第三十一話「夢から醒めても」-3-
夏休みが終わり、優菜が平日のお昼に家を開けるようになってから、アスラは優菜たちにも内緒で、あることを始めていた。
総合病院でのボランティア活動。
車椅子のお年寄りを、中庭の散歩に連れて行く。小児病棟で、退屈している子供たちの話し相手になる。看護師たちの細々とした雑務を手伝う。
それは、贖罪のつもりだった。
誰かの役に立つことで、自分の犯した罪を少しでも償えるのではないか、と。
そうでもしなければ、自分がこの世界で笑って暮らしていることを許せそうになかったのだ。
「アスラちゃん、いつもありがとうね。助かるわ」
「いえ……。好きでやっていることですから」
患者や病院のスタッフから感謝の言葉をかけられるたびに、アスラの心は温かい気持ちと、それと同じくらいの罪悪感で満たされた。
これは、ただの自己満足なのではないか、と。
「次は、瀧本さんのお散歩だっけ」
少しふくよかなスタッフの女性から声をかけられる。
予定は全て頭に入っているアスラは即答した。
「はい。今から訪ねる予定です」
昼下がり。アスラは瀧本めぐみが乗る車椅子を、ゆっくりと押していた。
ふたりがやってきたのは、病院の中庭だった。
そこは、まるで切り取られた小さな森のような空間だった。中央には、ささやかな噴水が涼しげな水音を立て、その周りを囲むように、色とりどりの花が咲き誇る花壇が整備されている。花が開き始めたキンモクセイの甘い香りが、まだ夏の暑さを残す空気に、秋の訪れを告げていた。木々の葉は、日に日にその色を深め、木漏れ日が地面に穏やかな模様を描いている。ベンチでは、数人の患者や見舞客が、静かに午後のひとときを過ごしていた。
「少し、涼しくなってきましたね」
アスラは、車椅子に座る女性——瀧本めぐみの、艶やかな黒いボブカットの頭頂部に、優しく話しかける。
「そうだね。まだまだ空気は暑いけど、風はちょっと秋めいてきたよね」
その声は、爪の先で触れただけで、はらりと崩れてしまいそうなほど、儚げだった。車椅子の肘掛けに置いた指先が、小さく震えている。
めぐみはアスラより十歳ほど年上だが、その童顔と華奢な体つきのせいで、一緒にいると同じ年頃に見られることも少なくなかった。
彼女は先々週に転倒して股関節を骨折し、それ以来、車椅子での生活を送っている。ちょうどアスラがボランティア活動を始めた頃に入院してきた患者であるため、アスラは彼女のことを特に気にかけていた。ただし、彼女は別の病気のため、ずっと前からリハビリのために通院しており、周囲の看護師たちは顔馴染みだったらしい。
「こうやって外に出ると、やっぱり気持ちいいね」
「入院前は、よくお出かけされてたんですか?」
「うん。昔は旅行が趣味だった」
めぐみは空を見上げた。
「アスラさんは、自分のこと聞かれるの、嫌だったりする?」
「いいえ。なにか聞きたいことがあるのですか?」
「うん。前から、ちょっとだけ気になってて。アスラさんって医学生さん?」
「いいえ。ただの大学生です」
アスラは淀みなく答えた。
まだ十五歳だが、平日の昼間に病院でボランティアをしているという不自然さを解消するため、院長の提案で、少し大人びて見える容姿を活かし、十八歳の大学生ということにしていたのだ。
「だよね。あまり医療に詳しそうだったり、興味津々なように見えないもん」
めぐみがそう言ってくすりと笑うと、アスラもつられて、わずかに口元を緩ませた。
「私には医療は難しくて。怪我の応急措置などは、故郷で何度もしたことがあるのですが」
「へえ。やんちゃな兄弟がいたとか?」
姉、ナーサ。彼女は『やんちゃ』だっただろうか。
