第二十五話「ヒナとの別れと、新世界への序章」-5-
夕刻、窓の外に広がる景色は、昼間の猛烈な豪雨が嘘であったかのように澄み渡っていた。分厚い雲は跡形もなく退き、水平線の彼方から差し込む夕光が、雨滴を纏った街路樹を宝石のように輝かせている。
西沢沙耶は自室の机で、所在なげにスマートフォンの画面を見つめていた。瑞季へ送ったメッセージは、数時間が経過した今も沈黙を保ったままだ。あの日以来、漠然とした不安が心の片隅に澱のように溜まっていた彼女にとって、その空白はあまりにも重かった。
不意に、掌の中で端末が震動した。画面に写ったのは、待ち焦がれていた親友の名前。沙耶は弾かれたように通話ボタンを押し、受話口を耳に当てた。
〈もしもし、沙耶? ごめんね! ずっとメッセージに気づけなくて〉
受話口から零れた瑞季の声は、憑き物が落ちたような晴れやかさを帯びていた。
「ううん、大丈夫。……でも、電話をくれるなんて、珍しいね。どうしたの?」
〈ちょうどね、沙耶と話したいなって思ってたところだったから〉
「え、どうして?」
〈ちょっとね。ここ最近、いろんなことが重なってたでしょ? さっきようやくそれが一段落ついて……それで沙耶のメッセージを見た瞬間に、どうしても声が聞きたくなっちゃったんだ。沙耶の声を聞くとね、すごく落ち着く〉
「そう、なんですか? ……初めて言われました」
沙耶は少し頬を熱くしながら、喜びを噛み締めるように応じた。
瑞季は言葉を選び直すように、ゆっくりと言葉を継ぐ。
〈うん。なんていうか……日常の大切さを噛み締められるというか。……えっと、その、なんだろう。自分でもよく分からなくなってきちゃった。えへへ〉
照れ隠しの笑い声。その響きに触れた瞬間、沙耶の胸の奥を塞いでいた冷たい塊が溶け去った。
「日常の大切さ……。私が今、こうして当たり前の毎日を楽しめているのは、全部瑞季さんのおかげだよ」
〈そうなのかな。……もし、また何かつらいことがあったら、すぐに言ってね。私がその原因を全部、まとめてぶっ飛ばしてあげるから!〉
「ふふっ。そのときは、お願いするね」
沙耶は窓の外、美しく燃える夕焼け空を見上げた。
瑞季がいなかったら、この夕焼けを見ることもなかったのかもしれない。
ふと、そんな考えが胸をよぎった。
◆
初夏の陽光が容赦なく降り注ぐ土曜日の午後。高梁家の玄関に電子音が鳴り響き、晃は素早く扉を押し開けた。そこに立っていたのは、涼しげな水色のワンピースに身を包んだ優菜だった。
「月音さん、こんにちは!」
「こんにちは、晃くん。アスラちゃんがいなくてごめんね」
優菜が申し訳なさそうに眉を下げて挨拶すると、晃は慌てて首を左右に振った。
「い、いえいえ! そんなの全然、気にしてないですから!」
「何言ってんだか。晃のやつ、さっきまで心ここに在らずって感じで、運動会で使った二人三脚の紐を見つめてたんだぜ?」
背後から現れた星輝が、弟の動揺を愉しむように茶化した。
「い、言うなよ姉ちゃん!!」
顔を真っ赤にして抗議する晃を余所に、星輝は優菜を自室へと促した。
今日は、成績が芳しくない星輝が優菜に宿題を教わる約束をしていた日だ。本来はアスラも加わる予定だったのだが、急な事情で欠席となったらしい。
星輝の部屋に入ると、ふたりは早々に机に向かい、問題集を広げた。晃も同じ部屋の隅で、自分の宿題を片付ける体裁でふたりの様子を観察していた。
ペンを走らせる音が規則的に響く室内。晃は、目の前の光景に微かな衝撃を覚えていた。
——姉ちゃんが、自分から机に向かって集中してるのなんて、初めて見た気がする。
姉といったら、「今日は勉強するぞ!」と息巻いて部屋にこもっても、十分後にはギターの音が廊下に漏れ聞こえくるのが平常。
そんな姉が、今は背筋を伸ばし、一心不乱に数式と格闘している。
「……晃。さては失礼なこと考えてるな?」
星輝が顔を上げずに釘を刺した。
「エスパーかよ。こわっ」
「おまえの目は口ほどにものを言ってんだよ。まあ、否定はしないけどさ。最近は自分の部屋でも、ちょっとは勉強するようになったんだぜ?」
「……なんで? 姉ちゃん、勉強嫌いだったじゃん」
「ウチもさ、優菜やアスラみたいな『知的な女』になりたいからな」
「無理だよ」
「即答すんな! ……ほら、ここ教えてくれ、優菜」
軽く小突き合う姉弟のやり取り。晃は、優菜が自分たちに穏やかな眼差しを向けていることに気づく。
「どうしたんですか? 月音さん」
「ふたりが楽しそうで嬉しいな、って」
優菜は温かい笑みを保ったまま星輝のノートを見て「ここ間違ってるよ」と指を差した。
「アスラさんは、お元気ですか?」
「うん、元気にお出かけしていったよ」
「それなら、よかったです。夜には戻ってくるんですか?」
月音さんが帰宅するときについていって、あいさつくらいしてもいいかも、と胸をドキドキさせながら質問した晃だったが、彼女からの返答は意外なものだった。
「ううん。数日は戻れないかな」
「そ、そんなに!? もしかして、故郷に帰ったとか?」
「まあ、そうだね。急遽、生まれ故郷へ行くことになって」




