第三十話「正義と救済の境界線」-3-
昼休み。教室の喧騒は、まるで遠い世界のBGMのように星輝の耳を通り過ぎていった。
お弁当の卵焼きを口に運んでも、味がしない。昨日、アスファルトへ落ちたギターの鈍い音ばかりが頭の中で鳴っていた。
陣頭愛華は滅多に登校しないが、今日は来ているらしいと、星輝は風の噂で聞いていた。昼休みの終わり頃、彼女が中庭の自販機の前にいるのを、星輝は何度か見たことがあった。
けっして会いたいわけではない。でも、会わないといけない気がする。
星輝は、昨日のことを伏せたまま月音優菜たちと弁当を食べ終えた後、「お茶買ってくる」と言って中庭へ向かった。
階段を降りながら、星輝は自分が緊張していることに気がつく。それとも、これは緊張ではなく恐怖か——。
心のどこかで「いなければいい」と思う自分もいた。陣頭愛華がそこにいなければ、自分は何もしなくて済む、と。……そう思うなら、どうして自分は中庭へ向かおうとしているのか——その問いは、頭を振って振り払った。
一階に辿り着くと、空気がいつもとどこか違うのを感じた。いつもよりも空気がどんよりと重い。足首を誰かに掴まれたような、不気味な重さ。
いる——。
確信を持ちながら、おそるおそる、星輝はそこへ向かっていく。
下駄箱のある玄関エリアの、グラウンドとは逆側のガラス戸。開きっぱなしのドア越しに、自動販売機と見覚えのある後ろ姿を見つけた。赤みがかったボサボサの髪を雑に結び、だらしなく制服を着崩した、陣頭愛華だった。
グラウンドから戻ってきた三人の男子生徒が談笑しながら、そちらへ向かうのが見えた。しかし、彼らは陣頭愛華の姿を認めると、一斉に息を飲み、踵を返して星輝の横を通り抜けた。
手汗が滲む手を強く握り、意を決して星輝は中庭のガラス戸を押し開けた。
「陣頭」
声をかけると、陣頭愛華は面倒くさそうにゆっくりと振り返った。その手には、炭酸飲料の缶が握られている。
「あ? なんだよ、チビ。昨日の仕返しでもしに来たわけ?」
「違う。……その、少し、おまえと話してみたくて」
「ああん? テメエ、二年だろ。それが先輩に対する態度か?」
舌打ちしそうになった。心の奥から湧き出る熱いものを、どうにか抑え込み、軽く頭を下げる。
「……すみません」
陣頭愛華はほくそ笑む。
「てっきり、昨日のことを謝れとでも言うかと思ったよ。ま、謝んねえけどな」
「それは、もういいです」
本当は良くない。
本心を押し隠しながら、星輝は続ける。
「学校には、どれくらいの頻度で来るんですか?」
言ってから、星輝は自分が陣頭愛華の目を見ていないことに気づく。慌てて目線を向けると、彼女の眉間に深い皺が寄っていた。
「興味ねえだろ、テメエ」
陣頭愛華は右手のアルミ缶を握力で凹ませる。硬い音と共に、炭酸飲料が飛沫を上げ、スカートへ白い泡が散った。
「ほんとに、何しにきたんだ? テメエは。まさか、アタシと仲良くなろうとでも思ったのか? はっ、気色悪いガキだ」
「……!」
星輝は何も言えなかった。
陣頭愛華は高圧的な視線で星輝を見下ろしながら、潰れた缶に口をつけ、喉を鳴らす。
「図星か? 寝言は寝て言えよ。なんでテメエと仲良くならなきゃいけねえんだよ。ヒーロー気取りか? キモッ」
陣頭愛華は、心底おかしそうに鼻で笑った。
「たまにいるんだよな。テメエみたいなバカは。でも、結局すぐに離れていく。学校って場所に、アタシみたいなゴミの居場所はねえんだよ。ここに居場所のあるマトモな人間なんかと、分かりあえるはずなんてないね」
握り締めた拳に滲む手汗が、さらに吹き出した。
陣頭愛華は、星輝へ歩みを進めた。それは、歩み寄るための距離の縮め方ではなく、相手を威圧するための距離の縮め方だ。
「バンドマンやるやつなんて、どうせ育ちよくないんだろ? 育ちがよくねえくせに、スポットライトを浴びようとする。そんなやつが、アタシは一番嫌いなんだよ。失せな」
星輝の顔に甘い炭酸飲料混じりの唾を吐く。
我慢の限界だった。
星輝は、陣頭愛華の鋭い瞳を睨む。
「せっかくこっちが、昨日のことを忘れて歩み寄ろうとしてやってんのに……!」
「その『してやってる』って態度が気に食わねえんだよ」
「ああ!?」
「下の名前、星輝だっけ? 星が輝く? フッ、めでたい名前だな。名付け親の知能がよく見えるね。しかも娘にギターやらせてるなんてさ。その金があればもっと有効な使い方できただろうに」
