第二十八話「黒き感情」-6-
「——え?」
そこにいたはずのリアハイリンが、消えていた。
夕暮れの公園から、まるで最初から存在しなかったかのように。
あまりにも唐突な消失に、リアマイムとリアスピサの思考は一瞬真っ白になった。
「ハイリン……?」
呆然と呟くリアマイム。
だが、敵は、彼女たちが我に返るのを待ってはくれなかった。
起き上がったスレイヴが、再びその鉄パイプの腕を振り上げ、無防備なふたりへと襲いかかる。
「危ねえ!」
リアスピサが、我に返ってリアマイムを突き飛ばす。鉄腕は、空を切り、地面をえぐった。
リアスピサは、憎悪と怒りに燃える瞳で、公園の隅に立つ敵を睨みつけた。
「薄々そんな気はしてたけど、あいつもおまえの仲間か!」
「ご名答。たいへんよくできました。ま、あの手のキャラが本当に味方だった試しなんてないし、バレバレだったよな」
磐名は肩をすくめ、心底おかしそうに笑った。その余裕綽々の態度が、リアスピサの怒りの炎に、さらに油を注ぐ。
だが、現実は非情だった。
攻撃の主軸であり、仲間を鼓舞する精神的支柱でもあったリアハイリンを失ったことで、戦力のバランスは傾いていた。
「くそっ!」
リアスピサは、炎の弾丸を連射してスレイヴを牽制する。しかし、スレイヴは、滑り台だった部分を巨大な盾として構え、その攻撃を難なく防いだ。そして、その盾の影から、ブランコの鎖が、毒蛇のように伸びてくる。
リアマイムは水の鞭でそれを打ち払おうとするが、鎖の動きはトリッキーで、予測が難しい。いくつかの鞭は空を切り、防ぎきれなかった鎖が、リアスピサの肩を掠めた。
「ぐっ……!」
戦闘服の上からでも、骨に響くような鈍い痛みが走る。
ふたりは、じりじりと後退を余儀なくされた。鉄の巨体が一歩踏み出すたび、公園の地面が鈍く震えた。まるで、リアハイリンという最大の脅威が消えたことを理解しているかのように。
ジャングルジムだった部分から、何本もの鉄パイプが槍のように射出される。リアスピサが炎の壁でそれを防ぐが、その間にも、スレイヴは地面を滑るように移動し、距離を詰めてきた。
「こいつ、速い!」
リアマイムは、地面に水の膜を張り、スレイヴの動きを封じようとする。だが、スレイヴは、その足となった鉄パイプの先端を鋭利なスパイク状に変形させ、地面に突き立てて急制動をかけると、今度はその場で高速回転を始めた。
ブランコの鎖が、遠心力を伴って、凄まじい勢いで周囲を薙ぎ払われる。
「うわっ!」
ふたりが避けた直後だった。背後で、公園のベンチがバターのように真っ二つになった。
続いて街灯が折れ、木々が幹ごと吹き飛ぶ。
鎖は止まらない。触れたものを容赦なく破壊しながら、暴風のように公園を薙ぎ払っていく。
「彼女たち、劣勢のようですね」
いつのまにか戻ってきていた凪宮が、つまらなそうに呟いた。
「ああ。オルタナ無勢には、あれが限界だろ」
磐名が、吐き捨てるように言う。
その言葉に、リアマイムが鋭く反応した。
「その『オルタナ』って、この間も言ってたよね? それって、どういうこと?」
「おっと。聞こえてたか」
磐名は、口の端を歪めて笑った。
そして、その視線は、デシリアたちから、苦しげに呻くスレイヴへと移される。
「まあ、いいや。そろそろ飽きてきたし、終わらせるか」
その声は、今までとは打って変わって、氷のように冷たかった。
「おい、ガキ」
磐名は、スレイヴの核となっている少年に、語りかける。その声は、公園中に響き渡るほど、大きく、そして明瞭だった。
「勘違いするなよ。結局さ、いじめられるやつにも、原因があるんだよ」
「な……!」
リアマイムが、息を呑む。
「本人に自覚はないんだろうけどさ。コミュ力が致命的になくて、他人と上手くコミュニケーションが取れないとか。人より空気が読めなくて、気づかないうちに、あのいじめっ子たちを傷つけるようなことを言ったとかさ。何か、理由があったはずなんだよ」
「てめえ! 何言ってやがる!」
リアスピサが、怒りに任せて絶叫した。それは、あまりにも非道で、残酷な言葉だった。傷ついている子供の心に、さらに塩を塗り込むような、悪魔の言葉。
「いじめる側が一方的に百パーセント悪くて、いじめられる側が、何も悪くない、純粋無垢な被害者だ? そんな都合のいい話は、フィクションの中にしかねえんだよ。いじめられてる可哀想な奴の現実逃避を手伝ってインプレッションを稼ぐ、ただの情弱商売さ。いいご身分だよな、自分が悪いって気づいてないが故に、いくらでも被害者ぶれる上に慰めてもらえるんだから」
その言葉が黒い風となり、スレイヴの身体に吸い込まれていく。
《ちがう……》
少年は否定する。
だが、その声は弱かった。
《ぼくは……わるく……》
言葉が最後まで続かない。
磐名の言葉が、心の奥に刺さった棘のように残っていた。
その、心の揺らぎが、黒い感情を激しく燃え上がらせる。
《あああああああああああああっ!》
スレイヴが、天に向かって絶叫した。その体躯から、今までとは比較にならないほど禍々しく、そして濃密な黒感情のオーラが、噴水のように湧き上がる。
夕暮れの公園が、まるで夜になったかのように、その影に飲み込まれていく。
