第二十四話「英雄 VS ヒーロー」-5-
現実へ引き戻される。
ジンの黒槍が唸りを上げ、石突がリアハイリンの側頭部へと叩きつけられた。
脳髄を揺らす硬質な衝撃。視界が白く焼け、意識の糸が千切れかける。
だが、彼女は崩れ落ちる寸前で、槍の柄を左手で鷲掴みにした。自らの肉体を固定し、ジンの腹部目掛け、渾身の力を右拳に集約させる。
「はあぁぁぁぁっ!!」
拳がめり込む。その衝撃と共に、さらなる過去の深層が、心へ染み込んでいった。
鏡の向こうに、ひとりの男がいた。
かつての瑞々しい理想は影を潜め、そこにあるのは、底知れない疲労と焦燥に焼き潰された抜け殻のような相貌。ジンは重く湿った溜息をつき、自らの姿から視線を逸らした。
彼は執務室の重厚な扉を押し開ける。
その先では、革張りのソファに深々と身を沈めた大臣が、獲物を待つ蜘蛛のように彼を待ち構えていた。
「ジン君。やはり、第一世代スレイヴの力だけでは、『扉』のバリアを砕くことは叶わなかったようだな」
「……ええ。力が及びませんでした」
ジンの答えは短く、乾いていた。
「期限は刻一刻と迫っている。そこでだ、ひとつ提案があるのだがね」
大臣は、耳元で毒を流し込むかのように人差し指を立てた。
「現在のスレイヴは、召喚主の持つ『黒感情』を物体に分け与えることでエネルギーを得ている。だが、もしも黒感情を持つ人間そのものをスレイヴの核とし、エネルギーを根こそぎ力へ変換することができたとしたら……。今よりも遥かに強大なエネルギーを得ることができるのではないかね?」
ジンは、大臣の言葉に息を呑んだ。
「……理論上は、可能です。私も考えたことがありました」
「ほう」
「ですが、それはあまりにも非人道的です」
「しかし、もはや選択の余地はないのではないか?」
このまま交渉が決裂すれば、ジンとの約束など霧散し、スレイヴはただの無慈悲な殺戮兵器として量産される。世界は再び、血で血を洗う泥沼へと逆戻りするだろう。
自らの理想を護るために、自らの手を汚す。
その矛盾がジンを苛む。
「……承知しました」
絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。その一言と共に、胸の奥で何かが軋む音がした。
「一年……。あと一年だけ私に時間をください。必ず、人を素体としたスレイヴを完成させ……光の連邦への扉を開いてみせます。……その代わり、それまではスレイヴの兵器利用だけは、どうか思いとどまってください」
彼は深く頭を下げ、逃げるように瞼を閉じた。
暗転した視界の裏側。そこには最愛の妹、ミィシャの姿が、熱に浮かされたように歪んで浮かんでいた。
「理論上は、一年あれば可能なのだな」
「ええ。その間、集中すれば、きっと……」
「よろしい。君の望む環境を提供しよう」
ジンの槍の切先が、リアハイリンの左肩を掠める。そこに走る熱いものに、歯を食いしばり、彼女は右手をまっすぐ突く。
ジンはそれを軽々と避け、右手を彼女の顔に向けた。
リアハイリンは咄嗟に自分の手を、その射線に置いた。すると、再び、彼女の身体の中に透明のエネルギーが貯まる。
それを感じ取ったのだろう、ジンはすぐさま彼女から距離を開けた。
だが、リアハイリンの踏み込みはそれを上回った。
振り抜いた拳がジンの頬に触れる。
さらに、彼の記憶が流れ込んできた。
——それは、さきほどの続きだった。
「……早速だが、君には、スレイヴの完成と今後の展望について、全世界へ向け大々的に演説をしてもらいたい」
「演説、ですか?」
「ああ。そしてその演説の中で、はっきりと宣言してもらいたいのだ。我々はスレイヴの圧倒的な力をもって光の連邦を完全に制圧し、精霊どもを支配下に置く、とな。奴らが長年独占してきた豊かな資源を、根こそぎ我々人間の手に取り戻すのだ、と!」
大臣の言葉は狂熱を帯び、その双眸には底知れぬ復讐心と飽くなき欲望の色が宿っていた。
一方、ジンの顔から、急速に血の気が引いていく。
「ちょっと待ってください! 兵器への転用はしないと、たった今約束したばかりではないですか!」
「人に向けて使うことは、な。精霊は例外だ」
