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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第二十八話「黒き感情」

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第二十八話「黒き感情」-7-

 世界を滅ぼすのが目的の女。

 その正体は、未来の自分——。

 残酷な宣告は、リアハイリンの存在そのものを、根底から揺さぶっていた。脚が大きく震え、立っていることもままならなくなる。

 ついに、リアハイリンは倒れ、尻餅をついた。

 灰色の無機質な空間で、ふたりの染谷瑞季が、対峙する。ひとりは純白の希望を纏ったまま倒れ、もうひとりは漆黒の絶望を身に宿して立っている。

「おまえもよく知っているとおり、染谷瑞季は世界を救った」

 女——仮に『黒瑞季』とする——は、まるで古い叙事詩でも朗読するかのように、静かに、そして淡々と語り始めた。その声は、リアハイリンの鼓膜だけでなく、魂に直接響いてくるようだった。

「もっとも、ヘヴンの真の目的は、この世界の侵略ではなかった。だが、出方次第では、この世界にさらなる危害が及ぶ可能性は十二分にあったはずだ。それを未然に防いだのだから、やはり彼女は、紛れもなく、世界を救ったヒーローだと言えよう」

 黒瑞季は、ゆっくりとリアハイリンへと歩み寄る。

 リアハイリンは後ずさりながら距離を取ろうとするが、足は鉛のように重く、思うように動かない。

「そして、時は経ち、彼女は成長する。多くのことを学び、多くの現実を知るにつれて、彼女は、あるひとつの根源的な疑問を抱くようになった。自分がかつて、命を懸けて救ったこの世界には、果たして救う価値があったのだろうか、と」

「そんなの……! あるに決まってる! 優菜がいて、星輝がいて、アスラちゃんがいて……みんなが、笑って暮らせる世界だよ!」

 その叫びには、自分自身に必死に言い聞かせているかのような、悲痛な響きが混じっていた。

「まあ、今のおまえには分からないだろうな。その無垢さが眩しくもあり、滑稽でもある」

 黒瑞季は、ふっと姿を消した。リアハイリンが全身で警戒する間もなく、背後に現れる。

「だが、この世界のどうしようもない醜さは、おまえがまだ知らない、遠い世界だけの話ではない。おまえのすぐ身近にも、呼吸をするように、当たり前に起きるのだ」

 その囁きは、まるで悪魔の呪詛じゅそ

「あなたに……何があったの?」

 声が震えていた。その震えが恐怖から来るものなのか、悲しみか、それとも別の何かか。リアハイリンには、自分のことなのに判然としなかった。

「それを知ってどうする? スレイヴのように、私を染める黒を浄化できるとでも思っているのか?」

 黒瑞季はしゃがみ、リアハイリンと視線の高さを合わせた。彼女の甘い吐息が、リアハイリンの髪をわずかに揺らす。

「染谷瑞季に何があったか。……ハリウッド映画みたいな悲劇? 家族を失った? 世界に裏切られた? ……そんなものは、ない」

 その答えは、拍子抜けするほど、あっけなかった。

 だからこそ、理解できなかった。

「ただ、大人になれば、もしくは大人になる過程で誰もが経験する絶望を、等しく私も受けた。……この世界を壊したいと思ったことはないか? こんな世界は間違っていると血が湧き立ち、声が震えたことは?」

 その言葉は否定できなかった。ニュースを見て。理不尽を見て。自分だって、そう思った日はある。

 そんなリアハイリンの瞳を見て、黒瑞季は満足そうに口元を緩めた。

「中学生でも珍しくない感情だろう。大人ならば、なおさらだ。しかし、だからといって、行動を起こすものは、そうそういない。負けイベントだと分かっているゲームに、本気で立ち向かうか? 人は案外あっさりと諦められるものだ。……しかし、そこに偶然、私はデシリアという力を得ていた」

「……!」

 歴史の授業で、川中島の戦いに自分がいたら、という想像をしたことを思い出す。

 自分がデシリアでなければ、考えもしなかった妄想を。

「私は、約束された敗北を破壊する可能性を、その手にしていた。一度世界を救ったという自信があった。……ただ、それだけだ」

 リアハイリンは一言も発することができず、ただ呆然と、黒瑞季を見つめていた。

「ひとつだけ、私が経験した未来を教えてやろう」

 黒瑞季の手が、リアハイリンの肩に、そっと置かれる。その手は冷たいかと思いきや、驚くほど温かかった。だが、その温かさが、逆に恐怖を増幅させる。

「私が、こちらに来る少し前のことだ。……リアマイムの様子がおかしくなった。彼女は、心を病んだんだ。そして彼女は——リアスピサを殺した」

「!?」

 リアハイリンの心臓が激しく軋んだ。全身の血が、逆流するような感覚。

 嘘だ。優菜が、星輝を? あの、誰よりも優しくて、物語を愛した優菜が? あの、誰よりも仲間想いで、太陽みたいに笑う星輝を――?

