第三十一話「夢から醒めても」-2-
コン、コン。
無機質な金属のドアを、黒瑞季は軽くノックした。返事はない。だが、彼女はそれを意にも介さず、躊躇なくドアを開けた。
室内に満ちていたのは、薬品のツンとした匂いと、機械油の匂い、そして得体の知れない何かが焦げる、甘ったるい悪臭だった。壁一面に設置された巨大なモニターには、常人には理解不能な数式や設計図が、目まぐるしく表示されては消えていく。
そのモニターの前に、ひとりの男が、猫背で座っていた。
白衣は黄ばみ、白髪混じりの髪は寝癖なのかあるいはただ無頓着なだけなのか、あちこちが鳥の巣のように跳ねている。丸い眼鏡をかけた五十歳ほどの老人——ルフィトヴェルツェは、モニターの光に照らされた顔を、こちらに向けようともしない。
「キミはパンを焼くかね?」
「……何?」
「ワタクシは真っ黒に焦げるまで焼くのが好きなのさ。民衆が好んで辿り着かない先に待つ苦味がたまらなくてね。イヒヒ……」
その声は乾いていて、まるで砂を噛むようだ。
「この部屋にトースターはないようだが」
「ワタクシがそんな平凡なモノでは焼くわけなかろう。……ところで、あの『異例のデシリア』は、まだ見つかっていないようだなァ。まあ、このワタクシには、あんな小娘など眼中にないのだがね。それにしても、まだ見つけられんとは、キミも案外小物だねェ」
「……」
黒瑞季は何も答えず、革張りのソファに座った。内部のスプリングが低く呻き、革の皺の間から、埃とカビじみた薬品の匂いが舞い上がった。
テーブルの隅には、解剖されたぬいぐるみが無造作に積まれている。もはや原型を留めないそれらの中に、猫の耳のようなものが混ざっていた。
「リアハイリン君。なにか飲み物でも入れようかね?」
「結構だ。この部屋にあるものなど、不気味で飲めたものじゃない」
「イヒヒ……言えてるね」
ルフィトヴェルツェはキーボードを叩きながら続ける。
「『異例のデシリア』は、どうせ、あのヒナとかいう空の精霊のぬいぐるみの中にでも隠れているんじゃないのか?」
「それなら、私のヒナが否定している」
黒瑞季は淡々と答えた。
「ひとつのぬいぐるみに、ふたつ以上の魂が入ることは可能だ。ただの人間ならぬいぐるみに入ることなどできないが、『異例のデシリア』である神辺穹であれば、それも可能だろう。だが、精霊には魂の光が見える。あのヒナの中には、間違いなくひとつの魂しかなかったそうだ」
「どうだかねえ」
ルフィトヴェルツェは、初めてキーボードを叩く手を止めた。そして、ギギギ、と油の切れた機械のような音を立てて、椅子ごと振り返る。白目は黄色く濁っているが、瞳だけが年齢という概念から切り離されたように異様な輝きを放っていた。
「ワタクシには、やはり精霊という生き物が信用できん」
「あなたがどう思おうと、ヒナは私の相棒だ。私は信じている」
「結構なことだ」
「ところで、あなたが三度の飯より大好きな、実験の方はどうだ?」
黒瑞季は、彼の猜疑心を受け流すように、話題を変えた。
ルフィトヴェルツェの口元が、醜悪に歪んだ。
「順調だよォ。目的のエネルギーが貯まるまで、まだまだ時間はかかりそうだけどねェ」
彼は立ち上がると、デスクから白衣の手のひら大の水晶をひとつ掴み取った。
「気分転換に、今日はワタクシが出向いて差し上げようと思うのだが、問題はないかね?」
「ほう。問題はないが、どういった心変わりで?」
「なぁに。たいしたことじゃないサ」
ルフィトヴェルツェは水晶を弄びながら、爬虫類のような笑みを浮かべた。
「そろそろ、ジン君の秘蔵っ子にご挨拶をしておくべきかと思ってねェ。ワタクシのシナリオの主役である、彼女にね。イヒヒ、イヒヒヒ……」
粘つく笑いだけが、薄暗い研究室をゆっくりと満たしていった。




