な第三者が消えたな。さあ、ゆっくりと話そうではないか、アスラ君。聞きたいことがあれば、なんでも聞いてくれ」
ルフィトヴェルツェのねっとりとした視線が、再びアスラへと向けられる。
気になることはたくさんあった。
ジンに次ぐヘヴンの天才科学者が、どうしてここにいるのか。
あのスレイヴは、いったい何なのか。
彼の目的は何なのか。
「……」
彼を問い詰めたい。すべての情報を引きずり出したい。
だがスレイヴを、めぐみを、このまま放ってはおけない。
「話は後です」
アスラはそう言って唇を噛み締めると、腰のポーチからデシリル・アンプを取り出し、強く握りしめた。そして、薄黄色のデシリル・ジェムをデシリル・アンプに装着する。
黄金色の光が病室を満たすと、神々しい輝きを放つひとりの戦士が化現した。
「『デシリアの 神風放つ魂は 如何なる者にも止められない。吹き抜ける心、リアウインズ!』」
「おお……こうして近くで見ると、なかなか美しいではないか」
リアウインズへと変身したアスラは、そう呟くルフィトヴェルツェに目もくれず、スレイヴが飛び出した窓の外へと、その身を投じた。
リアウインズが降り立った病院の裏庭では、突然の怪物の出現に、人々がパニックに陥り逃げ惑っていた。
だが、スレイヴは暴れる様子を見せない。自分の身体をうまく動かせないのか、足を引きずりながら、ゆっくりとさまようだけだった。
リアウインズの後を追って、いつの間にかルフィトヴェルツェも裏庭に降り立っていた。
「美しいだろう? あれこそが、二十年もワタクシが求め続けた、至高の芸術だ」
彼は、まるで我が子を自慢するかのように、うっとりとスレイヴを見つめている。
「ジン君は、スレイヴをただの兵器としてしか見ていなかった。第二世代など、他人から力を拝借するだけ。第三世代を誕生させたものの、彼はスレイヴのさらなる進化を望まなかった。なんと愚かなことか……。だが、ワタクシは違う。力を他者からちょいと拝借するだけでなく、心すべてを黒感情に変換させてエネルギーを増幅し、さらに周囲の無機物と融合させることで、その者をひとつの芸術作品として昇華させたのだ!」
「芸術……?」
リアウインズは拳を強く握り締め、ルフィトヴェルツェを睨みつけた。
「あなたは、人の心をなんだと思っているのですか……!?」
「イヒヒ……心など、単なる電気信号だよ。人の内にあるだけでは価値はない。しかし、私はそれをスレイヴとして具現化することで、単なるエネルギーさえも甘美な芸術へと変貌させた……! スレイヴとは、苦しみからの解放なのだよ。分かるかね? これは救済なのだ。すべてのエネルギーを激しく消費するワタクシの第四世代スレイヴは、第二スレイヴよりも遥かに寿命が短い。その短い命を美しく輝かせながら暴れ、そして、痛みもなく死に至る……! イヒヒ……生という苦痛から逃れる術として、これほど素晴らしいものはないと、キミも思うだろう?」
歪んだ理想を狂気的に語るルフィトヴェルツェ。
アスラは唇を噛み締めた。
これほど、理解のできない冒涜的な理論があるのか、と。
そして、この男の好きにやらせてはいけない、と。
瑞季たちは今頃、学校にいる。もしヒナが彼女たちの側にいなければ、スレイヴの登場に気づくこともできないだろう。そうでなくとも、そう簡単に学校を抜け出せるものでもないはずだ。
自分ひとりでどうにかしなければ。
リアウインズはスレイヴの——めぐみの、黒い涙を流し続ける寝顔を見つめる。
「めぐみさん。必ずあなたを助けます!」
リアウインズは成すべき贖罪を、その胸に強く誓った。




