第三十話「正義と救済の境界線」-6-
「あなたたちは彼女を救うために、この町を犠牲にしなければなりませんね」
凪宮がそう言った途端、スレイヴが吠えた。
鉄の塊と化した巨体が、崩れかけたスクラップの山を薙ぎ払いながら突っ込んでくる。リアマイムが水の壁を立て、リアウインズが風を叩き込む。
リアスピサも炎を噴き上げ、真正面から迎え撃つ。
「ウチは絶対に町を守る。陣頭だって、救ってみせる!」
凪宮が笑顔で問いかける。
「どうやって?」
「……っ」
答えが出なかった。
目の前では、陣頭の身体を呑み込んだスレイヴが、まだ暴れている。助けたい。それは決まっている。けれど、そのために何をすればいいのかが、見えない。
「二兎を追う者は一兎をも得ず、ですよ」
凪宮の声だけが、妙に静かだった。
「町を守るのか。彼女を救うのか。どちらも選びたいなどと欲張れば、どちらも失うことになるかもしれませんね」
「危ない!」
リアハイリンの叫び声に振り返る。目の前に、鉄の巨体が迫っていた。
「ちっ……!」
リアスピサは逃げなかった。
両腕を交差させ、炎をまとった身体でスレイヴの突進を受け止める。地面が足元から削れていく。それでも踏みとどまった。
「ウチは……ヒーローだ!」
歯を食いしばり、両腕に力を込める。炎が一段と激しく燃え上がり、押し込まれていた巨体が、ほんのわずかに後退した。
「絶対に、おまえを救ってみせる!」
そのとき、スレイヴの身体の奥から声が響いた。
《何がヒーローだ。うぜーよ。失せろ》
鉄の巨体が不意に膨らんだ。
「っ!」
球体のように丸まった身体から、一本の鉄の腕が突き出す。
リアスピサは咄嗟に身を引いたが、避けきれない。生え出た金属の腕に殴られ視界が激しく揺れた。気がつけば、地面を転がっていた。
「スピサ!」
球体と化した巨体が、坂道を転がるように、リアハイリンたちへ猛スピードで突っ込んでくる。リアマイムが咄嗟に水流を叩きつけ、リアウインズが横から強風をぶつける。鉄の巨球がわずかに軌道を逸らした。
「今!」
リアハイリンが踏み込んだ。
風と水に押さえ込まれた一瞬、白い脚が大きく振り抜かれる。踵が鉄の巨体を正面から捉え、そのまま十数メートル先まで蹴り飛ばした。
大きくよろめいたスレイヴの身体が、ついに球形を保てなくなる。
四肢が投げ出され、鉄屑の身体が地面へ崩れ落ち、大地を揺らした。
《もっとだ……もっと壊させろ……!》
スレイヴは起き上がろうとした。だが、腕が途中で止まった。肩を形作っていた鉄板が、ずるりと滑り落ちる。背中を覆っていたボルトやパイプも、支えを失ったように次々と地面へ落ちていった。ガラガラ、と乾いた音が足元に積み重なる。
《もっと……》
鉄の腕が地面を掻く。そのたびに、指の先を形作っていた金属片が一本、また一本と外れていく。それでもスレイヴは這おうとした。けれど、もう巨体を支えるだけの形さえ保てなくなり、腹部のスクラップが地面へ崩れ落ちる。
「このスレイヴも、もう限界のようですね」
凪宮が淡々と呟いた。
「しかし、心はまだ救われていません。困りましたねえ」
その言葉に、リアスピサは顔を上げる。
「このまま浄化してしまえば、陣頭さんの心は何も変わらない。かといって、放っておけば……そう遠くないうちに、彼女の肉体そのものが限界を迎えるでしょう」
凪宮は微笑んだ。
「さあ、どうします?」
リアスピサは答えられない。
歯を食いしばりながら、スレイヴを見る。
あんなに暴れていた身体が、今は地面を引っ掻くことしかできない。
もう、倒すのは簡単だろう。
でも、そうじゃない。
助けたい。
ただ、どうやって——。
「——このまま浄化しよう」
静かな声がした。
「ハイリン?」
リアハイリンは、胸の前で震える手を握りしめていた。
「ねえ、ヒナ。スレイヴは、黒感情を浄化しなくても倒せるんだよね?」
「……そうだニャ」
離れて事態を見守っていたヒナが、瞬時に彼女たちの元へやってきて答える。
「今まで黒感情を浄化する方法を一貫してきたけど、そうしなくても素体の人間には戻せる。でも、心はそのまま、救われないニャ」
「そんなの……!」
リアスピサが思わず声を荒らげる。
「そんなの、いいわけないだろ!」
「うん」
リアハイリンの顔が、わずかに曇る。一度、言葉を探すように目を伏せた。
「でも……あの人は、星輝の大事なギターを傷つけた。他の人たちにも、たくさんひどいことをした。わざわざ自分を傷つけてまで、そんな相手を救おうとしなくても……いいんじゃないかな」
「……」
胸の奥を、何かが刺した。
——なあ。ふたりなら、陣頭のこと——助けたいって、思うよな?
