第三十一話「夢から醒めても」-1-
九月も折り返しを過ぎた頃。
日が沈むのが早くなってきたのを、キッチンの小窓から眺めつつ、アスラは優菜の家で穏やかな日常を送っていた。
キッチンに漂う、醤油と出汁の香ばしくい香り。異国の香りなのに、どこか懐かしい。
「アスラちゃん。火を少し弱めてくれる?」
「はい、お母さま」
月音優菜の母に教わりながら、アスラは慣れない手つきで肉じゃがを作っていた。じゃがいもの皮を剥き、にんじんを乱切りにし、玉ねぎで目に染みるのをこたえる。ヘヴンに来てから料理は毎日のように行っていたが、この家庭で行う作業はひとつひとつが新鮮で温かい。
ヘヴンにいた頃の食事は、ただ生きるための栄養補給でしかなかった。それが、今では彩りと愛情に満ちている。故郷で暮らしていた頃や、ジンが心を失う前の温かな日々が思い出され、ふと、瞳が潤んでしまうことさえあった。
完成した肉じゃがを、夕食前におそるおそる口に運ぶ。
繊細で優しい味わいに、アスラは思わず目を見開いた。
「……おいしい、です」
その優しい味に胸が温まった。
——私はこんな幸せな場所にいていいのでしょうか。
その問いが、脳裏をよぎってしまう。
「あら、よかったわ。アスラちゃんの故郷のお料理も、今度教えてちょうだいね」
優菜の母の何気ない言葉。それが、アスラの胸に、ちくりと小さな棘のように刺さった。
故郷。自分の帰るべき場所。
姉ナーサは、今どこで何をしているのだろうか。
姉のことを考えるたび、心の闇から過去の記憶が亡霊のように蘇る。
瑞季たちを騙して潜入し、映画を見に行ったあのとき。ナーサがスレイヴを召喚し、瑞季がそちらへ向かった後、アスラも瞬間移動で追いかけ、スレイヴを召喚したあの日のこと。スレイヴを召喚したのは、あの一度だけだった。姉が騒ぎを起こし、人々が避難した後で召喚したため、アスラは直接人々を傷つけたわけではない。しかし、人の気配がなくなった大通りからは、逃げ惑う人々の残像が見えてしまった。そして、その罪悪感を、すべて姉が肩代わりしてくれたことも。
姉を救うことはできなかった。自分が未熟だった故に、最後まで分かり合えなかった。……最後の戦いで、手を伸ばしてくれていたのは、むしろ姉の方だった。
あのときをもう一度やり直したい。やり直してもうまくいく自信はないけれど。
「——アスラちゃん?」
優菜の母から尋ねられ、アスラはハッとする。
「あ、いえ。すみません。ぼーっとしてました」
「そう。あまり無理はしないでね」
「お心遣いありがとうございます」
アスラが頭を下げると、優菜の母は少し困ったように笑った。
「そんなに固くならなくていいのよ。アスラちゃんが初めてうちに来たときに、お父さんが言ったように、わたしたちはあなたを家族として迎えているの。お父さんは役に立ってくれ、とは言ってるけど、あまり無理して手伝ってくれなくてもいいのよ。お勉強や、優菜のかるたのサポートだってしてるんでしょ?」
「サポートというよりは、私が楽しんでいるだけです。……優菜さんに迷惑をかけてないかと、不安に思っています」
「そう? 優菜はすごくありがたがってたわよ。全国大会の切符も手に入れたし」
優菜は以前にも増して真剣にかるたに向き合っていた。その結果、この夏の間に県大会を勝ち抜き、全国大会へ出場することが決まったのだ。それから優菜は一層練習に熱が入っており、アスラはその手伝いをしている。
「何より優菜、今まで以上に楽しそうだから。本当に、ありがとうね」
優菜の母の言葉を聞き、アスラの口元が自然と緩んでいく。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
「明日も、いつものボランティア?」
その問いかけに、アスラは周囲に優菜の気配がないかを探ってしまう。一時間ほど前に帰宅して二階の自室に戻った優菜は、まだリビングのある一階に降りてきてはいないらしい。
「はい。行ってまいります」




