第十七話「寒期の終わりを告げるそよ風」-7-
リアハイリンは地を蹴った。
言葉はいらない。今はただ、拳を交えることでしか伝えられない想いがある。
白い流星となって、一直線にアスラへ。
対するアスラも即座に反応した。
空の黒槍を構え、リアハイリンの前方の気圧を急上昇させる。目には見えない強力な空気の断層が、分厚い壁となって立ち塞がった。
暴風が巻き起こり、彼女の身体を跳ね退けようとする。
「……!」
だが、リアハイリンは止まらない。
歯を食いしばり、筋肉の軋む音を響かせながら、見えない壁を物理的な障害物のように力ずくでこじ開けていく。
「そんな……!」
絶対の防御を破られ、アスラの顔に驚愕が走る。
咄嗟に横へ跳び退き、すれ違いざまに黒槍を鋭く薙ぎ払った。狙うはリアハイリンの無防備な脇腹。
しかし、リアハイリンは突進の勢いを殺すことなく、しなやかに上体を逸らして刃を躱す。そのまま流れるように懐へ潜り込み、がら空きの胴体へボディブローを放った。
「ぐっ……!」
アスラが短く呻き、後方へ数メートル吹き飛ばされる。
泥濘に手をつき、咳き込みながらリアハイリンを睨みつけた。
「……今、手加減しましたね?」
強烈な一撃だった。だが、アスラは気づいていた。本気で潰しにくる威力ではなかったことを。
「さすがに、アスラちゃんを全力で殴るなんてできないよ」
リアハイリンは、悲しげで、けれどまっすぐな瞳を向ける。
「でも……想いは全力で乗せた。……届いたかな?」
アスラは答えない。
代わりに、ふっとその輪郭を陽炎に溶かし、風景と同化した。
姿なき猛攻が始まる。
虚空から鋭い突きが現れ、反撃しようとすれば既に気配はない。ヒットアンドアウェイの連続が、リアハイリンの体力を削っていく。
見えない刃を躱しながら、虚空へ問いかけた。
「ねえ、もしかして……アスラちゃんがお姉さんと仲違いしたのって、本当は、アスラちゃんが人間と精霊が平和に共存できる未来を望んでいたからじゃないの?」
その言葉が、見えない心の琴線に触れたのか。
突如、リアハイリンの真正面にアスラが実体化した。無言のまま、心臓を穿つ鋭い突きが放たれる。
リアハイリンは両腕を交差させ、腹部すれすれで槍の穂先を受け止めた。火花を散らしながら、両者の力が拮抗する。
「……何を根拠に」
「根拠なんて、ないよ」
押し込まれそうになるのを必死に堪えながら、リアハイリンは叫ぶ。
「でも、私たちが今まで見てきた、アスラちゃんの心からの笑顔には、そう書いてあるように見えた! 本当は争いなんてしたくない。みんなで笑って生きたいって……!」
「知ったような口を利かないでください!!」
アスラが激昂し、リアハイリンの足元の気圧を操作した。
強烈な向かい風。ぐっと足を踏ん張った瞬間——風向きが急速に逆転した。
前のめりにバランスを崩し、生まれた隙。その首筋へ、黒槍の石突が打たれる。
「……っ!」
脳髄が揺れ、リアハイリンの視界が暗転しかける。糸の切れた人形のように崩れ落ちそうになる寸前、彼女は最後の力で後方へ跳躍した。しかし着地しきれず、泥の中へ崩れ落ちる。
……今、加減した——?
倒れ伏しながら、リアハイリンはハッとした。
完全に無防備な首筋への一撃。本来なら意識を刈り取られていたはずだ。
自分が本気で殴れなかったように、アスラもまた、最後の最後で致命傷を避けたのだ。
そこに、アスラの言葉にできない本音があった。
使命と友情の間で引き裂かれ、それでもなお、自分たちを殺しきれない優しい少女の迷いが。
「……やっぱり、そうなんだね」
リアハイリンは泥だらけの身体をゆっくりと起こす。
「……何がですか」
アスラの声が、微かに震えていた。
「アスラちゃんは、本当はこんなことしたくないんだ。精霊も人間も、みんなが傷つかずに、平和になることを望んでる。……ヘヴンの方針には、本当は反対しているんでしょ」
「そんなわけ……! そんなわけ、ありません!」
図星を突かれたアスラが、悲鳴のような声で襲いかかってきた。
槍が嵐のように乱舞する。
「精霊は! 私たち人間からすべてを奪いました! 空も! 希望も! 尊厳も! 私たちはそれを取り返そうとしているだけなんです! 邪魔をしないでください!」
怒涛の刺突を、リアハイリンは拳と足、そして体捌きで必死にいなしていく。
「……瑞季さんに近づいたのも作戦です! あなたがたといて楽しいと思ったことなんて、一度だってありません! アニメなんて興味ない! この国の文化にも何の関心もありません!」
叫びながら、アスラは強烈な下降気流を発生させた。
目に見えない重圧が、リアハイリンを上から押し潰す。
