第二十八話「黒き感情」-5-
仮面の女の唇から放たれたのは、冒涜の呪文。
彼女の右の手のひらの前に、空間が歪み、光さえも吸い込むような、漆黒のエネルギーが凝縮していく。
そして、放たれた。
リアハイリンのデシリア・クリア・スクリームよりも、一回りも二回りも太い、絶望そのものを固めたかのような、漆黒の光線。
純白の光と漆黒の光が、激突した瞬間——白い光が消えた。
「え」
リアハイリンの放った浄化の光は、まるで夜の海に落ちた一滴の雫のように、跡形もなく漆黒へと溶けていた。
理解が追いつくより早く、絶望の奔流が押し寄せる。
抵抗する時間さえなかった。
そして、勢いを増した漆黒の光線が、リアハイリンの身体を、容赦なく飲み込んだ。
「——っあああああっ!」
悲鳴にならない絶叫が、灰色の世界に木霊する。
身体を、内側から、無数のキリで刺されるような激痛。それと同時に、脳内に直接、膨大な情報とどす黒い感情が、濁流のように流れ込んできた。
誰かを殴りたい。全部壊したい。救いなんてない。どうせ無駄だ。死ね。消えろ。なんで私だけ——。
リアハイリンの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、何度も地面をバウンドする。戦闘服はところどころが黒く焦げ付き、白い肌には痛々しい擦り傷が無数に刻まれていた。
「……どうして……。デシリア・クリア・スクリームを……あなたが」
かろうじて、それだけを口にした。
仮面の女は、ゆっくりと、倒れるリアハイリンの元へと歩み寄る。その足音だけが、無音の世界に、やけに大きく響いた。
「もう、とっくに気づいているんじゃないか?」
その声は、相変わらず機械的で、冷たかった。
「なぜ、私がおまえの動きをすべて読めるのか。なぜ、私がおまえの技を使えるのか。そして……なぜ、私がおまえの心の奥底にある、醜い欲望を知っているのか」
「うるさい……っ!」
リアハイリンは、最後の力を振り絞り、地面を殴りつけた。その反動を利用して、弾かれたように跳ね起きる。
そして、残ったすべての怒りと混乱、恐怖を、右の拳に乗せた。
もう、何も考えられない。ただ、目の前の絶望を否定したかった。
力ない右ストレートが、仮面の女の顔面へと吸い込まれていく。
あまりに遅い一撃。
しかし、仮面の女は避けなかった。
力ない拳が、仮面の頬へ触れる。
ぱき、と。
仮面の固定具が、微かな音を立てた。
白い仮面が、ゆっくりと女の顔から浮き上がる。
指先ほどの隙間。
やがて、その隙間が少しずつ広がり、純白の仮面は空中へと離れていった。
くるり。
また、くるり。
白い面が裏返るたび、黒い模様が夕闇のように明滅する。
仮面は、重力を忘れたようにゆっくりと落ちていく。
一秒にも満たないはずの時間が、永遠にも感じられた。
最初に見えたのは、白い唇だった。
次に、鼻筋。
最後に、その瞳がこちらを見た。
リアハイリンは、息を呑んだ。
その瞳に宿っている光は、自分とはまったく違っていた。希望や理想を映す光ではない。すべてを諦め、すべてを憎み、そして、深い悲しみの底に沈んだ、凍てつくような光。
長い髪と、その衣装。
その輪郭には、見覚えがあった。
仮面の女が身に纏う戦闘服は、色こそ黒と紫だが、そのデザインは、リアハイリンのそれと、ほとんど同じだった。
そして、何よりも、その顔——。
「嘘……」
震える声が漏れる。
ありえない。
ありえるはずがない。
だが、その顔は。その輪郭は。その目は——あまりにも自分だった。
リアハイリンは言葉を失い、その場に立ち尽くした。金縛りにあったかのように、身体が動かない。
「そのとおり」
女は、ほんのわずかだけ口元を緩めた。
それは希望の笑みではない。
諦めきった者だけが浮かべる、静かな笑みだった。
「私はおまえ——染谷瑞季の未来の姿だ」