「そんなこと、あるはずが……」

「そして、リアハイリン——つまり私は……暴走するリアマイムを、この手で始末した。あれは、さすがに堪えたよ。思い出すだけで心が痛い……」

 消え入りそうな声だった。

 しかし、

「嘘だ! いい加減なこと、言わないで!」

 その話を信じられるはずなどない。絶叫と共に振り返り、拳を振るった。怒りと悲しみと、信じたくない気持ちが、その拳に込められていた。

 黒瑞季は、その一撃を、舞うように回避する。

「そう思うのも無理はない。私も、かつてのおまえと同じように、そう思いたかった。だが、私は嘘はつかない。くだらない嘘で、相手を騙すような真似は、私の美学に反する。それが、悪役としての私のポリシーだ」

「変なこと言わないで! ヒーローごっこみたいな、そんな……!」

「変なこと? 果たして本当にそうか? 正義や悪の『ポリシー』というものに、おまえ自身が、最も強くこだわっているはずだ。違うか?」

「……っ!」

 本名を呼び合うのではなく、『リアハイリン』などの呼称で呼び合うように決めたのは、まさに彼女のポリシーのため。彼女がこれまで諦めずに戦い続けてきたのも、理想のヒーロー像にこだわり続けた結果だ。

「私は、おまえのことをおまえ以上によく知っている。正義のヒーローの気高い自己犠牲に涙するのと同じくらい、悲劇を背負った悪役の孤独な魂に、どうしようもなく魅力を感じていること。そして何より——おまえ自身の心の中に、ずっと昔から巣食っている、暴力的な衝動を」

 黒瑞季は、リアハイリンの震える右手を優しく握った。その感触は、驚くほど温かく、そして懐かしかった。

「何も隠すことはない。素直になればいい。おまえの本当の気持ちを、曝け出せばいい。仲間の前で、強がって正義を演じる必要はない。私は、おまえのありのままを受け入れる」

 その声は、どこまでも甘く、そして包み込むようだった。

 まるで、スレイヴへ手を差し伸べる自分自身のように。

「だいじょうぶ。——おまえには、私がいる」

 その言葉と共に、リアハイリンの脳裏に、忘れかけていた記憶が、色鮮やかな映像となって、次々と溢れ出してくる。

 小学生の頃、大好きだったヒーローアニメを、クラスの男子に「あんなの子供騙しだ」と馬鹿にされた。カッとなった自分は、彼に殴りかかった。取っ組み合いの喧嘩になった。先生が止めに入るまで、相手を泣かせるまで、その手を緩めなかった。あのときの、拳から伝わった鈍い感触と、自分の正しさを証明したという、歪んだ高揚感。

 沙耶が蓮司にいじめられていたのを見て、もやもやとした帰り道。「少しくらい、彼にも同じような痛みを感じさせてやり返さないと、自分の腹の虫が治まりそうにもなかった」という暴力的な衝動を、自分は確かに感じていた。

 デシリアとして戦う中で、スレイヴを力で打ち負かすことに、人知れず、言いようのない快感を覚えていたこと。硬いものが砕ける感触、そして、すべてを支配しているかのような全能感。

 つい先ほど、いじめられている子供をすぐに助けようとしなかった、あのときの自分。星輝が駆け出すのを、冷めた目で見つめていた自分。いじめている側の子供たちを、より効果的に、より社会的に痛みつける方法を、優先して考えていた、あの冷徹な思考。

 そして、夏休み中に、ノートに夢中で描いていた、最高傑作の絵。それは、ジンがつけていた仮面からインスピレーションを受けて、自分なりに作り上げた、悲劇の『悪の女王』の姿。

 そして、目の前にいるこの女の姿は、その絵にあまりにそっくりで——。

「そっか……」

 ずっと勘違いしていた。

 今までアスラやスレイヴを救ってきたのは、本当の自分じゃない。憧れたヒーローを真似ただけの、表面上の自分。

 だけど。

 誰かを壊したい気持ちも、誰かを罰したい気持ちも。

 ずっと昔から、私の中にあった。

 それは消えなかった。

 消そうとしても、なくならなかった。

 なぜなら。

「私の本質が——」


 ——悪だから。


 逃れようのない真実に気づいてしまった、その瞬間。

「——『白き感情、塗りつぶせ』」

 黒瑞季は、ゆっくりと目を閉じた。

 まるで、長い長い旅路の果てに、ようやく帰ってきた家族を迎えるように。

 そして、静かに笑った。

「『デシリア・ドンナー・シュヴァルツ』」

 詠唱と共に、灰色の無機質な空間に、雷鳴が轟いた。

 天から降り注いだ紫色の稲妻が、リアハイリンの身体を貫き、心を灼いた。

「ああああああああああああっ!」

 強烈な痛みと共に、未来の自分の膨大な感情が濁流となって、リアハイリンの精神を侵食し、汚染し、そして塗りつぶしていく。

 つらい。かなしい。こわい。いたい。くるしい。にくい。

 テレビやインターネットから際限なく流れてくる、凄惨なニュースの数々。

 世界のどこかで、今この瞬間も、人間同士が愚かな理由で殺し合っている。

 誰かが贅沢に遊ぶためのお金のために、別の誰かが、人間以下の、魂をすり減らすような労働を強いられている。

 物価や税金は上がり続け、真面目に生きる人々の生活は、日に日に苦しくなる一方なのに、この国の中心では、一般人の年収よりも大きな会計の数字のズレが、毎年、他人事のように報告される。

 誰よりも血の滲むような努力をしたのに、たったひとりの大人の気まぐれで、努力がすべて水の泡になった、知り合いの涙。

 大切な人が理不尽な目に遭い、心からの笑顔を永遠に失ってしまった絶望。

 誰かが笑うために、誰かが泣いている。

 懸命に生きる人ほど、少しずつ追い詰められていく。

 そして、何よりも思い知らされる。

 自分の持つ力では、届かない。

 どれだけ拳を振るっても。

 どれだけスレイヴを浄化しても。

 世界は、何ひとつ変わらない。

 結局、暴力で解決できることしか解決できない。

 ……でも。

 その逆ならば——。

 そうだ。

 この力は、そのためにこそ、あるんだ。

 黒き感情に満ちてしまったこの世界を。

 すべて、無に帰すために。



(第二十八話「黒き感情」了)


第二十九話「リアハイリン」2026/8/29 8:00投稿予定

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