第三十話「正義と救済の境界線」-1-
重いベースラインと、腹の底に響くドラムのビート。そして、すべてを切り裂くように突き抜けるギターリフ。
繋市内の練習スタジオの一室。壁一面の鏡の前に、一台のスマートフォンが置かれている。その小さなレンズへ向かって、中学生ロックバンド『Magical Heart』の三人は全力で音を叩きつけていた。
最後の音が、アンプの残響となって空間に溶けていく。演奏が終わっても、三人は誰ひとりとして動かない。誰も弦から指を離さない。スティックも、まだ空中に浮いたまま。余韻が完全に消え去るまで、ただ黙って、カメラのレンズを見つめ続けた。
〈——オーケー!〉
装着していたヘッドホンから、快活な男性の声が聞こえた。その声が、魔法を解く合図だった。
ふう、と三人は同時に、今まで堪えていた息を吐き出す。ベースの渡が、ベースを肩にかけたまま撮影していたスマホへ向かい、録画停止ボタンを押した。
「水田さん、ありがとうございます!」
ギターボーカルの高梁星輝が、ヘッドホンを外しながら、レコーディングブースの向こう側へと、満面の笑みで叫んだ。
大きな窓の向こう側。無数の機材が並ぶコントロールルームで、ミキサーの前に座っていた水田が、にっこりと笑い、親指を立ててグーサインを送る。彼は、このスタジオのレコーディング・エンジニアであり、Magical Heartを応援し続けてくれているひとりだった。
ヘッドホン越しに、彼の興奮冷めやらぬ声が聞こえてくる。
〈今日も最高の演奏だったよ! 本当に君たち、中学生とは思えないね。ひとつの部屋で、全員で一斉に音を鳴らしてるのに、星輝ちゃんの声は全然埋もれてない。さすがだよ。この動画も絶対に伸びるね。ミキシングができたら、すぐに連絡するから〉
「ありがとうございます!」
三人は、声を揃えて頭を下げた。
「またタダで録ってもらっちゃいましたね」
「いやいや、宣伝してくれるなら安いもんだよ。いつも通り、概要欄にここのURL載せといてね」
「はい!」
機材を片付け、スタジオを後にした三人は、すっかり暗くなった夜道を、楽器を背負って歩いていた。
「今回は、かなり手応えあるな」
星輝は、自分のギターケースを愛おしそうに撫でながら言った。
「ああ。ワンチャン、これで収益化通るかもな!」
悠太が、スティックケースを振りながら、期待に満ちた声を上げる。
「頼む……!」
星輝は思わず拳を握った。
アルバイトは禁止だから、家計を助けられる方法は、このバンドしかない。
そんな、未来への希望に胸を膨ませていた、そのときだった。
駅へと向かう近道の薄暗い路地裏から、女たちの笑い声が聞こえた。楽しそうなのに、聞くだけで不快になる笑い。
「やめてよ……」
「あ? うっせーな。金持ってねえテメエが悪いんだろ」
見ると、派手な身なりの不良グループが、ひとりの気弱そうな男子生徒を取り囲んでいた。その中心で、腕を組み、女王様のようにふんぞり返っている少女。
陣頭愛華。
星輝が通う中学校でも、その素行の悪さで有名な生徒だった。
悠太と渡は、その姿を認めると、面倒事を避けるように、見て見ぬふりをして立ち去ろうとしていた。
しかし、
「……おい」
星輝の口から、低い声が漏れる。
彼女は、考えるよりも先に、路地裏へと足を踏み入れていた。
「て、星輝!」
「よせって! 今は大事な時なんだから面倒ごとは——」
仲間たちはバンドリーダーを止めようとする。きっと、それはバンドにとっては正しいことなのだろう。
しかし。
「関係ねえ」
星輝は止まらない。
「見て見ぬふりなんかできるか。そんなバンド、ウチは嫌だ」
仲間たちをそう言って睨んだ後、星輝は不良グループに対峙する。
「やめなよ!」
その声に、不良グループが一斉に振り返る。
「あ? なんだテメエ」
陣頭愛華は、赤いアイシャドーに彩られた鋭い瞳を星輝に向ける。
星輝はひるまない。
すると、鼻血を流して倒れる男子生徒が、星輝を見上げた。
「放っておいてください……あなたにも危害が」
「放っておけるか!」
反射的に叫び、陣頭愛華へ改めて対峙する。
「こんなことはやめておけ。警察を呼ぶぞ」
それは、暗に背後にいる仲間への「警察を呼べ」という合図でもあった。悠太が、言われた通りに電柱の影に隠れ、スマートフォンを取り出す。
陣頭愛華は、ちらりとそちらを一瞥した。彼女もまた、動じる様子はない。