鉄が悲鳴を上げた。全身の継ぎ目という継ぎ目から黒い瘴気が噴き出し、鉄パイプが苦しむように痙攣する。それは、単なる巨大化ではない。憎悪そのものが、無理矢理その肉体を膨れ上がらせているのだ。
そしてブランコの鎖は、おぞましいトゲが無数に生えた、悪魔の尻尾のような姿へと変貌した。
「さあ、その黒い感情を、ぜーんぶ、目の前の敵にぶつけちゃいな」
磐名は、恍惚とした表情で、スレイヴを煽る。
「そいつらは、アンタを助けるふりをして、アンタをもっともーっと傷つけようとしている、偽りのヒーローなんだから」
「そんなわけないでしょ!」
リアマイムが必死に否定の言葉を叫ぶ。
だが、その言葉を、凪宮が冷たく遮った。
「どんなに綺麗事を並べたって、デシリアの力など、所詮はただの暴力でしかありません。それを正義の力だと思い込むなど、どれほど愚かなことか」
「……っ!」
リアマイムの言葉が詰まる。
「そして、その暴力の矛先は今、いじめられて、ただ助けを求めている、か弱き少年に向いています。あなたたちは、いったい、どちらが本当の悪だと思いますか?」
リアマイムは思わず視線を落とした。
浄化とは何か。
助けるとは何か。
自分は、この少年を本当に救おうとしているのか。
それとも力でねじ伏せようとしているだけなのか。
《あああああああああああああっ!》
スレイヴが咆哮する。
もはやそこに戦術も判断もなかった。ただ抑えきれない憎悪だけが、その巨大な身体を動かしている。
変貌した鉄パイプの腕が振り下ろされた。
狙いは雑だった。
だが、その一撃が地面に触れた瞬間、公園全体が揺れた。
「っ!」
リアマイムとリアスピサは咄嗟に飛び退く。
避けたはずだった。
それでも衝撃波だけで身体が浮き上がる。
一撃。地面が砕ける。
二撃。公園の遊具が宙を舞う。
三撃。ベンチが粉砕される。
四撃。逃げた先の地面が爆ぜた。
攻撃は荒い。だが、範囲が広すぎる。回避した先が、次の攻撃範囲。
逃げ場がない。
「マイム!」
リアスピサが叫ぶ。
変貌した鉄腕が、岩塊でも投げつけるかのような乱暴さで薙ぎ払われた。
リアマイムは反射的に水の盾を展開する。
しかし完成するより早く、鉄腕が激突した。
未熟な水の盾は、紙細工のように砕け散った。
砕けた飛沫ごと、リアマイムの身体が宙へ投げ出される。
「きゃあっ!」
「マイム! ——てめえら、ふざけんじゃねえ!」
リアスピサは、怒りのすべてを炎に変え、磐名へと突っ込もうとした。召喚主を倒せば、スレイヴは消えるはずだ。
だが、その進路を、再び、分厚い土の壁が阻んだ。
「その力……やっぱりナーサの……! なんで、てめえが!」
「だらだら喋ってる場合か? お仲間がピンチだぞ?」
磐名の嘲笑うような声。
気付いたときには遅かった。
おぞましい鎖が、リアマイムの手首に巻き付いている。
一本、二本、三本。
蛇のように増殖した鎖は瞬く間に全身へ絡み付き——まるでバスケットボールのように、地面へと叩きつけられた。
「がっ……あ……!」
リアマイムの口から、苦悶の声が漏れる。
リアスピサが、炎の弾丸で、その拘束を焼き切ろうとする。
だが、その炎は、リアマイムに届く直前で、ありえない軌道を描いて逸れていった。
突風。いや、意図的に操作された、風の力。
リアスピサが視線を向けると、凪宮が、こちらに、すっと手を向けていた。
「リアウインズの力……? おまえ、いったい……!」
凪宮がほくそ笑む。
スレイヴは、拘束したリアマイムを、地面に投げつけていた。
そして、その無防備な身体の上に、地の底から現れた土の蛇がのしかかった。ナーサが使っていたものと同じ、地の精霊の力だ。
土の蛇は、リアマイムの四肢に絡みつき、彼女を地面に磔にして完全に動きを封じた。
スレイヴが、その滑り台だった部分を、巨大な断頭台の刃のように変形させ、リアマイムの頭上へと、ゆっくりと振り上げる。
「やめろおおおおおおっ!」
足を踏み出すたび、暴風が胸を殴る。
炎を纏っても、一歩も進めない。
絶体絶命。
もう、リアマイムを助けることができない。
断頭刃が振り下ろされる。
間に合わない。
リアスピサがそう思った、その瞬間——。
「——風なら負けません!」
天から、凛とした、もうひとつの声が響き渡った。
凪宮の暴風をさらに上回る、巨大な竜巻が発生する。ふたつの風が激突し、凄まじい嵐が公園全体を吹き荒れた。凪宮の風が、いともたやすく打ち消される。
凪宮の笑みが、初めて消えた。
「……風を上書きした?」
そして、風の均衡が崩れたことで、スレイヴも、大きく体勢を崩した。
風の中心に、ひとりの少女が静かに舞い降りる。金色の長い髪と優雅なドレスを風になびかせ、その青い瞳は、ゆるぎない光で輝く。
風が消え、夕暮れの空から、一条の光が射した。
それは、夕日とは明らかに質の違う、黄金色の輝き。
「ウインズ!」
「お待たせしました、マイム、スピサ」
風が彼女の足元へ集まり、羽根のようにその身体を受け止める。靴底はほとんど音を立てなかった。
リアウインズは、スレイヴと磐名、凪宮を、鋭い瞳で睨みつけた。
「状況はよく理解できませんが……。とりあえず、スレイヴを浄化しましょう」