それは先ほど、自分が瑞季と優菜に訊こうとしていたことだった。
瑞季なら、迷わず肯定すると思っていた。
リアスピサにとっての一番のヒーローと、信念が食い違った。
「でも……! 確かに、あいつは最低だ。でも、だからって見捨てるのかよ!? 嫌いだから助けないって、それで本当にいいのかよ!」
「……やっぱり、私の考えは間違ってるかな」
リアハイリンが寂しそうに笑う。
「ううん」
リアマイムが静かに首を横に振った。
「間違ってないよ、ハイリン」
「私も、そう思います」
リアウインズも頷いた。
「スピサは——いいえ、星輝さんは、あの人を、本当に心の底から救いたいのですか?」
リアスピサは、何も言えなかった。
そのときだった。
地面を引っ掻く音がした。
振り向くと、スレイヴが倒れたまま、足元に転がっていた鉄パイプを掴んでいる。
「……!」
リアウインズが手を伸ばす。
風が渦を巻き、飛んできた鉄パイプを弾き飛ばした。
カラン。
金属が、リアスピサの背後に転がった。
誰も動かない。
やがてスレイヴが、震える腕で地面を押した。
《もっとだ……》
立つことさえもう苦しいはずなのに、陣頭愛華は破壊を求め、立ち上がる。
《もっと……壊させろ……!》
その瞬間、スレイヴは体勢を崩して背後に倒れそうになった。
「……くそっ」
リアスピサは顔をしかめながら、引っ張られるように駆け出していた。
そして、姿勢を低くし、倒れる巨体を両腕で抱えるように受け止める。
「もう少しだけ耐えてくれ……!」
鉄屑の隙間から伝わってくる熱が、腕に痛い。
そんな中、リアスピサは祈る。
ウチの想い、届いてくれ——!
そのとき、スレイヴが身体を捻った。リアスピサの腕の中で、鉄屑が軋む。
今度こそ届いた――。そんなわずかな期待が、胸の奥に生まれかけた、その瞬間だった。
「え?」
スレイヴの身体が、ぐるりと捻れる。
鉄の塊だけが腕の中からすり抜け、リアスピサは宙へ弾き飛ばされた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。全身を打たれた痛みさえ、感じることがなかった。ただ、目の前から遠ざかっていくスレイヴの背中を見つめながら、リアスピサは、呆然と瞬きをした。
受け入れてもらえると思っていた。
助けてやると、そう叫んだのに。
水のクッションに身体を包まれる。
「スピサ……」
けれど、リアスピサはその声にも反応しなかった。
何かが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた。ささくれ立った硬い紐に肺を乱雑に巻かれ、少しずつ力を入れて引っ張られるみたいに、呼吸が苦しくなっていく。
《触るな……》
倒れたスレイヴが、足元の鉄パイプを蹴る。乾いた音を立てて転がり、別の鉄屑にぶつかる。
次の瞬間、積み上げられていたスクラップの一部が、ゆっくりと傾いた。
止まらない。
金属同士が擦れ合い、耳障りな音を重ねながら、山全体が崩れていく。大きな鉄骨が落ち、その下にあった廃材が押し潰され、さらにその重みで別の山まで崩れ始める。
夕暮れのスクラップ置き場に、重い轟音が絡み合って鈍く響く。
その音が静まったあとには、ただ大量の鉄屑が積み重なっているだけだった。
《ハハッ……! これだよこれ!》
笑っている。壊れる音を聞くことが、たまらなく嬉しいとでもいうように。
「陣頭! もうやめてくれ!」
身体の奥から何かが弾けたように叫ぶ。
だが。
《放っておけつってんだろ!》
その拒絶に、リアスピサの身体が凍りついた。
——放っておいてください……あなたにも危害が。
それは、陣頭愛華に暴力を振るわれていた男子生徒の声。
その消え入りそうな言葉に、星輝は考えるよりも先に即答した。
——放っておけるか!
