第二十三話「本物の炎の輝きを」-6-
「ブラフザール……?」
瑞季の震える唇から、かろうじてその名がこぼれ落ちた。ヘヴンを離反したはずの男が、今そこに立っている。
ブラフザールは右手でジンの槍をがっしりと掴み、その鋒を瑞季とアスラから強引に逸らした。空いた左手には、場違いなほど鮮やかな赤い紙袋が握られている。
「何のつもりだ、ブラフザール」
仮面の奥から、冷めた声が響く。そこには明確な不快感と、無視できない程度の警戒が混じっていた。
「フン。吾輩も、自分が何をしているのか、皆目見当がつかぬ」
自嘲するような、けれど晴れやかな笑み。
「何が正しく、何が間違いなのか……もはやこの老兵には分からぬ。だがな、ジン。貴様のその非道なやり口を見ているとな……一度は彼女たちに任せたものの、吾輩の腹の底で燻り続けていた古びた種火が、どうにも黙っておらぬのだ」
その瞳には、迷いを焼き尽くした静かな覚悟が宿っていた。
彼は予感していたのだ。アスラたちがジンと対峙し、絶望に呑み込まれることを。だからこそ、命を奪う呪いが発動すると分かっていても、この場所へ戻ってきた。
「リアハイリン。……どうやら君だけはまだ息災なようだな。ということは、今も君の石は奴の手にあるということか」
「う、うん……。でも、ジンには——」
「了解した。ならば話は早い。それを奴から取り返せば済む」
瑞季の懸念を断ち切るように、ブラフザールは短く告げた。
「待って! ジンにはバリアがあって、属性の力が効かないの!」
「拳でなら、その壁は叩けるのだろう?」
「それは……まあ……」
「ならば問題ない」
ブラフザールは力強く頷くと、左手の紙袋を瑞季へと無造作に放り投げた。
「これは……?」
「我が故郷の秘伝薬だ。滋養強壮、体力回復、そして傷の治癒を劇的に早める。アドレナリンを無理やり引き出し、痛みを麻痺させる効果もある。……吾輩がこの若造を教育している間に、そこの仲間に無理やり流し込め。君たちも食っておけ。気休めにはなる」
「え……これ、何でできてるの?」
瑞季が覗き込んだ袋の中には、岩のようにゴツゴツとした漆黒の塊が入っていた。
「話している余裕はない。気になるなら後でアスラに聞くがいい」
アスラは一瞬だけ顔を引きつらせ、消え入るような声で補足した。
「……それは、その……言葉では表現できないほど苦くて……。材料は……聞かない方が、幸せだと思います」
「あ……何かを察したよ……」
瑞季は顔を青くしながら、そっと袋の口を閉じた。
直後、ブラフザールは掴んだ槍ごとジンを床へ叩きつけようと腕に力を込めた。
だが、空気が弾けた。
「ぬっ!?」
見えない何かが胸を打ち抜き、ブラフザールの巨体が宙へ浮く。咄嗟に後方へ跳躍したが、衝撃は追いすがるように全身を叩き、石床を削りながら大きく後退させた。
足裏から火花が散る。
「……ほう」
ブラフザールは口元の血を親指で拭った。
「今のは面白い。そのような不可思議な力も持っていたか。まるで、メルキーヴァのようだな」
ブラフザールは楽しげに口角を上げた。
「ちょうどいい。結局あやつの術をこの身で受ける機会はなかったからな。……フン、思いがけず長年の望みがひとつ叶ったというわけか」
それは、かつての戦友への餞別のような言葉。
次の瞬間、再び空気が爆ぜた。
一発。
二発。
三発。
連続して襲い来る見えない衝撃に対し、ブラフザールは両拳を打ち合わせた。
火の黒拳から噴き出した灼熱が周囲の空気を焼き払う。強大な炎の熱は、遠く離れた場所で優菜に黒い塊を食わせていた瑞季の額の汗を一瞬で蒸発させるほど強力だった。
ジンは仮面の頬にそっと手を当てる。甘える子供のような、けれど底知れぬ不気味さを孕んだ声が空間に染み出した。
「ブラフザール。痛いじゃないか」
その言葉が発せられた瞬間。
「ぐ……うぅ……っ!?」
ブラフザールの目が苦痛に見開かれた。彼は胸を掻きむしるようにして、その場に膝をつく。額には脂汗がびっしりと浮かび、呼吸が荒れる。
「ブラフザールさん!」
瑞季は思い出した。彼がかつて語った『呪い』の話を。ジンに逆らえば、体内の機構が作動し、内臓を焼き尽くす激痛が襲うのだ。
「私に逆らえないことを忘れたか、ブラフザール」
「一瞬たりとも忘れたことなどない……。それでも……吾輩の心が叫ぶのだ。……あの子たちを、助けろとな……!」
「理解できない」
ジンは彼の覚悟を冷酷に切り捨てた。
「今のあなたに何ができる。私があなたの攻撃にわずかな不快感を覚えたと認識するだけで、そのザマだ」
「フン……黙れ、青二才が」
ブラフザールは歯を食いしばり、震える足で再び立ち上がった。
「この程度の……痛みで……! このブラフザールが……怖気づくとでも、思ったか……ッ!!」
ジンが再び槍を構え、電光石火の突きを繰り出す。ブラフザールはその穂先を素手で掴み止め、力ずくで押し返した。さらにジンは空の属性による重圧で彼を押し潰そうとする。
