第二十五話「ヒナとの別れと、新世界への序章」-6-
アスラを乗せた小型飛行機は、希薄な大気を切り裂きながら高度を上げていた。
大人がようやく直立できるほどの天井高に、左右に配置された合計十席の座席。前方には複雑に発光する計器類が並ぶコックピットが覗き、後方の小さな扉はメンテナンス用の区画へと繋がっている。
アスラは左後方の窓際に身を沈め、眼下に広がる光景をぼんやりと見つめていた。高度を増すにつれ、かつて自分が歩いた地上の森や家々は色彩を失い、まるで精巧に作られたミニチュアの世界のように小さく、遠ざかっていく。今、機体はちょうど彼女の生まれ故郷である極北の地の上空を通過していた。
「アスラ、具合はどうだ」
不意に隣の席から投げかけられた声に、外を眺めていたアスラは驚いた猫のように肩を跳ねさせて振り返った。
「あ……カスパールさん……。は、はい。大丈夫です。ただ、飛行機に乗るのは初めてなので、少しだけ緊張しています」
アスラは、自身の緊張を解きほぐすように、力の抜けた笑みを返した。
「ふむ。無理もないな」
カスパールは以前の鋭利な厳しさを幾分か和らげた面持ちで、静かに首肯した。
「私もこれほどの高高度を飛ぶのは初めての経験だ。操縦士の報告によれば、現在の標高は通常の旅客機が到達できる限界付近らしい。間もなく右手の進行方向に、我々の目的地が姿を現すはずだ」
彼女の右耳に装着されたインカムには、コックピットからの情報が断続的に流れ込んでいるのだろう。カスパールは時折、短く事務的な応答を返していた。
「承知しました。……いつでもいけます」
「うむ。期待しているぞ」
アスラの言葉には、緊張を押し退けるような確かな覚悟が滲んでいた。
カスパールは右腕を左胸に添えて武人らしい礼を尽くすと、通路を挟んだ前の席に座る一行へと歩み寄った。そこには風の邦から選抜された、特に強大な力を有する五名の精霊たちが控えている。彼らは空の精霊とは異なり、明確な肉体を持っており、見た目こそ人間の子供のようだが、髪や瞳の色は大気のように透き通り、その一挙手一投足は重力を忘れさせるほどに軽やかで優雅だった。
アスラはカスパールの座っていた席の隣、窓際へと視線を移す。
ヒナが、じっとこちらを注視していた。アスラと目が合うと、ヒナは柔らかく目を細め、胸を叩くような仕草で自信を伝えてきた。
「……きっと、成功するニャ」
事の発端は、今から二日前の夜に遡る。
静まり返った優菜の家を、カスパールが単身で訪れたのだ。
「こんな夜更けにどうされたのですか? カスパールさん」
玄関を開けた優菜が、驚きを隠せぬ様子で問いを投げた。優菜に呼ばれて現れたアスラを含め、三人は門扉の前で言葉を交わすことになった。
「うむ、夜分に済まないな」
カスパールはどこか決まり悪そうに眉を下げ、視線を泳がせた。
「一刻も早く、アスラの耳に入れておきたい情報が入ってな。……それに、まあ。久々に君の顔が見たくなったという理由も、否定はしない」
彼女は照れ隠しをするように、そっと顔を背けた。
「久々だなんて。まだ三週間ほどしか経っていませんよ?」
アスラがくすりと笑みを零すと、カスパールは遠い空を仰いだ。
「……そうであったな。私がまだ学生だった頃、親元を離れて士官学校に入学した翌週に、心配した母がわざわざ会いに来てくれたことがあった。……あのときの母の心境が、今になってようやく理解できたよ」
「ふふ。玄関先で立ち話もなんですし、どうぞ中へ」
優菜が招き入れようと促したが、カスパールは首を横に振ってそれを断った。
「いや、手短に済ませる。優菜君、そしてアスラ。急ですまないが……三日間だけ、アスラを私に貸してはくれないだろうか」
カスパールとふたり、ヘヴンのアジトへと向かう道すがら、アスラは尋ねた。
「向こうの皆さんは、お元気ですか?」
「ああ、壮健だ。ちなみに私は先ほど、こちらの世界で『カレーうどん』なる料理を食してきた。インドにルーツを持ち、私が愛してやまないカレーと、日本古来の麺料理の融合……実に興味深い体験だったよ。アスラ、君も折を見て試すといい。うどんに絡みついた出汁が、周囲に容赦なく飛び跳ねる様を見ていると、活力が湧いてくる」
「ええと……はい、機会があれば。それより、ブラフザールさんは?」
「彼なら、君たちが無の邦へ帰還した翌日には、何事もなかったかのように光の連邦へ戻ってきた」
「よ、翌日?」
カスパールが苦笑を漏らす。
「あの状態から一日で覚醒するとは、驚嘆に値する頑強さだ。彼の助力もあり、政府への説明や他国への働きかけは概ね順調に進んでいる。……もっとも、長年の憎悪が収束するにはまだまだ時間がかかるだろう。精霊への反発は根強く、また、精霊から王子への風当たりも依然として厳しいのが現状だ」
「そうですか……」
アスラの表情に薄暗い影が落ちる。ナーサの名が出ない事実に、彼女はあえて触れなかった。