頭に血が昇りやすいところはあった。だが、軋轢が生まれる前に暴力を振るわれたことは一度もなかった。周囲の大人に反抗的な態度をとっている姿さえも見たことがない。
自分が思っていた以上に、自分は姉のことを知らない。
その事実に今更ながら気づかされる。
「まあ……そんなものですね」
アスラは、曖昧に答えることしかできなかった。
「でも、それが、どうかなさいましたか?」
「どうってわけじゃないけど、病院にボランティアとかアルバイトで来てくれる子って、将来の夢がお医者さんとか看護師さんとかって子が多いから。アスラさんは、ちょっと変わってるな、って」
「変わって、いますか」
「うん。でも、そういうところが、私は好き」
めぐみは上半身をゆっくりと捻り、アスラに柔らかな笑顔を見せた。その頬にできる深いえくぼは、彼女の朗らかさを引き立てると同時に、病によって少し痩けた頬のラインを、痛々しいほどに際立たせていた。
「お医者さんになりたい子はね、珍しい症例の私を実験体みたいな目で見ることがあるから。アスラさんには、それがない。ただ純粋に、隣にいて、寄り添ってくれる」
実験体。
その言葉の重みに、胸がずきりと痛んだ。
めぐみをそのように思ったことは一度もない。だが、彼女が股関節骨折よりもずっと前から患っている『若年性パーキンソン病』という難病は、医療を志す学生にとっては学術的な興味の対象なのかもしれない。
「ありがとうございます。寄り添おうとしているつもりではあります」
「ほんと、日本語上手だね。私より上手なんじゃないかな?」
「恐れ入ります」
「ふふ、『恐れ入ります』は咄嗟には出てこないよ」
めぐみはくすくすと笑う。
笑わせようと思ったわけではないが、彼女を少しでも笑顔にできたことは、純粋な救いだった。同時に、自分の日本語力が、この世界では未知の技術による機械翻訳によるものであることが、後ろめたくもあった。
「かわいいなあ、アスラさんは」
唐突な、子供にするような褒め言葉が恥ずかしくて、アスラの額にじわりと汗が滲んだ。その様子を見て、めぐみは「あ、ごめんごめん」とはにかんだ。
「そろそろ病室戻ろうかな」
車椅子を押して入院病棟に戻り、エレベータでめぐみの病室のあるフロアまで昇ると、めぐみは「自分で車椅子を動かしたい」と言った。アスラは頷き、彼女の隣をゆっくりと歩きながら、めぐみの横顔を見つめる。そこには『必ず自力で歩けるようになる』という意志が宿っていた。
病室の扉をアスラが開け、めぐみが頭を下げて入っていく。
「ありがとう」
「ベッドに戻りますか?」
「うん。自分で戻る」
めぐみはゆっくりとブレーキをかけ、小さく息を吐いた。動作ひとつひとつに集中しているのが伝わる。
アスラは何も言わず、静かに見守っていた。
めぐみは慎重にベッドへ腰掛け、脚を掛け布団の下に潜らせた。それから、ふと視線がベッド脇の棚に置かれたリモコンへと向かう。
「テレビをつけましょうか?」
「うん、お願い」
アスラはリモコンを手に取り、いくつかのボタンを押して電源を入れた。二十四インチのテレビ画面が明るくなり、楽しげな音楽とともに映像が映る。アスラはベッドのそばに置かれた丸椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろした。背筋を伸ばしたまま、めぐみと同じ画面を見つめる。
病室のテレビでは、隣県で開催されているカレーフェスティバルの、賑やかな中継が始まった。祭りの会場では、色とりどりの屋台が並び、湯気と香辛料の香りが画面越しにも伝わってくるようだった。
画面の向こうでは、大きなカツを豪快に頬張る来場者が笑っている。
めぐみは震える手で喉を撫でていた。最近は病気に加え、薬の副作用で食事にも時間がかかるようになっていた。
