第二十八話「黒き感情」-4-
空間が、反転した。
夕暮れの公園を包んでいた喧騒。乾いた土と、青々とした草の匂い。じめじめした空気。仲間たちの驚愕に満ちた表情。
すべてが、一瞬にして、砂嵐のようなノイズの向こう側へと、掻き消えていく。
リアハイリンが次に目を開けたとき、そこに広がっていたのは、あまりにも不可思議で、無機質な光景だった。
どこまでも続く、灰色の平面。空も地面も、それらを隔てる壁さえも存在しない。音も匂いも、頬を撫でる風もない。ただ、自分という存在だけが、色のない空虚な世界に、ぽつんと浮いているかのような。
その空気は、どこか覚えがあった。
「ここ、メルキーヴァと戦ったところに似てる……確か」
「仮想空間コンクラム——ですよね?」
「!?」
彼女の横で、凪宮が不適な笑みを浮かべていた。
その笑みを瑞季に一瞥だけ見せた後、彼は、くるりと正面を向き、うやうやしく跪いた。
「彼女をお連れしました、我が主」
凪宮が頭を下げた先には、ひとりの女が静かに立っていた。
夜の闇そのものを、凝縮して仕立て上げたかのような、漆黒のローブ。その姿は、まるで罪人を裁く裁判官のようにも見える。艶やかな長い黒髪が後頭部でひとつに結ばれていた。
そして、その顔を仮面が完全に覆い隠している。線が細く、複雑な黒い模様が入った、純白の仮面。
その異様な姿を見た瞬間、心臓が凍りついた。
「なんで……」
声にならない声が、喉の奥で震える。
なんで、その姿を——。
「ご苦労だった。琥珀、おまえは下がっていろ」
「はっ」
仮面の女の、機械的なエフェクトのかかった声が、無機質な空間に響き渡る。凪宮は音もなく立ち上がり、空間そのものに溶け込み、消えた。
どこまでも続く灰色の世界に、リアハイリンと仮面の女が、ふたりきり。
「その格好……その仮面……」
リアハイリンは、かろうじて言葉を絞り出した。混乱で、頭が真っ白になりそうだ。
「おまえの実力を見せてみろ」
仮面の女は、有無を言わせぬ口調で、そう告げた。
リアハイリンが手に汗を握った瞬間、仮面の女が、ふっと視界から消えた。
「え——」
頬に熱が走る。
遅れて、一筋の痛みが頬を伝った。
……蹴られた?
女の靴の底がかすったのだと理解した瞬間だった。
「この程度も避けられないのか」
「……っ!」
冷や汗が、頬を伝う。
速い——。
リアハイリンは空中で身体の密度を瞬時に重くし、落下速度を上げて距離を取る。着地と同時に、今度は自分から仕掛けた。
灰色の地面を強く蹴り、そして、弾丸のように相手の懐へと一気に飛び込む。渾身の右ストレートを仮面の女の無表情な顔面目掛けて放った。
だが、拳は虚しく空を切った。
仮面の女はほんのわずかに上体を後ろへと逸らしただけだった。リアハイリンの一撃を、完全に見切っていたのだ。
「おまえの動きは、手に取るように分かる」
冷淡な声が、耳元で聞こえる。
返しの裏拳が、リアハイリンの側頭部を狙う。リアハイリンは、それを屈んで躱し、流れるように足払いを仕掛けた。
それが、手首だけで簡単に外へ流された。
「く……っ!」
さらに攻撃の速度を上げていく。
だが、その、嵐のような猛攻のすべてが、当たらない。掠りさえしない。髪一本が揺れる程度しか動いていないのに。
どうして——。
瑞季は自問自答する。
「どうして、これほどまでに——」
耳元で声がした。
「動きを読まれるのか——とでも、思っているのだろう?」
甘い毒薬のような吐息が首に触れる。
「っ!?」
反射的に腕を振るう。しかし、すでにそこに仮面の女はいない。
「落ち着け私……!」
リアハイリンは、一度大きく息を吸い、思考から混乱を振り払った。
仲間たちの顔が、脳裏をよぎる。リアマイム、リアスピサ、そしてリアウインズ、ヒナ。
ここで負けるわけにはいかない。
そうだ、私はヒーローなんだ!
彼女は、覚悟を決めた。
次の瞬間、リアハイリンの空気が変わった。
それまでの彼女は、焦燥に突き動かされていただけだった。相手に翻弄され、読まれ、追い詰められた苛立ちを、そのまま拳に乗せて振り回していた。
だが、今は違う。
胸の奥で暴れていた不安も恐怖も、完全に消えたわけではない。それでも、それらを押し潰すだけの理由があった。
仲間たちがいる。
護りたいものがある。
だから負けられない。
その覚悟が、リアハイリンの全身を一本の鋼のように研ぎ澄ませていた。
リアハイリンは、右拳を大きく振りかぶる。
仮面の女は、その軌道を読むように半歩下がった。
その瞬間。
「読んでたよ」
振りかぶった拳は囮だった。
踏み込んだ右足を軸に身体を反転させ、本命の左肘を脇腹へ滑り込ませる。
しかし、それすらも肘で軸をずらされ、直撃にはならない。
「今のは悪くないな」
「あなたは、いったい何者なの!? 何が目的!?」
叫びながら距離を詰める。
繰り出される連撃は、もはや感情任せの乱打ではなかった。一撃ごとに次の一撃へ繋がり、回避されることすら織り込んだ、明確な意思を持つ攻めだった。
仮面の女は依然としてそれらを捌いている。
しかし、先ほどまでとは違う。
彼女の足は一歩、また一歩と後ろへ運ばれていた。
「当たりさえすれば!」
叫びながら、さらに攻撃を重ねる。
右ストレート、左フック、そして、身体を大きく回転させた、遠心力を乗せたハイキック。
そのすべてを、仮面の女は相変わらず捌いていく。
そのとき、仮面の女が初めて二歩分後退した。
間違いなく押している。
当たる——!
