第二十四話「英雄 VS ヒーロー」-1-
「あなたの黒感情を」
「私たちが必ず浄化してみせます!」
瑞季とアスラは、互いの瞳に宿った光を見ていた。もうそこに、絶望の色はない。
「浄化、か。できるものならば、やってみるがいい」
それは明確な挑発。しかし瑞季には——。
「あなたの心の悲鳴が、聞こえる気がするよ」
その直感に、ジンは無言を貫いた。
彼は右手に握った黒槍を、力なく横たわるブラフザールへと向けた。
直後、老兵の頭上の空間が飴細工のように歪み、淡い空色の亀裂が走り抜けた。異次元へと繋がる口が、不気味に開く。近くにいた星輝が、その異質な現象に本能的な戦慄を覚え、後ずさる。
ジンが穂先をわずかに動かす。それに呼応するように空色の穴が滑り、抗う術を持たないブラフザールの肉体を丸ごと呑み込んだ。亀裂は一瞬で塞がり、そこには何もなかったかのような静寂が戻る。
「い、今のは……!?」
アスラが驚愕に声を震わせた。
「邪魔なゴミを掃除しただけだ」
その言葉が、静まり返った空間に冷たく落ちた。
長年連れ添った部下への情愛など、塵ひとつ存在しなかった。
「てめえ……ッ!!」
星輝の咆哮に続き、アスラと瑞季も怒りを露わにする。
「ゴミだなんて……! ブラフザールさんは……!」
「そんな言い方、あんまりだよ!」
瑞季の頭上で、ヒナが毛を逆立てた。
「あれは空の精霊が使う、高等な転移の術だニャ……」
その震えは、絶対的な実力差に対する畏怖のようだった。
「自身を運ぶのではなく、他者を強制的に別の座標へ飛ばす術。有効射程は短いが、自身の転移よりも遥かに高度な制御を必要とする、極致の技だニャ……」
「……つまり、どこか別の場所に移動させられたってことか。消されたわけじゃないんだね。少し安心したよ」
「死体の心配をしている余裕などあるのか」
ジンは感情を排したまま、再びデシリアたちへと向き直った。
「さて、ゴミは消えた。来るがいい。ヒーローごっこに興じる、愚かな小娘たちよ」
その冷淡な言葉に、リアウインズが爪が食いこむほど拳を握った。
「ジンさん! あなたの心に、まだミィシャさんの想いが残っているのなら……!」
叫びと共に、無数の真空の刃を放った。ジンの視界を奪い、四肢を縫い留めるための陽動。鋭い風切り音が漆黒の空間に鳴り響き、彼の周囲に暴風の檻が形成される。
「甘いな」
ジンは最短の動作で黒槍を回転させ、殺到する風の刃をすべて叩き落とした。
「そこだっ!」
わずかに生じた死角から、リアハイリンは地面を爆発させるような脚力で肉薄し、全身のバネを右拳へと注ぎ込む。
狙うは、そこに閉ざされた心。
「あなたの心、こじ開けさせてもらうよ!」
だが、ジンの反応は、人間のそれではなかった。
彼の身が突如沈み、拳が空を切る。次の瞬間、その腕が掴み取られ、ミシリと骨が軋む音が聞こえた。
「が……っ!」
拘束されたまま体勢を立て直そうともがくリアハイリン。その隙を突き、リアウインズがジンの足元へ、爆発するような上昇気流を叩き込んだ。
「ジンさん! 目を覚ましてください!」
しかし、ジンは抗わなかった。
その風を翼にするようにふわりと舞い上がり、リアハイリンの腕を掴んだまま、彼女を空中へと引きずり上げた。
頂点に達した瞬間、ジンはリアハイリンの身体を、黒曜石の玉座目掛けて、力任せに投げつけた。
「ハイリ――」
リアウインズの叫びが、衝撃で打ち消される。リアハイリンの身体が叩きつけられ、漆黒の玉座は粉々に砕かれた。
「……っ!」
肺が潰れ、呼吸が消えた。
しかし、倒れ続けるわけにはいかない。ブラフザールが己を犠牲にして繋いでくれたこの命を、ここで終わらせるわけにはいかない。
激痛に顔を歪めながらも、彼女は血の混じった唾を吐き捨て、立ち上がる。
「絶対に……諦めない……!」
だが、ジンは冷徹に追い打ちをかけた。透明な結晶から放たれた不可視の衝撃波が、瓦礫ごとリアハイリンを後方へと吹き飛ばす。
その刹那。
ジンの周囲の空気が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
そこに、リアウインズはわずかな光を見出す。
「はあああああっ!」
右腕だけが焼けるように熱くなる。そこに溜まったエネルギーを、ジンの後頭部目掛けて放つ。
ジンは咄嗟に反転し、黒槍で迎撃しようとしたが——その腕を、白い指先が強く捉えた。
「させない……っ!」
瓦礫の山から瞬時に起き上がり、跳躍したリアハイリン。
白い指がジンの手首に食い込み、爪の先から血が滲む。
「……っ!」
無機質なスレイヴの口から、初めて言葉にならない悲鳴が漏れた。
その隙を、リアウインズの風の拳がまっすぐに撃ち抜く。
さらにリアハイリンは捕えた腕を軸に、全身を大きく捻る。ジンの巨体で宙を描き、そのまま硬い床へ叩きつける。
石床に深い亀裂が走るほどの衝撃。その震動で、白い指がほどける。
ジンが反射的に距離を取ろうと飛び退いた——刹那。
この場にいた全員の脳裏に、濃密な映像が流れ込んだ。
——それは、薄暗く湿り気を帯びた、古びたアパートの一室だった。