ふたたび、ブラフザールの胸に鋭い痛みが走った。
「くっ……! いかん……!」
——昨日の胸のトレーニングで……少々追い込み過ぎたか……。
それは呪いによる激痛ではなく、筋肉痛だった。傭兵を辞め、新たなジム仲間と共に限界まで肉体を鍛え抜いた代償。かつては戦いに備えて余力を残していた彼が、今はただ己を高めるためだけにすべてを使い果たしていた。
ブラフザールは筋肉の叫びを気合でねじ伏せ、雄叫びと共にジンの手から槍を奪い取った。しかし直後、
「!」
不可視の衝撃が腕を強打した。
握力が消え、黒槍がカランと虚しい音を立てて床を転がる。
「ああ。実にすごい力だ、ブラフザール。私の手が、あまりの衝撃に痺れてしまうほどだ」
ジンがわざとらしく己の手を見つめる。
その言葉を受けた瞬間、体内の呪いが牙を剥き、ブラフザールの顔が再び激しい苦痛に歪ませる。
口に溜まった唾を吐く。黒色の床には、暗い赤色が撒き散らかされた。
「ふん……。引きこもりの坊主には……ちょうどいい刺激になったろうよ……」
死に体でありながら、彼は挑戦的な笑みを崩さない。
ジンは後退する。
それは、怖気づいたためではない。
最適な距離から、止めの一撃を与えるためだ。
「ブラフザール。ここまで来てくれた礼に、楽に逝かせてあげよう。次の一撃が、あなたの最期だ」
死の宣告。ブラフザールは肩を大きく上下させながら、それでも口元を歪めた。
「上等だ、ジン……。かかってこい……!」
「——おっさん!!」
背後から響いたのは、星輝の声だった。黒い塊の効果か、彼女は意識を取り戻し、ふらつきながらも立ち上がっていた。
ブラフザールは振り返らない。足元に血混じりの唾を吐き捨てると、剥き出しの闘志を剥き出しにした。
「……ほう。目を覚ましたか。ちょうどいい。……君にはまだ、『本物の炎』を見せていなかったからな」
彼はゆっくりと背筋を伸ばした。そして、両手に装着していた炎の黒拳を自ら外し、背後へと投げ捨てた。
「おっさん……!? 何を……!」
「こんな紛い物の炎など、もはや不要!!」
高らかに宣言し、彼は星輝へその広大な背中を見せた。
そんな彼へ、ジンはかすかに首を傾ける。
「炎なしであなたに何ができる」
「炎ならば、ある」
ブラフザールは自身の胸に親指を突き立てた。
「ここにな」
「理解できない」
ジンが黒槍と透明な石を掲げる。異質な力同士が反発し合い、黒紫色の巨大な球体が頭上に膨れ上がった。見ているだけで本能が警鐘を鳴らす。触れれば何も残らない——そう確信させる禍々しさだった。
それが、一気に解き放たれる。
ブラフザールは、その絶望的な奔流に対し、静かに左手を前に出し、右手を大きく後ろに引く構えを取った。古の武芸者のような、無駄を削ぎ落とした静止。
そして。
右の拳に、人生のすべてを込めた。
エネルギーの奔流がブラフザールの掌の皮膚を焼き、削り取っていく。
ブラフザールの身体がわずかに沈む。
足元の石床が砕け、踵がめり込んだ。
その地獄のような光の中で、足がぴたりと止まった。
全身の筋繊維が悲鳴を上げる。
大胸筋が裂ける。
拳の骨が軋む。
だが。
その激痛さえも、自らの心の炎へと変換した。
咆哮。
その声は人間の域を超え、荒々しくも、どこか澄み渡っていた。
「——リアスピサッ!! その両の目をかっぽじって、よく見ていろっ!!」
ブラフザールが力強く一歩、踏み出す。
さらに、もう一歩。
「——吾が六十年の生涯を懸けて磨き上げ続けた……!! 本物の炎の輝きを!!」
ブラフザールは、右手を渾身の力で振り切った。
ただの人間の拳が、禍々しい塊と正面から衝突する。
次の瞬間、エネルギー弾は内側から爆発、霧散させられた。
漆黒のドームに鼓膜を貫く轟音が響き渡り、凄まじい衝撃波がすべてを薙ぎ払う。
筋繊維が引きちぎられる激痛も。
ジンへの反逆に反応する呪いがもたらす地獄のような苦しみも。
そのすべてを、心の奥底から湧き上がる純粋な闘争の雄叫びで、力ずくで叩き潰した。
ただ全力で、前へ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
人生最後の一歩を、大地に刻みつける。
ジンの顔面へ、焼け爛れた生身の拳が振り下ろされた。
それはジンの周囲に張られていた不可視の防壁を粉々に粉砕した。
砕けた防壁の向こうへ。
拳はなおも突き進む。
そのまま、ジンの禍々しい仮面を木っ端微塵に打ち砕く。
散った破片と共に、ジンの左手から白いデシリル・ジェムが宙へと舞い上がった。
きらりと光を反射しながら床に落ちるそれを、ブラフザールはどこか満足げな、穏やかな表情で見届けた。
そして、彼はゆっくりと、糸の切れた操り人形のように前へ倒れる。
重い肉体が石床に伏せる音は。
中身のすべてを出し尽くして空っぽになった器が、ただ静かに転がるような。
あまりにも、軽い響きだった。




