第二十四話「英雄 VS ヒーロー」-6-
若き日のジンが理想を泥で塗り潰されていく残像。それが脳裏から剥がれ落ちた後も、リアハイリンの視界はしばらくの間、白く霞んでいた。この場を支配する重苦しい沈黙の中心で、彼女とジンは未だに戦い合っている。
「そう、だったんだ……」
リアハイリンの唇からこぼれ落ちたのは、震えるような吐息だった。
「私と、同じだったんだね」
——揺るぎない信念を貫き通し、敢然と困難に挑んだその先に、いったいどんな新しい景色が待っているのか……。それは、未だかつて誰も見たことがない景色のはずです。——僕は、それが見たい。
かつてのジンが大臣に突きつけたその誓いは、つい先ほどリアハイリンがこの場所で行った宣言と、残酷なまでに重なっていた。
彼女の胸を支配したのは、言いようのない喪失感。
ジンを倒すべきなのかが、分からなくなる。
けれど、止まるわけにはいかない。
その境界線が、足元から音もなく崩れ去っていく。
やり場のない絶望に意識を奪われた、その刹那だった。
ジンの身体から、光を吸い込むような禍々しい黒いオーラが噴き出した。
リアハイリンは反射的に身構えようとしたが——遅かった。ジンの輪郭が陽炎のようにブレたかと思うと、次の瞬間には、彼女の目の前からジンの姿が完全に消失していた。
「……ッ!」
背後に生じた凍てつくような殺気に、肌が粟立つ。振り返るよりも早く、空の黒槍が、彼女の無防備な背中へと振り下ろされた。
「逃げるんだニャッ!!」
後方のヒナの叫び。
だが、その警告が届くよりも早く、鋭利な鋼の鋒がリアハイリンの肩口を深々と抉り取った。
「あああああっっ!!」
全身の神経を焼き切るような激痛。
彼女の肉体は、暴風に煽られた木の葉のように宙を舞い、漆黒の石床へと無様に叩きつけられた。
硬く冷たい地面が身体の節々を砕く。その凄まじい衝撃を合図にするかのように、意識は現実の痛みを通り抜け、再び、ジンの魂の深層へと無理やり引きずり込まれていった。
暗く、底知れない、過去の濁流へと——。
——薄暗い部屋だった。丸太を組み上げた壁が剥き出しの、簡素な木造の部屋。窓の外からは、夜明け前の予感を含んだ冷たい空気が忍び込んでいる。
ジンの目の前では、ミィシャがベッドに横たわっていた。頬の肉は削げ落ち、その肌は生気を失った白磁のように透けている。肺が辛うじて空気を求める、浅く不規則な上下運動。それが、彼女がまだこの世に繋ぎ止められている唯一の証だった。
ジンは彼女の細く、熱を失った手を、壊れ物を包むように両手で固く握りしめていた。
不意に、ミィシャの睫毛が震えた。
重い瞼がゆっくりと持ち上がり、その奥にある澄んだ青い双眸が、ぼんやりと兄の輪郭を探し当てる。
「ミィシャ……! 気がついたのか……! よかった……本当によかった……っ」
ジンは喉の奥を震わせ、妹の手をさらに強く引き寄せた。
だが、ミィシャは力なく、悲しげに首を左右へ揺らした。
「お兄ちゃん……。ごめんね……。わたし……もうダメみたい」
その声は、今にも霧に溶けてしまいそうなほど、か細かった。
「そんなこと言うな! 諦めちゃダメだ……! 絶対に、諦めてはいけないんだ、ミィシャ!」
ジンは必死に、自らの体温を妹へ移そうともがいた。
「……そうだ! 第二世代スレイヴに用いる、新しい水晶の完成が目前なんだ! あれさえあれば光の連邦の障壁を破り、精霊たちと直接対話できる! そうすれば彼らだって、この雲を消すことに協力してくれるはずだ! 青い空を見上げられる日まで、あと少しなんだ! だから……!」
「でも、お兄ちゃん……」
ミィシャは、兄の言葉を静かに遮った。
「その『あと一歩』は……誰かの命を糧にするのでしょう? 実験が失敗すれば、犠牲が出る……そういうものでしょ?」
汚れのない純粋な瞳が、ジンの欺瞞を鋭く貫いた。
ジンは返答に窮し、唇を噛む。ミィシャの指摘通り、第二世代を完成させるには、生きた人間の精神エネルギーを核として抽出する非人道的な工程が不可欠だったのだ。
そこに、保証された安全などない。
「わたしを使って。お兄ちゃん」
少女の口から放たれたのは、あまりにも重く、明確な自己犠牲の言葉。
「何を言っているんだ、ミィシャ! そんなこと、許されるはずがない!」
「……いいの、お兄ちゃん」
ミィシャの口元に、弱々しい微笑が浮かんだ。
「あの灰色の雲さえなければ……わたしはもっと自由に外を走り回って、太陽の光を全身に浴びて、元気になれた」
