第二十五話「ヒナとの別れと、新世界への序章」-2-
眩い光が視界から引いていく。肌を撫でたのは、少し湿り気のある、ひんやりとした空気だった。そこは石造りの壁の、どこか寂しい部屋だった。
ヒナにとっては、八年ぶりとなる故郷、空の邦。
部屋を出て回廊を進むと、すぐに武装したヘヴンの兵士たちが数人、険しい顔で立ちはだかった。だが、先頭を歩く女性の姿を認めた途端、彼らは弾かれたように背筋を伸ばし、一斉に敬礼を捧げた。
「カスパール将軍! ご無事でしたか! ……しかし、その娘たちは。それにその精霊は、もしや……!」
兵士のひとりがヒナへ鋭い視線を向け、腰の銃に手をかける。カスパールは、その動きを手のひらで静かに制した。
「武器を下ろせ。彼女たちは敵ではない。我々が丁重にもてなすべき大切な客人だ。……それよりも、まずは空の邦の国王陛下へ、王子がご帰還なされたことを、至急知らせに行かねばなるまい」
カスパールの威厳に満ちた言葉に、兵士たちは戸惑いながらも、ひとまず武器を収めた。
兵士たちの先導で、一行は城の奥へと進んでいく。やがて、巨大な吹き抜けのある空間に出た。そこは、地下深くから城の最上階まで続く、巨大な縦穴になっていた。その縦穴の前には、どこか疲れた様子の、しかし精悍な顔つきをした、グレーのペルシャ猫柄のぬいぐるみ——空の邦の精霊が、静かに佇んでいる。
「ロイ殿、執務中失礼する」
カスパールが事務的に声をかけると、ロイと呼ばれた精霊の目が大きく見開かれた。瑞季の肩で小さくなっている三毛猫柄の姿を認めた瞬間、その驚きは頂点に達した。
「……ヒナ王子!?」
「ロイ!」
懐かしい友人の姿に、ヒナの表情がぱっと明るくなった。
「その方たちは……? それに、なぜカスパール氏やアスラ氏まで。いったい……」
「話せば長くなるニャ。だから、まずはお父さまとお母さまに会わせてほしいニャ。……いや、その前に」
ヒナは瑞季の肩からひょいと飛び降りると、床にちょこんと座り、神妙に頭を下げた。
「あのときは、本当に申し訳なかったニャ! ぼくの身勝手でおぬしを巻き込んでしまった。……許してほしいなんて言わない。でも、どうしても謝りたかったんだニャ」
ロイは無言で、平伏する王子の後頭部をじっと見つめていた。やがて、短い前足でヒナの頭をぽんぽん、と軽く叩く。
「……変わりましたね、王子」
ヒナがおずおずと顔を上げると、ロイは不意に、何かに耐えるように肩を揺らし始めた。
「どうしたんだニャ? ロイ。何か、おかしいことでも……?」
「いえ……失礼。……ただ、今どきその語尾に『ニャ』をつけて喋る者なんて、もういないものですから。なんだか古臭……いや、失敬。ひどく懐かしくてね」
ロイは必死に笑いを噛み殺しながら、困ったように眉を下げた。
「ニャ、ニャンだとぉぉっ!?」
ヒナが心底ショックを受けた様子で叫び声を上げた。
「この、最高にクールでキュートな語尾が……古臭いだとニャ!? 馬鹿な……! ぼくがいた頃は、みんな競うようにニャーニャー言っていたのに!?」
あまりのヒナの狼狽ぶりに、瑞季はたまらず横からツッコミを入れた。
「ちょっと待って、ヒナ。その語尾って、この手のマスコットキャラ特有の謎の義務語尾じゃなくて、単なるブームだったってこと……? え、じゃあ、もしかして、ニャなしでも話せるの……?」
「む。まあ、話せるには話せるけど……。こんな感じで」
「うわぁ……。なんか、キモい」
「き、キモいって、なんだニャッ!! 失礼だニャ! ぼくは王子だぞニャ!」
ヒナが瑞季の頭にポカポカと頭突きを食らわせる。
「ごめんて、ヒナ」
「いいニャ……。たとえ、この世界の全員が『ニャ』をつけなくなってしまっていたとしても、ぼくだけは……! ぼくだけは、この誇り高き語尾ニャ文化を守り通してみせるニャ! ぼくが、この世界の最後の語尾ニャ精霊になってやるんだニャァァァッ!!」
よく分からない執念を燃やして宣言するヒナの姿に、ロイは満足げに目を細めた。