なのに今。
同じ言葉を向けられた自分は、何も言えなかった。
「……っ」
昨日なら、叫べた。
なのに、どうして今日は声が出ない……?
「——スピサ!」
リアハイリンの声で、顔を上げる。
目の前まで、スレイヴの鉄拳が迫っていた。それは、拳ではない。腕そのものが、轟音を引き裂きながら伸びてくる。ロケットのように伸長した鉄腕が、一直線にリアスピサへ飛来した。
「……!」
避けられない。
そう思った瞬間、白い影が目の前へ滑り込んだ。
「ハイリン!」
リアハイリンが両腕を交差させる。
次の瞬間、鉄腕が激突した。
「ぐっ……!」
衝撃で足元の地面が大きく沈み込む。靴底が土を削り、身体がじわじわと後ろへ押されていく。
それでも、リアハイリンは退かなかった。
「……っ!」
震える腕に、さらに力を込める。
鉄腕が、彼女の身体を押し潰そうと唸る。
リアハイリンは歯を食いしばった。
「はあああ!」
両腕に白い光が走り、リアハイリンは受け止めていた鉄腕を、大きく身体を捻りながら横へ投げ飛ばした。
鉄の塊が宙を舞い、崩れたスクラップの海へ墜落する。
同時に、支えを失ったリアハイリンの身体が、ぐらりと傾いた。
「ハイリン!」
呼びかける声に振り向くこともできない。
白い戦士は、そのまま背中から地面へ倒れ込んだ。
「ハイリン!」
「……私がこうしてスピサを庇ったのは……スピサのことが、大事だからだよ」
リアハイリンは倒れながらも、力強い瞳でリアスピサを見上げる。
「もし星輝が嫌いだったら……一瞬の迷いもなく庇うことは、なかったと思う」
「……っ!」
その言葉が、胸の奥へ沈んでいく。
何か言わなければと思った。
けれど、喉が動かなかった。
目の前で倒れている仲間を見ているのに、何ひとつ返す言葉が浮かばない。
拳だけが、震えていた。
「おやおや」
凪宮のつまらなそうな声が降ってくる。
「救ってあげないのですか?」
彼は、愉快そうに微笑んでいた。
「なるほど。ヒーローも救済相手を選別するということですか。嫌いな人は救わない、と。これはこれは、たいへん勉強になりました。……あれ? でも、不思議ですね。そう考えると、嫌いな世界をリセットしようとする僕たちとあなたたちは、何が違うのでしょう」
「いい加減なこと言わないで!」
リアマイムが怒鳴る。だが、リアスピサには、その言葉すら遠かった。
スレイヴが、また立ち上がろうとしている。
《邪魔をするな……全部、壊させろ……!》
ふらつきながら、それでも壊すために腕を振り上げる。
《学校なんて、クソ喰らえだ……!》
陣頭の心の声が、かつての星輝のそれと重なる。
家族に貢献したい。でも、校則という縛りのせいで、自分は何もできない。父からはそんなこと考えなくていいと言われたが、何もしないで親に甘えてばかりいるのは、何か違う気がする。
学校なんて壊れればいい。そのように思ったこともあった。だが、当時の星輝の感情と、陣頭愛華の思うそれは、きっと違う。
「くそっ!」
答えなんて、まだ分からない。
助けるべきなのか。
見捨てるべきなのか。
それでも——。
「ああやってただ暴れさせ続けても、誰のためにもならねえ! ウチが終わらせてやる!」
スレイヴを浄化せずに倒す決意を固め、その身に炎を燃え上がらせる。
それは、半ばやけくその叫びだった。
「『黒き感情、燃え尽くせ。デシリア・セイリング・ファイア!』」




