第二十五話「ヒナとの別れと、新世界への序章」-7-
茜色の夕光が、繋市の穏やかな波打ち際を物悲しい色彩で塗り潰していた。絶え間なく押し寄せる波の音だけが、静寂の底で規則正しく響いている。
ナーサは砂浜に立ち尽くし、水平線の彼方へと沈みゆく太陽を空虚な眼差しで見つめていた。潮風が、彼女の左右で色の異なる髪を寂しげに揺らしている。
「ジン……」
王座の間での光景が鮮明に蘇る。ジンの最期の相貌。
——君は、生きるんだ。
以前、彼女はアジトの書物庫で精霊の生態に関する記述を目にしたことがあった。そこには精霊の『同化』について記されていた。精霊の番は役目を終えると、互いの魂を完全に融合させ、ひとつの存在として永遠を歩む道を選択できるという。同化が極まれば二度と元の二匹に戻ることは叶わず、その状態で死を迎えれば、来世でも必ず再び結ばれる——。
その記述を読んだとき、ナーサは直感した。
スレイヴは、精霊の力を応用して作られている。もしかしたら、人間とスレイヴもまた、長期間ひとつの器の中に魂が存在し続けることで、精霊の番と同じように同化してしまうのではないか、と。そして、ジンはまさしく、その状態にあったのではないか。
だからこそ彼は、スレイヴとしての部分だけが浄化されてしまうことなく、肉体ごと完全に消滅する運命にあった。
そして、最後のあの声——。
もうジンはこの世界のどこにも存在しない。彼が真に渇望した未来も、仮面の奥に秘めていた慟哭も、もはや誰にも暴くことはできない。
「これから、どうしようか」
ナーサは力なく膝をつき、乾いた砂の上に座り込んだ。
先ほど、かつての根城であったアジトへ足を運んでみた。静かだった。ただ、光の連邦へと続くあの巨大な石の扉だけが、戦いのあとの虚脱感を象徴するように、無防備に開かれたままになっていた。
今さらあの世界へ戻る気にはなれなかった。ジンを失い、妹に背かれ、唯一の居場所を失った今の自分に、いったいどんな顔をして故郷の土を踏めというのか。
自嘲の泥沼に沈みかけていた、そのときだった。
背後の空気が、わずかに温度を変えた。敵意でも殺気でもない。けれど、肌の表面をざらりと撫でるような不気味な違和感。
「こんなところにいたか」
背後から届いたのは、変声機を通した、無機質で歪んだ響きだった。
ナーサは弾かれたように身体を翻した。
そこに佇んでいたのは、全身を漆黒のフード付きガウンで包み込んだ人影だった。古い映画に登場する無慈悲な裁判官か、あるいは魂を刈り取る死神を連想させる。その顔面は、仮面で覆い隠されていた。ジンのものと似ていながらも、より複雑で禍々しい紋様が施された仮面。
その仮面といい、闇を吸い込むようなコートといい、ナーサはその姿に、消え去ったはずの男の残像を重ねてしまう。
「……」
ナーサは本能的に警戒を強め、仮面の主を射抜くように睨み据えた。
「探したぞ、ナーサ」
仮面の人物が静かに口を開いた。
背丈は、女性としては長身のナーサよりも低かった。フードの隙間から覗く艶やかな黒髪が、後頭部でひとつに結ばれている。仮面に掛かる長い前髪が、その眼差しを不気味に隠していた。
「誰だ、あんた。なんであたしの名前を」
「さあね。自分で考えてみれば?」
仮面の女はナーサの口癖をなぞり、茶化すような響きを混ぜて応じた。
挑発的な態度に、ナーサは奥歯が砕けんばかりに噛み締める。衝動のままに殴り飛ばしたい欲求を辛うじて抑え込んだのは、それ以上に拭えぬ既視感があったからだ。
変声機越しとはいえ、この声の抑揚。どこかで聞き覚えがあるような——。
「あたしに何の用だ」
苛立ちを隠さず、吐き捨てるように尋ねた。
「君には、とある『探し物』を手伝ってほしい」
「探し物?」
「まずは、君がその依頼を承諾するかどうかだ。話はそれからだ」
ナーサは鼻を鳴らし、一笑に付した。
「はっ。あんた、交渉のいろはも知らないのか? 何の対価もなしに、誰がそんな面倒な真似をするかっての」
「復讐」
仮面の女が短く放ったその単語が、ナーサの思考を停止させた。
「……何だって?」
「君に探してもらう物は『力』だ。それは君にとって、想像を絶する強大な牙となるだろう。そしてその力は、君の心の底で燻り続ける、行き場のない復讐心を満たしてくれるはずだ。現在の君の境遇を察するに、悪い話ではないだろう」
仮面の女の言葉は、まるで悪魔の囁きのように、ナーサの心の亀裂へと滑り込んできた。
「本当に何者なんだ、あんた。なんであたしのことをそこまで……」
ナーサは疑念と微かな好奇心を綯い交ぜにしながら、仮面の主を注視した。
しばらくの間、夕暮れの砂浜に沈黙が降り積もる。波の音だけがふたりの間に横たわり、空間を不気味に揺らしていた。
やがて、ナーサはふっと肩の力を抜き、自嘲気味に口角を上げた。
「……まあ、いいさ。どうせあたしは帰る場所も行く当てもない、ただの居候崩れだ。分かったよ、その『探し物』とやらを探してきてやる。……それで? 何をすればいいんだ?」
ナーサの受諾を受け、仮面の女が満足げに顎を引いたように見えた。
「心配はいらない。私の相棒を案内役に付ける。詳細はそちらから聞くといい」
仮面の女はそう告げると、漆黒のローブの懐から手のひら大の物体を取り出した。
見覚えのあるフォルムを目にし、ナーサは呼吸を忘れた。
「それって……」
仮面の女が、淡い空色のコンパクトミラーをゆっくりと開く。
大気がわずかに震え、空間の歪みと共にコンパクトミラーがその姿を消した。代わりに、宙へひとつの物体がふわりと浮かび上がる。
ナーサは目を見開いたまま、石像のように硬直した。
「……これはこれは。ずいぶんと久しい顔だニャ、ナーサ」
虚空に浮かぶ猫のぬいぐるみ。その存在から放たれるオーラは、彼女の知るどの精霊とも決定的に異なっていた。
姿も、声も、確かに覚えがある。けれど、そこにあるのは、これまで見たことのないほどの、底知れぬ暗い闇。
「ふああ……。よく眠ってしまったニャ……。それで? ナーサはぼくらの計画に乗ってくれるのかニャ?」
猫のぬいぐるみは大きく口を開けてあくびをしながら、女へ問いを投げた。
「付き合ってくれるようだ。……どうやら、しばしの別れになりそうだ。寂しくなるな」
仮面の女は、宙に浮かぶぬいぐるみの顎を愛おしげになぞった。
「——さあ、彼女を新しい世界へと導いてやってくれ。……ヒナ」
(第二十五話「ヒナとの別れと、新世界への序章」了)
(ヘヴン編 了)
次回より新章「ヴォイズ・アーク編」開幕。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次週は休載し、再来週 2026/8/8 8:00から連載再開予定です。
もしよければ、感想・レビュー等をいただけると嬉しいです。




