第二十五話「ヒナとの別れと、新世界への序章」-4-
灰呪雲の制御装置のエネルギー供給を完全に停止させ、一行は再び空の邦の城へと帰還した。
地下の重苦しい閉鎖空間から解放され、窓から差し込む柔らかな陽光が、戦い抜いた彼女たちの肌を心地よく撫でる。
カスパールは一度足を止め、瑞季たち三人の正面に立って居住まいを正した。
「君たちの働きにより、我々は解放への新たな一歩を踏み出すことができた。改めて感謝する。これより私は、人間と精霊の和平へ向けて最前線に立たせてもらう。……もちろん、王子と共に」
その言葉を受け、瑞季の肩に乗った三毛猫のぬいぐるみが背筋を伸ばす。
「よろしくニャ、カスパール。空の邦の王子として、人事を尽くさせてもらうニャ」
長かった戦いが、ようやく真の意味で幕を閉じようとしていた。
空間を満たすのは、安堵感。そして、静かに忍び寄る別れの予感。
「……ヒナ。そっか。もうお別れなんだね」
瑞季の脳裏に、八年前のことが蘇る。道端で拾った、汚れたぬいぐるみ。家に持って帰って、クリーニングして、ずっと友達として接していた。数ヶ月前に、不思議な音が響いてヒナが目覚めたときは、本当にびっくりした。最初はわがまま放題なぬいぐるみだったけれど、強敵へ立ち向かう姿は誰よりも勇敢で。何より、時折交わす軽口のやり取りがいつの間にか日常になっていた。
瑞季は溢れそうになる雫を手の甲で手早く拭い、指先でヒナの顎のあたりを優しくなぞった。
「……うむ。ぼくはしばらくこの邦に残り、果たすべき責務を全うせねばならないニャ」
ヒナは瑞季の指に自らの小さな頭を預け、名残惜しそうに呟いた。
「でも瑞季、これは永遠の別れではないニャ。ぼくはまだまだ、おぬしたちと一緒にいたい。だから……この光の連邦とアスラたちの邦との間に和平の道筋がつき、未来へ向かって前進し始めたら。そのときは、必ずみんなの元へ戻るつもりだニャ」
「え……。でも、王子様のお仕事とか、お城の公務とかはいいの?」
瑞季の素朴な疑問に、ヒナは鼻を高くした。
「ふふん。ただ城に引きこもってふんぞり返っているだけが、王子の仕事ではないのだニャ。ぼくがこうして異世界の住人と種族を超えて手を取り合う姿を見せることで、和平に現実味を与えることができる。……そう信じているニャ」
それは、幼い王子が導き出した、平和への貢献の形だった。
「ヒナさん」
アスラの、風鈴のような声。
「私も、こちらの人間として、精一杯頑張ります。なので——」
「駄目だ」
カスパールが彼女の言葉を決然と制した。
「え」
「君は無の邦へ戻りなさい。もうヘヴンの人間ではないのだから」
「で、でも、カスパールさん! 私も、何かお手伝いできることが……!」
アスラが食い下がろうとする。
「いいんだ。アスラ」
カスパールは穏やかに首を横に振った。
「これからの泥臭く、煩雑な仕事は、我々大人が責任を持って引き受ける。君はまだ若い。彼女たちと共にあの平和な世界で、普通の少女としての時間を謳歌すべきだ。……君も、本当はそれを望んでいるのではないか?」
その指摘に、アスラは言葉を失った。ヘヴンにいたときの彼女は、ずっと使命のために働いていた。ヘヴンを抜けた後も、自分だけがこんなに平和に過ごしていていいのかと自問していた。
カスパールの言葉により、自ら絞めていた鎖から解かれたみたいに、心がふっと軽くなった。
カスパールはさらに言葉を重ねる。
「本来ならば、君のこれまでの献身に報いるための資金や土産を持たせてやりたいのだがな……。残念ながら、異世界の存在を公にできぬ現段階では、目立つ援助をすることはできない」
カスパールは一度言葉を切り、優菜へ向き直ると、深く頭を下げた。
「月音優菜さん。まことに不躾な頼みではあるが……。もうしばらくの間、アスラを預かってはくれまいか」
一国の将軍が、年若き中学生に膝を折る。その光景の異様さは、彼女がアスラへ抱く、もはや偽る必要のない深い慈愛を物語っていた。
優菜は迷わず、力強く応じた。
「……はいっ! もちろんです、カスパールさん! わたしもアスラちゃんとまた一緒に暮らせるなんて、すっごく嬉しいですから!」
その言葉を聞いた瞬間、アスラの瞳が潤んだ。
「優菜さん……っ!」
感極まったアスラが優菜の胸へと飛び込む。優菜もまた、その華奢な肩を優しく抱きしめ返した。
「また、一緒にいられるのですね……!」
アスラの声は、喜びと安堵で震えていた。
隣では星輝が、太陽のような明るい笑みを顔いっぱいに広げている。
「おう! アスラちゃん、またウチにも、いつでも遊びに来てくれよな! ウチの弟たちも、めちゃくちゃ喜ぶと思うからさ!」
「はいっ! ぜひお伺いさせていただきます!」
アスラは涙を拭い、満開の花のような笑顔で返した。
そして最後に。
ヒナは、瑞季たちを宙に浮いて見守っていた。王子として、最後くらいは気丈に振る舞おうと。
だが——ヒナは、瑞季の胸元へ勢いよく飛びついた。
「うわっ、ヒナ!?」
「瑞季! 短い間のお別れだと分かっていても、やっぱり寂しいニャ……!」
ヒナは瑞季の服に顔を埋め、声を震わせて泣きじゃくった。その姿は一国の王子のものではなく、ただの甘えん坊の子供そのものだった。
「もう、ヒナったら……。しょうがないなあ」
瑞季は困ったように笑いながらも、その柔らかい身体を愛おしそうに抱き寄せた。
「私も寂しいよ、ヒナ。……でも、またすぐに会えるもんね。それまで、お互いやるべきことを頑張ろう?」
瑞季の温かい腕の中で、ヒナはしゃくり上げながら幾度も頷いた。
だが。
瑞季の肩越しに顔を上げたヒナが。
どこか遠くの虚空を虚ろに見つめ、その表情に言いようのない陰を落としたのを——。
その場にいた誰も、観測することはなかった。




