第二十九話「リアハイリン」-6-
日が沈みかけ、東の空はもう黒くなり始めていた。そんな夕暮れの公園に、少女たちの苦しげな呼吸だけが響き渡った。
「もう、諦めてくれるよね?」
リアハイリンの口から、か細い声が漏れる。
自分の手で仲間を傷つけている。その事実が、彼女の心をさらに深い絶望の淵へと突き落としていく。
「……断るよ」
返事をしたのはリアマイムだった。ふらつきながらも立ち上がる。膝は笑っている。唇は切れている。それでも、彼女は笑った。
「瑞季が諦めなかったから、わたしたちはここまで来られたんだもん」
三人は、震える身体を、互いに支え合うようにして起こす。
今度は、リアウインズが言葉を紡いだ。
「あなたは、ヘヴンとの戦いで、けっして諦めませんでした。私のことも、放っておいてくれませんでした。だから私も、あなたを置いて去りたくなんてありません」
リアスピサが血を吐き捨て、拳を強く握りしめる。
「教えてくれた本人が忘れてんじゃねえよ。ウチがスレイヴになったとき、瑞季はウチの全部を受け止めてくれた。何度殴られても抵抗しなかった。意識を失うまで、向き合い続けてくれた。ウチの心の汚いところを認めてくれた……! だからウチはデシリアになれたんだ!」
一歩踏みだす。
「ウチに、諦めずに自分を信じ続けろって言ってくれたのは、瑞季! おまえなんだ!」
また一歩踏みだす。
「そんなおまえのことを、誰ひとりとして、諦めてやるわけなんてねえだろ!」
その言葉が、リアハイリンの心を、激しく揺さぶった。両手で耳を塞ぎ、首を振る。それでも、仲間たちの声が、耳の奥から剥がれてくれない。
「違う……」
そんなことを言われたいんじゃない。
嫌ってほしい。
見捨ててほしい。
そうすれば、世界を壊す覚悟ができるのに。
「なんで……」
涙が止まらない。
「なんでそんなこと言うの……」
瑞季——。
ヒナの声が、心の中で響いた気がした。
顔を上げると、すぐ目の前にヒナがいた。
「だって、おぬしは」
ヒナは、一度大きく息を吸った。
「ぼくらの、友達だからニャ」
リアハイリンは目を見開く。胸の奥で、何かが軋んだ。未来の自分から見せられた絶望や諦観、悲哀や憎悪、そして、仲間を殺した悲しさ。
そのすべてが、ヒナのたった一言とぶつかり合う。
「私は……」
黒瑞季が見せた未来が叫ぶ。世界を消せ、と。
目の前の仲間たちが叫ぶ。自分を信じて、と。
呼吸が乱れる。何も見えなくなる。
怖い。
また失うのも、また泣くのも、また壊れるのも、また……殺してしまうのも。
だったら、最初から世界なんて消えてしまえばいい。
そう思おうとした。でも、できなかった。
目の前には、何度突き放しても手を伸ばしてくる仲間がいたから。
「だいじょうぶ」
ぼやけた視界に、四つの手の影が現れる。
その手を見た瞬間、彼女は思い出した。
何度も誰かへ差し伸べてきた、自分の手を。
テレビの向こうにいるヒーローに憧れて、なぞってきた言葉を。
四つの声が重なる。
記憶の中の自分の声と、そして、かつて自分が憧れたヒーローの声と共に。
「あなたには、私たちがいる」
リアハイリンは差し出された手を見つめる。
その手を取れば、また傷つく日が来るかもしれない。
未来は変わらないかもしれない。
また大切な人を失うかもしれない。
怖い。
けれど。
「……ひとりは、嫌だ」
その一言と共に、震える手が伸びていく。
おそるおそる、壊れ物に触れるように。
指先が触れる。
温かい。
その温もりが、張り詰めていた心を、一気に崩した。
「あ……」
涙が溢れ、それが身体に当たると、彼女の灰色を鱗のように剥がし始めた。
仲間たちと過ごした日々が、次々と胸に浮かぶ。
初めて星輝のライブに行ったときのこと。
緊張しながらも、生徒会室でお昼ご飯を食べたこと。
一緒に沙耶に手を差し伸べたこと。
初めて負けて、星輝と言い合いになったこと。仲直りしたこと。
アスラに勇気を持って連絡先を聞いたこと。彼女が、ヘヴンの仲間だと知ったこと。つらそうだったこと。放っておけなかったこと。
ヒナと一緒にたくさんの夜を過ごしたこと。ヒナの決意に、心が痺れたこと。
何より、一緒に勉強したり、取るに足りないことを笑いながら話したこと。
思い出が頭の中に浮かぶたびに、灰色が剥がれ落ちていく。
髪に、服に、瞳に、光が戻る。
最後の灰色の欠片が、剥がれ落ちた。
「私は——」
リアハイリンは涙を流しながら、懇願するように叫んだ。
「私はやっぱり、みんなと一緒にいたい!」
力強く立ち上がると、その手の甲で涙をぐいっと拭った。まだ瞳は潤んでいたが、その光は、もう迷ってはいなかった。
彼女は、ボロボロの仲間たちと、ひとりひとり、しっかりと視線を合わせる。
「おかえり!」
リアマイムが泣き笑いしながら抱きつく。
「バーカ」
リアスピサが乱暴に頭を撫でる。
「瑞季さんなら戻ってこられると、信じてました」
リアウインズも静かにリアハイリンを抱き寄せた。
「瑞季!」
ヒナがその三音にすべての想いを載せ、彼女の背中にしがみつく。
言葉にならない泣き声だけが、夕暮れの公園へ静かに溶けていった。
少し離れた場所で、磐名が、つまらなそうに舌打ちした。
「おいおい、御涙頂戴の安っぽい演劇が始まったと思ったら、白に戻っちまったじゃねえか」
仮面をつけた黒瑞季は、彼女たちをじっと見つめていた。彼女がどのような表情をしているのかは、磐名にも凪宮にもわからなかった。
「まあ、いいさ。これから先の楽しみが増えたと思えばいい。ところで、神辺の気配は?」
「いいえ。これほど派手にやってれば姿を現すと思っていたのですが」
凪宮が残念そうに答える。
「そうか。まあいい。黒感情エネルギーは集められたんだろ?」
「ええ、もちろん。上質のものが、充分に」
「では、帰るとしよう」
三人が、空間に溶けるように消えようとしたときだった。
「待って」
力強い声が、彼らを引き止めた。
声の主は、リアハイリン。
彼女は、ヴォイズ・アークの面々へ、まっすぐに宣戦布告する。
「私はもう、あなたたちには負けない。あなたに、世界を壊させはしない」
その言葉に、黒瑞季は、わずかに楽しそうに肩を揺らした。
「おまえが諦めないように、私も諦めはしないさ。それは、おまえが一番よく分かっているだろ?」
その声は、鏡合わせの自分自身に、言い聞かせているかのようだった。
「私は、この穢れた世界を、必ず裁く。……デシリアの穢れを裁く魂は、如何なる者にも染められない。——覚悟はできているな?」
「私だって、もう染められやしない」
ヒーローは、迷いなく答えた。
「……そうか」
黒瑞季が、自重気味に呟く。
「染谷瑞季とは、実に物分かりの悪い人間だったな」
夕暮れの闇に溶けるように、ヴォイズ・アークの姿は消えた。
それでもリアハイリンは、その消えた場所から目を逸らさなかった。