「誰だ? おまえ。なんか見たことあるな。繋中か?」
「悪党に名乗る名前なんてねえよ」
「へえ」
陣頭愛華はつまらなそうにボサボサの髪を掻きながら鼻を鳴らしたが、その取り巻きのひとりが、何かに気づいたように声を上げた。
「愛華。こいつ、Magical Heartの高梁じゃね?」
「Magical Heart?」
「動画サイトとかでそこそこ評判のバンドだよ。ウチの中学の二年の高梁って女がギタボで、確かあんな感じのチビだった。ギターケース背負ってるし」
「チビは余計だ」
星輝は、吐き捨てるように言った。
すると、陣頭愛華の目が、初めて興味深そうな光を宿した。
「へえ、バンドマンか。かっこいいね。バンドってさ、稼げるの?」
「稼げねえし、仮に稼げたとしても、おまえらにやる小遣いはねえ」
一歩も引かない星輝の態度に、陣頭愛華は不気味なほど口の端を吊り上げた。
「いいねえ、あんた。気に入ったよ」
陣頭愛華は、星輝が背負っているギターケースに目をつけると、ニヤニヤしながら近づいてきた。獲物を見つけた肉食獣のような、ねっとりとした視線だった。
「そのギター、ちょっと弾かせてよ。触ったことないんだよね」
「やめろ! 触んな!」
「いーじゃんかよ、ケチ。ちょっとくらい触らせてよ」
陣頭愛華は、乱暴に腕を伸ばし、星輝の肩からギターケースを奪い取ろうとする。星輝は、必死にそれを守ろうと、身体を捻ってもみ合いになった。軽い体格の星輝と、体格で勝る愛華。力の差は歴然だった。陣頭愛華は、星輝の抵抗を面白がりながら、じりじりと追い詰めていく。
「いいから寄越せよ」
愛華が、星輝の頭上へと手を伸ばし、ギターケースのヘッド部分を鷲掴みにした。そして、体重をかけて、強引に斜め下へと引っ張る。
「やめろ!」
抵抗虚しく、ソフトケースのストラップが星輝の肩から外れた。
重力に従い、アスファルトの地面へ。
手を伸ばす。
しかし、間に合わない。
鈍い音が、鈍い振動が星輝の全身に響き渡った。
「あ……」
星輝の頭の中で、何かが、ぷつりと切れる。
「てめえ……!」
激昂した星輝は我を忘れ、陣頭愛華の胸ぐらへと掴みかかろうとした。
だが、その腕を、渡と悠太が、左右から必死に押さえつけた。
「やめとけって、星輝!」
「こっちが損するだけだ!」
「離せ!」
星輝は掴まれた手を振り解こうとするが、さすがに男ふたりの力には勝てず、歯を食いしばって陣頭愛華を睨むことしかできなかった。
陣頭愛華は、悠太と渡に止められた星輝にゼロ距離まで顔を近づけると、勝利を確信したかのように、不敵に笑った。
「ま、ぼちぼちサツも来そうだし、帰ることにするわ。次は、ちゃんと弾かせてくれよ。あ、そうだ。アタシ、『ザ・フー』とか結構好きでさ」
「……あ?」
「ライブ映像、最高じゃん? 『My Generation』とか、真似してみたいんだよね」
『My Generation』——ギタリストがギターを叩き壊すことで有名な、伝説的なライブ。
「てめえ……!」
「あれ? もしかしてあんたもあんな古い曲知ってんの? 気が合うね」
そう言ってから、彼女は振り返り、倒れている男子生徒を一瞥すると、「命拾いしたな」と声をかける。そして、落ちているゴミ袋でもつつくように、彼の胸をつま先で軽く蹴った。
「高梁、だっけ? じゃあ、またな」
陣頭愛華たちは、仲間たちと共に嘲笑を浮かべながら、その場を去っていった。
残されたのは、無惨に転がる、父から貰った大切なギターと、何もできなかった自分への、どうしようもない悔しさだけだった。
星輝は震える手でギターケースを拾い上げる。そして、祈るような気持ちで、チャックを開いて中身を確認した。
「……よかった。ちょっと凹みはあるけど、大きな傷はない。元からちょっと傷ついてたし、そんなに目立たないよ」
「そっか……。にしても、許せないね」
「ギターは無事でよかったけど……次、もし絡まれても下手なことするなよ。おまえ、キレたら何するかわかんねえからさ」
彼女は、無言でギターケースのチャックを閉めながら、唇を強く噛み締める。
その一連の出来事のすべてを。
路地裏の闇の中から、ひとりの少年が冷ややかな瞳で観察していることなど、星輝たちは知る由もなかった。
闇に溶け込む褐色肌の少年——凪宮琥珀は、口の端をわずかに吊り上げた。
「……面白い玩具が見つかりました」