大臣は興味を失ったように椅子に深く身を預けた。
その平坦な声には、相手を欺いたという後ろめたさも、これから奪いに行く生命への忌避感も、存在しなかった。
対するジンは、立っている床が底なしの沼へと変わったかのような絶望感に襲われ、膝の震えを止めることができなかった。
「いいかね。大義名分はこちらにある。精霊たちが我々人間に対し、どれほど非道な仕打ちをしてきたか、君も知っているだろう? そんな相手に対し、交渉などというコストパフォーマンスの悪い手段を講じる必要がどこにある。最初からすべてを力ずくで奪えば済む話ではないか」
大臣は、当然のことのように言い放った。
「既に三大国家の間で話はついている。君が最新の研究資材や優秀な技術者を潤沢に確保できたのはなぜだと思う? 必ずや侵略を断行すると、彼らに約束したからだ。そして何より、虐げられてきた民衆が徹底的な報復を渇望している。その現実から、君だけが目を逸らすのかね?」
窓に映るジンの顔から、急速に血の気が引いていく。
自分が描き、始めた物語だった。けれど、いつしかそれは強大な政治の濁流へと飲み込まれ、今や自分自身の足元を掬い、泥の中へと引きずり込もうとしている。
「それでも……。それでも僕は、交渉の道を望みます。力による支配は、新たな憎しみを生むだけです……!」
肺の底から絞り出した、掠れた声。しかし。
「ジン君。君もそろそろ、大人になる時間だ」
彼が何を言おうと、大臣の心は靡かない。
「君は誰も成し遂げられなかった偉業を成し遂げた。間違いなく、大いなる力を持った人間だ。だがジン君、この社会という場所では、その力の大きさに比例して、背負わねばならぬ責任も増していく。君はもう、ただ理想を語る夢見がちな科学者ではない。世界中の期待を一身に背負う指導者なのだよ。いつまでも子供のような綺麗事ばかりを並べていられる立場ではないことくらい、聡明な君なら理解できるはずだ」
それでも、ジンの魂はまだ折れていなかった。
「……綺麗事だけでは世界を救えないことくらい、分かっているつもりです。でも、揺るぎない信念を貫き通し、敢然と困難に挑んだその先に、どんな新しい景色が待っているのか……。それは、未だかつて誰も見たことがない景色のはずです。——僕は、それが見たい」
ジンの青い主張。それは大臣の鋼鉄の心には、一筋の傷も付けることはできなかった。
「詭弁だな。いいかね、ジン君。我々は人間だ。忌まわしき精霊のことを思い悩む必要など、どこにもないのだ」
「でも……! 彼らも、私たちと同じように、心を持った生き物——」
「では聞こう、ジン君」
大臣はジンの言葉を無慈悲に遮り、最後の問いを突きつけた。
「ふたつの世界を想像したまえ。ひとつは、九十九パーセントの確率で、百年後も我々人間が豊かに暮らし続けることができる世界。もうひとつは、五十パーセントの確率で精霊たちが我々人間を再び支配するかもしれない、と怯え続けなければならない世界。……君は、君の子孫に、どちらの世界を提供したい?」
ジンの視界が抑えきれぬ葛藤によって細かく波打っている。
自分勝手な情と、未来を見据えた冷たい情。
その狭間で心が引き裂かれてしまいそうで、何も言い出せない。
大臣は、冷徹に、最終通告を突きつけた。
「いいかね、ジン君。演説では、精霊を徹底的に糾弾し、我ら人間の正当性を主張するように話してもらう。君以外の誰もが、それを望んでいるのだ。民を導くべき『英雄』として、君が取るべき選択は分かっているな?」
大臣は、蛇が這うような粘り気のある声で付け加えた。
「安心したまえ。我らの思想を代弁するのは、演説の間だけでいい。その後、光の連邦へ渡り、君が何をしようとも君の自由だ。その頃には君も、もう少し現実を理解できる『分別ある大人』になっているだろうからな」
沈黙が広間を支配した。
指の関節が白く浮き出るほどに拳を握り込み、骨が軋む音だけが静寂に響く。
ジンには、もう大臣を動かす手札は残されていなかった。
自らの心を殺し、世界が望む『英雄』という名の虚像を演じる以外には。
「承知……しました……」