視界は激しく上下に揺れ、耳元では肺を焼くような荒い吐息が繰り返されている。若き日のジンの記憶だ。彼は、もつれる脚を必死に動かし、階段を駆け上がっていた。壁に記された「7」という数字が網膜を掠める。
廊下を駆け抜け、目的の部屋の前で足を止めた。震える指先で、赤錆の浮いた金属扉の鍵穴をまさぐる。鍵が奥まで差し込まれる感触。重い扉を押し開くと、金属同士が擦れ合う不快な摩擦音と共に、病的に白く細い肌が視界に飛び込んできた。
「ミィシャ! ミィシャ、やったよ! ついに、成し遂げたんだ!」
声変わりを終えたばかりの、けれど幼さの残るジンの歓喜が、狭いキッチン兼廊下に響き渡る。靴を脱ぐ間も惜しみ、彼は奥の部屋へと滑り込んだ。
薄暗い部屋の簡素なベッドの上。小さな身体を横たえていた少女が、兄の気配に気づき、深く澄んだ双眸をゆっくりとこちらへ向けた。
「……どうしたの? お兄ちゃん。そんなに慌てて」
ミィシャの声は今にも途切れてしまいそうなほど弱々しかったが、けっして暗くはなかった。
「転移装置が……ミィシャ、転移装置がついに完成したんだ!!」
ジンはベッドサイドに膝をつき、弾んだ声で報告した。
その言葉を聞いた瞬間、少女の顔にパッと灯がともる。それは泥の中に咲く花のような、無垢な笑顔だった。彼女は細い腕を震わせ、自力で起き上がろうとする。ジンは即座にそのあまりにも軽い身体を支え、宝物を扱うかのような手つきで、ゆっくりとベッドの上に座らせた。
「……おめでとう、お兄ちゃん……! 本当に、すごい……!」
「ありがとう、ミィシャ。でも、これはまだ出発点に過ぎない。今の装置は巨大すぎるし、一度に数人を運ぶのが精一杯だ。……でも、いつか必ず小型化して、誰もが安全に、望む場所へ行けるようにしてみせる。そして、この技術で会社を立ち上げるんだ。そうすれば、ミィシャが薬の値段を気にして我慢する必要なんてなくなるくらいのお金を手に入れられるから……!」
ジンは夢見るような眼差しで、妹の手を握りしめた。
重なる掌の温もりが、互いの存在を確かめ合わせる。しかし、ふとジンの視線が下を向いた。
「どうしたの? 何か心配なことでもあるの?」
「……いや。起業するのはいいんだけど、肝心の社名が決まらなくてね。僕は昔から名付けのセンスがないみたいで、なかなかこれだという言葉が浮かばないんだ」
ジンが照れくさそうに頭を掻く。
すると、ミィシャは穏やかな微笑みを湛え、窓の外を指し示した。
「……ふふ。お兄ちゃん。昔、お母さんが言っていたでしょ? 『何か思い悩むことがあったら、まずは空を見上げなさい。きっと、良い考えが降ってくるから』って」
促されるまま、ジンも窓の外へ視線を転じる。
そこにはいつもの通り、分厚い灰呪雲に閉ざされた暗い天が広がっていた。
「……今日は比較的天気がいい。あの雲さえなければ、一面の青空が見えただろうに。……もし遮るものがなければ、もっと素晴らしいアイデアがいくらでも浮かんでくるような、そんな予感がする」
ジンは自嘲気味に口角を上げた。それから再び表情を引き締め、妹を見つめた。
「転移装置は、灰呪雲を消し去るための第一歩なんだ。いつか、閉ざされた世界への扉を開く鍵になる」
「……難しいことは分からないけれど、お兄ちゃんが言うならきっとそうなんだね。……ねえ」
ミィシャは夢心地のまま、空を見上げた。
「あの灰色の雲の向こう側って……。本当に青いの?」
「うん。本当の空の色は、吸い込まれそうなほど深くて美しい青なんだよ」
「へえ……。じゃあ、宇宙も青いのかな?」
「ううん。宇宙は青くはないよ、ミィシャ。宇宙はね、あの青い空をさらに突き抜けていった、もっとずっと遥か先にある、真っ黒な場所なんだ。……そしてね、もっとずっと遠く——あるいは、実はすぐ近くにあるのかもしれないけれど、今の僕らにはけっして届かない場所に『天国』っていう、夢のような楽園があるんだって」
「天国……。そうなんだ。素敵なところなのかな」
ミィシャの瞳が、見たこともない光を夢見てきらきらと輝いた。
「そうかもしれないね」
ジンは曖昧に頷きながら、妹の純粋な横顔を愛おしげに見守った。しばらくして、彼は自らに言い聞かせるように、静かに呟いた。
「お父さんとお母さんは、そこにいるんだ」
「そうなんだ……! 私もいつか行ってみたいなあ……天国」
うっとりと呟く妹の、儚い願い。
ジンはその言葉の重みを胸の奥で強く噛み締めた。そして、何かに突き動かされるように声を上げた。
「……そうだね、ミィシャ。いつか、必ず一緒に行こう。……あの雲を世界から消し去ることができれば、きっとその楽園にだって辿り着ける。そうしたら、お父さんやお母さんにもまた会えるはずだ。——そうだ……! そうだよ!」
ジンの声の震えは、もはや悲しみによるものではなかった。それは確信に満ちた閃きであり、未来を切り拓く希望の響きだった。
「あの雲の向こうにある青空の、さらに遥か向こう側にある永遠の楽園を、僕らは目指すんだ」
その楽園の名前——『ヘヴン』。
「決めたよ、ミィシャ。僕たちの会社の名前は、『ヘヴン』だ」