拳が、ついに仮面へ届く。
硬い感触。
初めてだ。初めて当たった——そう思った。
「ッ!」
渾身の拳が、片手で握られていたのだ。
「当たってやったぞ。満足したか?」
拳が、強力な握力に包まれる。リアハイリンは痛みに奥歯を噛み締め、その手を振り解いて後退した。
女が、呼吸ひとつ見出さず、告げる。
「質問に答えてなかったな。私の目的は、すべての世界を滅ぼし、リセットすることだ」
リアハイリンは眉間に皺を寄せた。
「世界を滅ぼす? なんで」
「そこに滅ぼすべき世界があり、私にその使命があるからだ」
仮面の女が何を言っているのか、リアハイリンには理解できない。
「どういうこと」
「人に聞いてばかりいないで、考えたらどうだ。まあ、おまえは、それが不得手なのだろうが。けっして頭が悪いわけではない。しかし、すぐに頭に血が昇り、冷静さを見失う」
「……っ!」
挑発的な言葉に、リアハイリンの動きが、一瞬だけ熱くなる。
その隙を、仮面の女は見逃さなかった。
右の拳が受け流される。
その瞬間、鳩尾に冷たい風が触れた。いつの間にか、仮面の女の掌底がそこにあった。あと数センチのところで静止している。
「——そういうところだぞ」
ひゅっ、と、リアハイリンの喉から、息がか細く漏れる。もし、あれが容赦なく打ち込まれていたら……。今ごろ、自分の内臓は、破裂していたかもしれない。
だが、今のリアハイリンは、それだけで怯むような、か弱いヒーローではなかった。
逆に、相手が攻撃に移った、その一瞬の隙を突く。
至近距離から、がら空きになった仮面の女の足元へ、渾身のローキックを放った。
今度こそ!
そう確信した一撃は、奇妙な感触を残して、空を切った。
リアハイリンの足は、仮面の女が纏う黒いローブの裾に触れただけだった。女の本体には届いていない。
黒が視界を覆った。
夜が落ちてきたのかと思った。
違う、布だ。
生き物のように蠢くローブが腕に絡みつき、首に巻き付き、視界を奪う。
「っ!?」
振り払う。
振り払えない。
早く……!
焦りが指を震わせた瞬間、顔面に膝がめり込んだ。
鈍い衝撃。
視界が、古いブラウン管テレビのように明滅する。鼻の奥の方で、何かがミシリと砕けるような感覚。リアハイリンの身体は、壊れた玩具のように、なすすべもなく、後方へと大きく吹き飛ばされた。
灰色の地面を無様に何度も転がり、ようやく止まる。全身に耐えがたい激痛が走り、もはや、まともに呼吸をすることさえできなかった。
「ぐ……あ……」
ゆっくりと顔を上げると、仮面の女が、静かにこちらへと歩み寄ってくるところだった。
彼女が纏っていたローブが消え失せ、その中のドレスが姿を現していた。
黒を基調とした戦闘服だった。漆黒の布に、どこか妖艶な紫色のラインが、その全身を鋭く走っている。その漆黒とは対照的な白く細い腕が、この灰色の世界で、ひときわ妖しく輝いていた。そして、戦闘服とは思えないほど、大胆で、そして特徴的なミニスカート。
「デシリアの……衣装……?」
ありえない。デシリル・ジェムは六つしかなく、そのうちの四つは、瑞季たちが身につけている。空の宝石は光の連邦の空の邦にあり、緑のデシリル・ジェムは行方不明のナーサが持っている。仮にそれを、この仮面の女が持っていたとしても、その姿のどこにも緑色はない。
それに、この黒は……?
仮面の女は何も言わない。ただ、じりじり、とまるで獲物を追い詰めるかのように、その間合いを確実に詰めてくる。無言の圧力が、リアハイリンの折れかけている心を削っていく。
一歩。
また一歩。
近寄ってくるが、攻撃はしてこない。
なのに、無意識に距離を取っていた。
もう、勝てない――。
心のどこかで、そんな声が聞こえた。
……でも、ここで諦めるわけにはいかない。
残された最後の力を振り絞り、大きく後方へ跳ねて距離を置く。そして、その傷だらけの右手に、自らの浄化のエネルギーを、極限まで集中させる。
この技で、決める。
「『黒き感情、無に帰せ。デシリア・クリア・スクリーム!』」
リアハイリンの右手から放たれた、純白の光線。それは、彼女のすべてを乗せた、最後の一撃だった。
しかし、迫り来る浄化の光を前にしても、仮面の女は微動だにしなかった。
ただ静かに、白く細い右手を前へ差し出す。
指先が、光を迎え入れるように開く。
……避けない?
いや、防御の構えですらない。光はもう目前まで迫っているのに、彼女は動かなかった。
やがて、その唇が静かに開く。
「——『白き感情、無に帰せ』」
白き感情。
無に帰せ。
その八文字が、彼女の耳にこびりついた。
……何を言った?
思考が追いつかない。
それは、彼女の理念と真っ向から対立する、冒涜的な言葉。
そんなリアハイリンの絶望を肯定するかのように、仮面の女は、その技の名を告げた。
「『デシリア・クリア・スクリーム』」