画面の中で女性レポーターがイベントの概要を伝えた後、来場者へのインタビューが始まった。彼女は、その場にいたひときわ目立つ、ひとりの白人女性にマイクを向ける。
その顔を見て、アスラは思わず息を呑んだ。
カスパールだった。
〈わあ、すごい! とっても美味しそうに食べますね! どちらから、お越しになったのですか?〉
〈ああ。とても遠い国からだ〉
〈日本にはいつから訪問されているのですか?〉
〈ときどき来ている。直近で来た日という意味であれば、今朝だ。この日のために休暇を取り、遠路はるばる国境を越えてやってきた。今日は浴びるほどカレーを堪能し、このエネルギーで明日からの職務に改めて励んでいきたいと思っている〉
堂々とした大袈裟で胡散臭いコメントに、レポーターは苦笑いを隠せないでいた。
アスラが思わず、ふっと口元を緩ませると、めぐみは「あの人、絶対ヤラセだよ」と笑った。
「カレーのために日本に日帰りで来るとか、ありえないでしょ。もうちょっと自然な台本渡せばいいのにね」
アスラは苦笑いで応える。おそらく、カスパールは一ミリも嘘をついてはいないだろう。
精霊を恨む故郷の人々と精霊たちとの架け橋として、板挟みになる困難な役目。それでも彼女は、こうして元気でやっている。その事実に、アスラの心が少しだけ温かくなる。
だが、その温もりは、すぐに冷たい闇にかき消されてしまった。
どんなに、人の役に立っても。
どんなに、感謝されても。
どんなに、笑っても。
心の奥底に沈殿した罪の意識が、消えることはない。
この息苦しさを、カスパールさんも感じているのかな——。
心の中で呟く。
何十年もの間、戦場で戦い続けてきた彼女だ。自分など比べものにならないほど多くの命と向き合ってきたはず。
……それでも前を向いて歩けるのは、私の知らない強さがあるからなのでしょうか――。
アスラは、中途半端に精霊の支配に関わり、中途半端に無の邦の侵略者となった。スレイヴの召喚も瑞季たちへの潜入も、すべて仕事だと自分に言い聞かせ、人を傷つけた事実から目を逸らし続けている。
「——ねえ、アスラさん」
突如声をかけられ、思考は現実へと引き戻された。
めぐみはアスラの方を見てはいなかった。ただ、寂しそうな目で、テレビに映る湯気の立つカレーを、ぼんやりと眺めていた。
「はい」
「私ね……ううん、なんでもない」
「?」
めぐみは力なく苦笑し、ようやくアスラに顔を向けた。その頬は痩け、目尻には細かな皺が寄っている。そして、彼女の右手の指先が震えている。それが、彼女の意思による震えなのか、病気によるものなのか、アスラには判断できなかった。
「ごめんなさい、忘れて。……お医者さんでもなんでもないアスラさんに言うような愚痴じゃないから」
見ているだけで胸が締め付けられる笑顔だった。楽しい話をしたい、明るく振る舞いたい、という気持ちと、その裏で渦巻く絶望との間で、引き裂かれそうになっている顔。少しずつ自分の身体から自由が奪われていく恐怖。未来への希望のなさ。そのすべてを作り笑いの下に隠して。
その表情を見て、思う。ジンによる、黒感情が見えるようになる手術を受けなくてよかった、と。めぐみや周囲の人々が背中に隠す黒感情を、見たくなかったから。
「私でよければ、なんでもお聞きしますよ。お医者さんじゃないので、何も解決はできないかもしれませんが」
アスラは微笑んだ。
「お話したくなったら、いつでも気軽に話してくださいね」
「うん。ありがとう、アスラさん」
めぐみは、そう言ってテレビへと視線を戻した。
その言葉を最後に、ふたりの間に沈黙が流れ続けた。
ノックもなく、病室の引き戸が開かれるまで。




