第二十八話「黒き感情」-1-
——来週、また面白いものを見せてあげる。
磐名式乃が残した不気味な予告から、一週間がすぎた。
あれ以来、神辺穹が姿を現すこともなく、新種のスレイヴが現れることもなかった。
瑞季たちは警戒を続けていた。登下校の際はなるべくひとりにならないようにし、優菜は生徒会経由で地域の不審者情報を集め、アスラも周辺を独自に調査していた。
だが、得られた成果はほとんどない。
神辺穹も、磐名式乃も、まるで最初から存在しなかったかのように痕跡を消していた。
だからこそ、嵐の前の静けさのようで不気味だった。
そして、水曜日の放課後——。
じりじりとアスファルトを焼いていた太陽は、わずかにその勢いを弱めていた。まだまだ暑く、秋にはほど遠い猛暑だが、すでに陽が傾き始めていた空には、わずかに秋の気配が混じり始めていた。
優菜は生徒会の仕事があるとのことで、瑞季は星輝とふたりで家路についた。その後、星輝が夕食の食材を買いに行くというので、瑞季は「せっかくだからついていっていい?」と言ってふたりで駅前のスーパーに来ていた。
星輝は家族の夕飯を、瑞季はヒナのチョコチップメロンパンを買う。
「そうだ! この話しようとしてたんだった!」
買い物を終え、エコバッグに野菜やお肉をパンパンに詰めて出てくると、星輝が身振りを交えて楽しそうに話しかけてきた。
「先々週、アスラがウチに遊びに来てくれてさ。この話、もう聞いてたりする?」
「ううん。初耳」
「ウチの晃、アスラに一目惚れしちゃってるじゃん? もうね、ずーっとソワソワしてんの。頼んでもないのにお茶出してきて、しかも手が震えて溢れそうになってるし、やたらとキョドるしで、見てるこっちが恥ずかしくなっちゃってさ」
「あはは、目に浮かぶなあ。晃くん、分かりやすいもんね」
「だろ? でも、アスラはそんな晃にも、すっごい優しく接してくれてさ。晃の描いた絵とか見て、『とてもお上手ですね』なんて褒めてあげんの。どう見ても下手くそなのにさ」
「なかなか星輝お姉ちゃんは辛辣だね」
「絵なんてまともに書いたことないんだから、下手で元々だって。まあ、あれが、あいつ人生最高の瞬間だったんじゃないかな。この間、デッサン用紙買ってたよ。夜な夜な、なんか書いてる」
「単純だねえ。かわいい」
そんな他愛のない会話をしながら、ふたりは駅前の商店街を抜ける。星輝が、ふと一軒の楽器屋の前で足を止めた。彼女の視線の先には、ショーウィンドウに飾られた、鮮やかなメタリックブルーのギターエフェクターがあった。
「これ、この前、渡が欲しいって言ってたヤツだ……」
ぽつりと呟く星輝の横顔は、自分のことのように嬉しそうだった。
「へえ。三万円かあ……。高いね。そんなに音変わるの?」
「ぶっちゃけ、詳しくない人にはたいした変化じゃないよ。特にベースなんて、あんまり意識して聞かれないだろうし。でも、弾いてる本人的には、すげえ大きな違いがある。新しい機材で初めて演奏するときは、もうね、最高の気分だよ」
そう言って笑う星輝の顔は、バンド仲間との成功を、心の底から信じている顔だった。そのまっすぐな眩しさに、瑞季は少しだけ、目を逸らしたくなった。
ふたりは、近道のために、住宅街の中にある小さな公園を通り抜けようとした。
そのときだった。
公園の奥、滑り台の陰になった場所から、くぐもった子供の声が聞こえてきた。
「……やめてよ」
「うっせーな! まーたお前のせいで負けたんだろうが!」
「そうだよ! 毎度毎度、お前がパスミスするから! 何回言ったらわかんだよ!」
見ると、サッカーボールを持った三人の小学生が、ひとりの小柄な男の子を取り囲んでいた。典型的な、いじめの構図だった。突き飛ばされ、砂場で尻餅をついた男の子の目に、涙が浮かんでいる。
「で、でも、シンジくんだってシュートミスを……!」
「責任転嫁してんじゃねえよゴミが!」
リーダー格と思しき短髪の少年が、尻もちをついた少年の胸ぐらを掴み、強く突き放した。砂が舞い、汗が浮かぶおかっぱ頭の黒髪に付着した。
「止めよう!」
星輝が、正義感に燃える瞳で、すぐに駆け出そうとする。
だが、その腕を、瑞季は咄嗟に掴んで止めていた。
「待って」
その声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
瑞季は、掴んだ腕を離さないまま、もう片方の手でバッグからスマホを取り出す。
「今止めても、あの子たちはまたやるよ。だったら証拠を押さえて、学校にも親にも逃げられない形で突きつけた方がいい」
「え……? 瑞季、何言って……」
「まず証拠を集めよう。学校や親に言っても、『やってない』で終わるかもしれない。ちゃんと逃げられない形にしないと。ああいう連中には、ちゃんと代償を払わせてやらないと。そうだ、カメラで——」
そこまで一気に言って、瑞季は、はっと気づいた。
星輝が、信じられないものを見るような目で、自分を見つめていた。その顔には、困惑と、そして、かすかな恐怖の色が滲んでいた。
まるで、得体の知れない怪物でも見るかのような、そんな目。
どうしてそんな目を向けられているのか、瑞季には理解できなかった。
「……瑞季、本気で言ってるのか……?」
絞り出すような声だった。
「え?」
瑞季は、自分が何を間違ったのか、理解できなかった。これは、最も合理的で、効果的な解決策のはずだ。感情的に割って入るよりも、よほど。
「証拠なんかあとでいいだろ! 今あの子が泣いてるんだぞ! まず助けるんだよ!」
星輝は、瑞季の手を振り払うと、いじめられている男の子の元へと駆け出した。
「おまえら! 何してんだ! 大勢でひとり相手に、恥ずかしいと思わねえのか!」
星輝の怒声に、いじめていた子供たちはびくりと体を震わせる。しかし、いくら星輝の声に迫力があるといっても、背丈の変わらない星輝に対し、いじめっ子たちが蜘蛛の子を散らして逃げるようなことはなかった。
「なんだよおまえ」
「こう見えてもおまえよりはお姉さんだぞ。さ、帰れ。本当に大切なものを失くしちまう前に」
「は? なんか白けちまったな。ほら、行くぞ」
リーダー格と思われる少年がそういうと、いじめっ子たちは去っていった。残された少年に、星輝は「大丈夫か? 痛かったよな」と手を差し伸べている。
瑞季は、その光景を、ただ、じっと眺めることしかできなかった。
星輝の背中が、やけに遠く見える。
彼女の行動は、確かにヒーローらしい。でも、根本的な解決にはならないのでは。
「私の考えの方が、現実的で確実なのに……」
瑞季は、誰にも聞こえないほどの小声で呟いていた。
ぐるぐると、思考が渦を巻く。
そのとき、背後から、楽しそうな声がかけられた。
「自分の本質に気づいたかい?」
その声に、瑞季は弾かれたように振り返った。
公園の入り口、大きな木の陰に、白いシャツと短パンを身につけた、気だるそうな緑髪の女——磐名が、嘲るような笑みを浮かべて立っていた。