「やはり、灰呪雲が消え去らない限りは……」
「今日は、その灰呪雲について新たな進展があったことを報告しに来たのだ」
その言葉に、アスラの瞳に期待の色が灯った。
「微々たる変化ではあるが、世界各地の観測地点で雲が薄くなり始めていることが確認された。専門家の予測では、早ければ半年で地上から空の色が望める箇所が現れ、二年以内には完全に消滅する可能性が高い」
「本当ですか!? よかった……!」
「実はな、アスラ。観測データの中で、特に雲の層が薄くなっている地点がひとつ確認されてたのだ。君の故郷である、ルクレートの上空だ」
「ルクレートの?」
カスパールは黙って頷く。
「そこで軍部から、ある提案が持ち上がった。最も脆くなっている箇所に集中的に干渉し、強制的に風穴を開けることはできないか、とな」
「風穴……」
「実際に地上から本物の青空を仰ぐことができれば、民衆が抱く精霊への不信感も、少しは和らぐかもしれん。それが融和への確かなきっかけになると、我々は踏んでいる。……そこでだ。高高度飛行が可能な小型機で雲の直下まで接近し、君の力で雲に風穴を開けてもらいたい。実は風の邦の精霊に協力して試したのだが、成し遂げられなかった。しかし、君の力があれば……地上に最初の一筋の光を届けられると、私は信じている」
アスラは、カスパールがわざわざ自分を訪ねてきた真意をすべて理解し、深く頷いた。
「承知しました」
アスラはカスパールの真剣な双眸を真っ向から見据える。
「それが、風のデシリアである私の天命なのでしょう」
そして、現在。
「『デシリアの 神風放つ魂は 如何なる者にも止められない。吹き抜ける心、リアウインズ!』」
狭い機内を黄金色の閃光が塗り潰した。アスラがリアウインズへと姿を変えると、風の精霊たちかは思わず息を呑んだ。
伝説の戦士は、確かにそこにいた。
ヒナはあたかも自分の手柄であるかのようにちっぽけな胸を張り、満足げに鼻を鳴らしている。
「アスラ。そして、風の精霊の諸君。見えたぞ」
カスパールが、厚いアクリル窓の向こうを鋭い指先で示した。
視線の先。果てしなく続く鉛色の雲海の中に、明るい灰色が滲む一点があった。周囲の闇を拒絶するように、内側から仄かな乳白色の光を放つその場所は、さながら分厚いカーテンの綻びのようにも見えた。
「あれが、灰呪雲の急所だ」
小型機はエンジンの唸りを上げながらさらに高度を稼ぎ、雲の境界線へと肉薄する。手を伸ばせば触れられそうな距離。操縦士が機首を光の綻びへと向け、水平を保った。
機内に、張り詰めた緊張が充満する。
「——今だッ!!」
カスパールの号令が空間を打った。
リアウインズと五人の精霊が、開け放たれたハッチから、一斉に全霊の力を解き放った。
大気が悲鳴を上げ、凄まじい風圧が機体を揺らす。放たれた空気の奔流は、自律した意志を持つかのようにジャイロ回転を加えながら加速し、一点へと収束していく。それは、天を穿つ不可視の巨槍。
風の塊は灰呪雲の最も薄い層へと突き刺さり、内側から爆発的に膨張して分厚い障壁を力ずくで押し広げた。
刹那。
五百年の長きにわたり世界を閉ざし続けた灰色の蓋に、孔が開いた。
リアウインズは絶え間なく空気を送り込み、その亀裂を押し広げる。孔は同心円状に拡大を続け、やがて直径五十メートルに及ぶ巨大な光の窓が完成した。
その向こう側に、彼らは見た。
どこまでも深く、吸い込まれるような純粋な蒼を。
その色彩を鮮やかに焼き付ける、剥き出しの太陽が放つ白銀の輝きを。
それはかつて、ジンが妹と共に夢見、写真の中でしか存在しなかった、真実の景色。想像を遥かに超越した、残酷なまでの美しさ。
アスラもカスパールも、風の精霊たちも、そしてヒナでさえも、呼吸を忘れてその奇跡を食い入るように見つめていた。
「美しいニャ……」
ヒナが震える声でこぼした。その響きに誘われるように、アスラの目尻から温かな雫がこぼれ落ちた。
「……はい」
アスラは、震える唇を噛み締めながら応じた。
「無の邦の空も綺麗でしたが……この空は、もっとずっと鮮やかに見えます。まさしく、ジンさんが切望した、本当の『天国』のようです……」
カスパールが、アスラの肩へ優しく掌を置いた。
「この無限に広がる蒼穹の向こうで、ジンとミィシャは今頃、ふたりで我々を見守っていることだろう」
「……そうですね。私も、そう信じています」
アスラは小さく首肯した。だが、その横顔の陰りに、カスパールが気づく。
「表情が暗いな、アスラ」
「……はい」
その一言を漏らした途端、堤防が決壊するように、アスラの瞳から、熱い涙が止めどなく溢れ出す。彼女は言葉を失い、ただ目の前に広がるまばゆい希望を、滲む視界の奥へ焼き付けようとしていた。
掠れた声が、風に溶けていく。
「お姉ちゃんと一緒に見たかったな、って……」




