第二十七話「緑の前触れ」-7-
そこは、光の届かない場所だった。
窓はなく、壁も床も天井も、暗い紫色で統一されている。部屋に置かれた家具は、豪奢な彫刻が施されたアンティーク調の長椅子と、その前に置かれたガラスのローテーブルのみ。それらもまた、黒檀のような漆黒に染め上げられていた。
部屋を照らしているのは、天井から吊り下げられたシャンデリアの冷たい光だけ。その妖しい光が、部屋の主たちの影を、床に長く、歪に伸ばしている。
「ただいまっと」
気怠い声と共に、何もない空間が音もなく裂け、そこから磐名式乃が姿を現した。彼女は、まるで自宅に帰ってきたかのように、何の気負いもなく長椅子にどさりと腰を下ろす。
「おかえり、式乃」
その声は、部屋の奥の、玉座のような椅子に腰掛けていた人物から発せられた。
黒いローブに身を包み、顔には悲しげな表情を浮かべた、白い仮面。
「どうだった? 楽しめたか?」
「んー、まあまあかな。あいつら、思ったよりは骨があったけど、まだまだ青いねえ。こっちの想定通り、きっちりピンチになって、きっちり仲間との絆パワーで乗り越えてたよ。まったく、少年漫画のオヤクソクって感じ」
磐名はそう言って、くつくつと喉を鳴らした。
「それにしても、その仮面、よっぽど気に入ってるんだね」
「まあな」
仮面の女は、自らの仮面にそっと触れた。
「この変声機も、よくできている。実際の声はほとんど聞こえないのだろう?」
彼女の声は、機械的なエフェクトがかかり、本来の声色や年齢を一切感じさせない、無機質なものに変換されていた。
「ああ。まったく分かんないね。ま、アンタのことだから、実際にはもっと変な理由があるんじゃない? たとえば、これがアニメか何かだとしたら、ここで素の声を出すと正体が視聴者にバレるから、とか。そういうメタい理由がさ。そういうの好きだもんな?」
磐名の不遜にも聞こえる言葉に、仮面の女はわずかに肩を揺らして笑った。
「よく理解しているじゃないか、式乃」
「どれくらいアタシがアンタに付き纏ってるとお思いで? それより、例のスレイヴだけどさ、いい感じじゃん。ヤツの言ってたとおり、旧式と比べて召喚主の負担が少ないみたいだよ」
「負担のほとんどを、素体が被るからな」
「さすがはヤツの仕事だね」
「ああ。少々下品だがな」
「で、言われたとおり、あのガキどもには意味深なことだけ言って去ってきたよ。『来週、面白いものを見せてあげる』ってね」
磐名は、楽しそうに目を細めた。
「上出来だ」
仮面の女は、磐名の背後に立つと、その無防備な頭を優しく撫でた。その手つきは、まるで忠実な僕を労う主のよう。
磐名は、一瞬だけびくりと身体を震わせた後、心地よさそうに目を閉じた。その頬がわずかに赤く染まり、口元が緩む。まるで褒められた子犬のように、彼女は目を細めていた。
「さあ、次のステージの準備を始めよう」
仮面の女は、部屋の壁に向かって手をかざした。すると、漆黒だった壁が、巨大なスクリーンのように変化し、そこに繋市の俯瞰映像が映し出される。
映像は、急速にズームしていく。植物園から、駅へ向かう道へ。そして、とぼとぼと、どこか思い詰めたような顔で歩く、ひとりの少女の背中を、鮮明に映し出した。
「君は、きっと正しい選択をするだろう」
その声には、確信にも似た、冷たい響きがあった。
「未来など、必要ないのだから」
スクリーンに映る、何も知らない染谷瑞季の姿を見つめながら、仮面の内側の口元が、三日月のように歪んだ。
◆
自宅に帰った瑞季は、床に敷いた座布団にお尻を置き、大きく息を吐いた。
凪宮琥珀、神辺穹、そして磐名式乃。今日一日の情報量があまりに多くて、少し頭がふわふわしている。頭の中が整理しきれず、夏の暑さも相まって煙が出てしまいそうだった。
ベッドの枕元で丸くなっていたヒナが、むくりと身を起こす。
「おかえりニャ。スレイヴは、無事に浄化できたニャ?」
ヒナはスレイヴの登場を検知できる。家の中で、瑞季たちの無事を祈っていたのだろう。
「うん。でもね……」
今日一日のことを、瑞季はヒナにかい摘んで説明した。朝、見ず知らずの少女に襲われたこと。不思議な少年に助けてもらったこと。そして、植物園での戦い。
ヒナは瑞季の話の腰を折ることはせず、リアクションを抑えながら真剣に聞いてくれた。
「スレイヴのことも、磐名って人が使った瞬間移動みたいなのも……。やっぱり、アスラちゃんの故郷が関係しているとしか思えなくてさ」
瑞季は、天井を見つめながら呟く。
「そんなことが……」
ヒナは香箱座りのような姿勢で、俯きぎみに唸った。その表情には、いつもの食い意地も軽口もなかった。
「ありえない話ではないかもしれぬけど……。向こうの世界から、この無の邦に直接来るには、まず『扉』がある空の邦を通らないといけないニャ。だけど、人間がそこを潜り抜けたらぼくの耳にも届くはずだし、気づかれないはずもないニャ。そもそも、第一世代でも第二世代でもない、奇妙なスレイヴなんて……」
「第三世代は、あんな禍々しい感じじゃないの?」
「第三世代スレイヴは、第二世代を少々小ぶりにしたようなものだニャ。恐怖が黒感情の元になっていることが多いから、少しおどろおどろしいかもしれぬが、瑞季から聞いたような、人間とそうでないものを混ぜたような風貌ではないニャ」
「そっか……。やっぱり、ヒナにも心当たりはない?」
ヒナは、わずかに視線を泳がせた。
「ないニャ」
「そっか」
「瑞季」
ヒナは、力強く瑞季の瞳の奥を見上げた。
「来週何が起こるのか、ぼくも興味があるニャ。だから、来週はぼくも学校に行くニャ」
「いいの? 暑いよ? バッグの中は蒸れるよ?」
「コンパクトミラーの中ならへっちゃらだニャ」
「じゃあ、なんでメロンパンを買いに行かせたの」
「あ、それは……」
ヒナはわざとらしく目線を逸らした。
そのとき、
「瑞季ー! ごはんできたわよー!」
部屋の外から、母の明るい声が聞こえてきた。日常が、非日常に侵された心を、優しく現実に引き戻してくれる。
「うん!」
瑞季は立ち上がり、ヒナに向き直った。
「仕方ないなあ。命拾いしたね。ごはん行ってくる」
「うむ。いってらっしゃいだニャ」
瑞季がパタパタと部屋を出ていく。その背中を、ヒナはじっと見送っていた。
ドアが閉まり、部屋に静寂が戻る。
ヒナは、小さな声でぽつりと呟いた。
「……すまないニャ、瑞季」
その声は、夏の夜の空気に溶けていった。
(第二十七話「緑の前触れ」了)
第二十八話「黒き感情」2026/08/22 8:00投稿予定