「……はは。ヒナ王子。なんだか、たくましくなられましたな」
「ロイこそ、すっかり頼もしくなったニャ。ぼくは向こうの世界で長く眠っていたから、中身はあのときのままだニャ」
自嘲気味に呟くヒナの声は、確かにロイに比べて幼い。ロイが既に兵士として働いていることを思えば、人間換算の年齢は瑞季よりも下なのかもしれない。
そんなヒナが、今は大いなる目的を持って世界を変えようとしている。
「さあ、昔話はそこまでです」
ロイは、そう言って場を仕切り直す。
「両陛下は、王子の帰還をずっと待っておられました。……さあ、行きましょう。僕の術で、皆様を最上階へお運びします」
ロイが縦穴へ向けて手をかざすと、彼女たちの足元からふわりと重力が消え去った。箱のない昇降機のように、身体がゆっくりと上昇していく。
「すげえ……」
「ほんと、ファンタジーアニメの世界に入ったみたいだね」
「ね!」
無の邦生まれの三人がそうやってはしゃぐのを、ヒナやアスラは暖かく見守っていた。
最上階に辿り着くと、重厚な木製の扉が待ち構えていた。ロイが意識を向けると扉は音もなく開く。その先には豪奢な謁見の間が広がっていた。壁には鮮やかなタペストリーが揺れ、床の大理石は鏡のように磨き抜かれている。そして天井には、精霊の術によってどこまでも続く美しい青空が映し出されていた。
その光景に瑞季たちが息を呑む間もなく、部屋の奥——大きな椅子に座る二匹の精霊が、弾かれたように身を乗り出した。
「ヒナっ!!」
喜びと安堵が混じり合った、大きな声。
ヒナはまっすぐに両親の元へと飛んでいった。
「お父さま! お母さま!」
王と王妃は玉座から転げ落ちるように駆け下りる。
そして、親子は八年の空白を埋めるように、互いの身体を強く寄せ合った。
「……嬉しいニャ……。また会えて、本当によかったニャ……」
ヒナの瞳から、大粒の雫がこぼれ落ちる。
「ああ、ヒナ……! よくぞ無事で……。それにしても、語尾ニャとは、これまた懐かしい話し方をするのだな……」
国王が涙を拭いながら、可笑しそうに目を細めた。
「……う。その話はもういいニャ。それよりも紹介したい人たちがいるニャ」
ヒナは照れ臭さを振り払い、背後に控える瑞季たちを指し示した。
「瑞季、優菜、星輝! 彼女たちこそ、ぼくと一緒に戦ってくれた伝説の戦士——デシリアなんだニャ!!」
その紹介に、謁見の間が驚嘆に包まれた。王妃が信じられないといった様子で、少女たちをまじまじと見つめる。
「彼女たちが……? あの伝説の……」
「いかにもニャ。今は普通の女の子に見えるかもしれないけど、変身したら無敵のヒーローになるんだニャ!」
ヒナが自慢げに胸を張る姿を見て、国王は感慨深げに首肯した。
「……そうか。ついに見つけ出したのだな。よく頑張った、ヒナ」
国王の賞賛は、ヒナの胸を熱く焦がした。しかし、王の視線はすぐに鋭さを取り戻し、同行するふたりの女性へ向けられた。
「……ところで。ひとつ説明を求めてもよいかな。なぜヘヴンのカスパール殿とアスラ殿が、君たちと行動を共にしているのだ?」
「話せば長くなるニャ。けど、彼女たちは敵じゃないニャ。灰呪雲の制御装置……その結界を壊すために協力しに来てくれたんだニャ」
「灰呪雲を……!? ヒナ、その存在を……」
国王の動揺には、禁忌の知識に触れてしまった息子への危惧も混じっていた。
「——そして」
カスパールが、一歩前に出た。
「その任務が完遂され、灰呪雲が完全に消滅した暁には、我々ヘヴンはこの光の連邦から、即刻撤退する」
「な、なんと……!?」
国王は茫然としてカスパールと少女たちを交互に見つめる。
「……その後は」
アスラが一歩前に出ると、国王夫妻に向かって静かに頭を下げた。
「精霊と私たち人間とが、過去の憎しみを乗り越え、共に手を取り合い生きていける、新しい世界を目指します。……それが、私たちヘヴンが、戦いの果てに辿り着いた結論です」