彼女の目尻から、一筋の熱い雫が枕を濡らした。
「お兄ちゃんが思っているよりも……ずっと、わたし……精霊さんたちを憎んでいるの。彼らさえいなければ、お父さんもお母さんも生きていた。わたしも、こんな身体にならずに済んだ……。眠れない夜の数よりも多く、そう自分に言い聞かせてきたの」
彼女の顔には、言葉とは裏腹に憎悪の色など一欠片もなかった。ただ、自分自身を納得させるために、必死で偽りの怒りを用意しているような、深い悲しみの色に染まっていた。
「だからお願い、お兄ちゃん……。わたしを器にして、スレイヴを完成させて……。でないと……もうすぐあの雲の向こうへ行ってしまうから……」
それは、彼女が遺せる最後の愛の形。
「だめだ!」
ジンには、それを受け取る権利も、勇気もなかった。
「絶対に、だめだ……! そんなこと……! そんなことできるわけがないだろっ!!」
ジンは幼い子供のように泣きじゃくりながら、何度も何度も首を横に振った。
ミィシャはそんな兄を、慈しむような眼差しで見つめていた。彼女は震える右手を伸ばし、涙でぐしゃぐしゃになった兄の頬を、愛おしげに撫でた。
「お兄ちゃんは……英雄さん、なんでしょ……? 世界を救うっていう大切な使命を……ちゃんと果たさなくちゃ……いけないんでしょ……?」
ミィシャの声は、もう、ほとんど聞こえないくらいに、か細くなっていた。
「僕は……! 僕は、英雄なんかじゃないっ!!」
ジンは妹の手を握りつぶさんばかりの力で掴み、叫んだ。
「僕を戦争に利用するために! みんなが勝手にそうやって囃し立てていただけなんだ! 僕を英雄に仕立て上げ、僕の逃げ道を無くしただけなんだ! 英雄なんて肩書き、僕は欲しくないんだよ!」
それは、初めて吐き出した本心。
「……ミィシャを利用するくらいなら……世界の平和なんて、どうなってもいい……」
彼の声が、涙に濡れながら萎んでいく。
ミィシャは、そんな兄の本音を、最期まで静かに受け止めていた。
そして、何も言わずに。
ゆっくりと、その瞼を閉じた。
「ミィシャ……?」
反応はない。
「ミィシャ! ミィシャ!!」
幾度名を呼び、冷えていく手を握り直しても、返ってくる答えは沈黙だけだった。
胸の上下は停止し、唇から吐息が漏れることもない。
「ミィシャ……」
もう、唯一の肉親はいない。
一緒に見ていた夢を、叶えることができなかった。
堰を切ったように、負の情動が彼の内側から溢れ出す。
「どうして……! どうして、ミィシャが死ななければならなかった……!」
視界は涙で滲み、もはや何も見えない。
「そうだ……」
ジンは何かに縋るように呟いた。
「精霊さえいなければ……」
徐々に、ジンの声から憎悪が輪郭を持ち始める。
「みんなの言うとおりだったんだ……。精霊なんて……一匹残らず駆逐しなければならない邪悪なんだ。——そうだ。僕がスレイヴになれば……。そうだ! それしかない……!」
その瞬間、
「——そんなことしちゃダメだよ、ジン!!」
扉を押し開ける音と共に、少女の声が響いた。
ジンがゆっくりと振り返る。憎悪に歪んだ視界の端に、特徴的な銀髪が映った。
「お願いだから、そんな怖い顔しないで……! あたしがいるから! あたしがずっと、ずっとジンと一緒にいるから! だから……そんな悲しいこと、考えないで……!」
駆け寄ってきた少女が、ジンの腕に縋り付く。
だが。
「うるさいっ!」
ジンは、その少女の腕を、荒々しく振り払った。
床に尻餅をついたのは、かつてのナーサだった。
「……ひとりにさせてくれ」
ジンは彼女に一瞥もくれず、凍てついた足取りで部屋を去った。
視界が深い闇へと沈んでいく。
その静寂の中、ジンの、今はもう聴き馴染みのある冷淡な声だけが響き渡った。
——第二世代スレイヴが、ようやく完成した。
——第二世代であればバリアは壊せるが、精霊に絶望を与え、征服するには至らない。
——私の黒感情からさらにスレイヴを生み出し、そのスレイヴによる絶望から、さらにスレイヴ——第三世代スレイヴを生み出せばいい。それを繰り返せば、十数日で光の連邦全土を支配できるだろう。
——ただし、スレイヴを源泉として新たな個体を生むには、膨大なエネルギーが必要となる。ゆえに、その大元たる術者は、生命を削りながらエネルギーを供給し続けねばならない。通常の人間には不可能な芸当だ。
——しかし、私ならできる。
一切の情動を排しながらも、呪いのような力強さを秘めた宣告。
——私は、英雄なのだから。