「てめえ……! ウチのことはともかく、父ちゃんのことをバカにするのは許さねえぞ……っ!」
星輝は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
一触即発の空気が、ふたりの間に張り詰める。
思わず一歩踏み出した、そのときだった。
「はいはい、そこまで」
のんびりとした声と共に、ふたりの間に、肌の焼けた長身の男子生徒が割って入った。
「莉照……!」
「よっ、高梁。昼休みくらい、平和にいこうぜ」
莉照蓮司。星輝のクラスメイトで、小学校からの幼馴染だった。
「まあ、落ち着けって。お前がここで騒ぎ起こしても、得する奴なんて誰もいないだろ」
「でも、こいつが……!」
陣頭愛華は、蓮司の顔を見ると舌打ちをした。
「チッ、邪魔が入ったか。久々に、正当防衛ってことにして堂々と女の顔を殴れると思ってたのによ」
「てめえ、もしかしてそのつもりで昨日も吹っかけてきたのか?」
星輝の問いに、陣頭愛華は悪びれる様子もなく、にやりと笑った。
「Magical Heartだっけ? おまえらの動画に、『このボーカル、学校で女殴ってました』って、面白おかしくコメント書いてやるところまで、ちゃんと考えてたんだけどな。残念」
その卑劣な言葉に、星輝は言葉を失う。
陣頭愛華は、空になった缶を近くのゴミ箱へ投げ込むと、ひらひらと手を振りながら、その場を去っていった。
残された廊下で、蓮司は大きなため息をついた。
「久々に、やんちゃな高梁を見た気がするよ」
「そうか?」
「最近は、なんというかさ。月音とか染谷とかと絡んでて、ちょっと落ち着いたじゃん。それに、正義のヒーローみたいな雰囲気あったし」
ヒーロー。
その言葉が、星輝の胸にちくりと刺さった。
かつて、蓮司はクラスメイトの沙耶をいじめていた。本人にその自覚はなかったが、その行為は確かに沙耶を傷つけ、彼女の中に黒感情を生み出していた。
星輝たちは、その蓮司をクラスの中で吊し上げた。衝動的に、感情的に、彼を追い詰めた。その結果、彼の黒感情は膨れ上がり、強力なスレイヴになってしまった。
あのやり方は正しくはなかった。自分たちの未熟さが彼を、そしてこの学校の全生徒を、危険に晒したのだ。そのことを、星輝たちは深く反省していた。
だが、事情を知らないクラスメイトたちの中には、いまだにあのときのことを「ヒーローみたいでカッコよかった」と褒められることがある。それがうまく受け入れられず、やりきれなさを感じながら曖昧に微笑むことしかできずにいた。
「……かもな」
星輝は、力なく呟く。
「なあ、莉照。あいつをどうにか助けてやれないかな」
「あいつ、って? もしかして陣頭のことか?」
「ああ」
その言葉に、蓮司は今度は心底不思議そうな顔をした。
「なんで?」
「ウチはあいつのこと、何も知らねえけどさ。あいつがああなった原因だって、何かあると思うんだ。どうにか、あいつの中にある黒感情を——」
そこまで言って、星輝は、はっと口をつぐんだ。
莉照は小首を傾げる。
「黒感情?」
「いや……なんでもない。忘れてくれ」
危うく、口を滑らせるところだった。
ちょうどそのとき、五時間目の開始を告げる予鈴が、廊下に鳴り響いた。
「おっと、やべ。戻らねえと」
蓮司は、そう言って教室へ向かう階段へと歩き出す。しかし、星輝が着いてこないのを不審に思い、振り返る。
「どうした? 戻らないのか?」
「あ、いや……戻る」
「変なの」
教室のある三階に戻るまで、ふたりは話さなかった。階段を上がりきったところで、ふと莉照が言う。
「なんか、おまえらしいな。あんなやつとも分かり合おうとするなんて。さすがだよ。でも、あんま肩肘張んなよ。俺に言わせりゃ、あんなやつにわざわざ構ってやる必要なんてないんだ」
星輝は、その背中に何も答えられなかった。
蓮司の言うことは、きっと正しい。陣頭愛華に関わっても、ろくなことにはならないだろう。
それでも。
星輝は、ぎゅっと拳を握りしめた。
ウチはヒーローだから——。
正直、あいつは嫌いだ。顔を思い出すだけで腹が立つ。
それでも。
ウチは、どんなやつだって見捨てたくない——。
優菜やアスラ、瑞季なら、きっと笑って「助けよう」って言う。
星輝は、自分の信じる「ヒーローの正義」を、胸の中でもう一度、強く確かめていた。