骨が軋み、身動きが取れなくなるリアハイリン。
だがそのとき、背後から澄んだ声が響いた。
「——そんな見え透いた嘘つかないで! アスラちゃん!」
リアマイムだ。
「この間、駅前の本屋さんで偶然会ったとき……あなたは日本語の勉強本を持っていたじゃない!」
「……っ、だからなんですか! ただの任務のための勉強です!」
声を荒らげるアスラへ、リアマイムは優しく、だが確信を持って告げる。
「あなたは……和歌の棚の前で、長い時間立ち止まって本を眺めていた」
「……!」
動揺が、目に見える形で現れた。
リアハイリンを押さえつけていた空気の重圧が、ふっと緩んだのだ。
その隙を逃さず、重圧の範囲から脱出する。
「和歌の本なんて、よっぽど興味がある人しか手に取ろうとしないよ!」
アスラの肩がビクリと跳ねる。
「わたし、すごく嬉しかったの。本当に百人一首に興味を持ってくれたんだって」
「うるさいっ!!」
感情を爆発させ、アスラは宙へ舞い上がった。
「私を……! これ以上、惑わせないでください!!」
上空からの猛攻。それは先ほどまでの洗練された動きとは違い、ただ感情をぶつけるだけの荒々しいものだった。
リアハイリンは回避に専念しながら、好機を待つ。
そして——アスラが空中から渾身の突きを下ろしてきた、その瞬間。
リアハイリンは躱さなかった。
両手を伸ばし、落下してくる槍の柄を、素手でがっしりと掴み止めたのだ。
「!?」
驚愕するアスラを、リアハイリンは驚異的な怪力で地上へ引きずり下ろした。
泥濘に叩きつけられ、水飛沫と泥が舞い散る。
アスラは泥まみれになりながらも、血を吐くような声で叫んだ。
「私には、ジンさんやヘヴンの皆さんに、返しきれない恩があるんです……! その恩を、無下にしていいはずがありません!」
「確かに、私たちとヘヴンのやり方は違う。でも、戦争なんてやめて平和に暮らしたい、って目的は同じなんだ。精霊から奪われたものを奪い返すか、協力して一緒に平和を築くかの違いだけ」
立ち上がり、再び突進してくるアスラ。
リアハイリンは振り下ろされる槍を腕で受け止める。
「もう、いいんだよ……。もっと、自分の気持ちに素直になっていいんだよ、アスラちゃん」
「うるさい……! うるさいっ!!」
アスラがリアハイリンを突き飛ばし、距離を取った。
互いに限界だった。肩で息をし、全身が傷と泥に塗れている。
だが、瞳の光だけは消えていない。
両者は言葉を捨て、最後の一撃ですべてを決着させるべく構えをとった。
リアハイリンが大地を踏みしめる。
純白のオーラが全身を包み込み、右拳へと収束していく。小細工なし、最大のパワーを込めた渾身のストレート。
対するアスラも、空の黒槍に残る全てのエネルギーを注ぎ込む。
槍が青白い光を放ち、気圧操作の極致による究極の加速を伴って、リアハイリンの心臓ただ一点を穿つべく放たれた。
白き拳と青き槍。
互いの全霊が、正面から激突した。
音を置き去りにするほどの衝撃波が円形の草地を吹き飛ばし、周囲の木々を根元から揺さぶる。
閃光が視界を白く染め上げ、鼓膜を破らんばかりの轟音が響き渡った。
「うおおおおおおおおっ!!」
リアハイリンの雄叫びが、嵐を切り裂く。
彼女は力ずくで槍の軌道を弾き飛ばした。
甲高い金属音と共に、空の黒槍がアスラの手を離れ、虚空へと高く舞い上がる。
がら空きになったアスラの顔面。
そこへ、勝利を決するリアハイリンの拳が突き出された。
——だが。
ピタ、と。
その白い拳は、アスラの鼻先数ミリのところで、静かに停止した。
「……やっぱり、私には殴れないや」
リアハイリンはふわりと拳を下ろす。
悲しげで、けれどすべてを包み込むような、晴れやかな笑顔だった。
「出会いがどんな形であれ、アスラちゃんは私の、大切で、大好きな友達だもん」
その一言が、アスラの心の最後の砦を、粉々に打ち砕いた。
張り詰めていた糸が切れ、アスラの瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。
彼女はゆっくりと膝から崩れ落ち、泥だらけの地面に手をついた。
「……ぁ……」
声にならない息が漏れた。
張り詰めていたものが、決壊する。
「……う、うぅ……。私も……」
嗚咽が、小さな肩を激しく震わせる。
「私も、瑞季さんや……優菜さん、星輝さんのことが……だ、大好きです……」
心の底からの、血を吐くような告白だった。
「でも……! それを認めてしまったら……私の居場所は……もう……っ!」
誰にも言えなかった孤独な叫びが、雨上がりの森に響き渡る。
「……そんなこと、ないよ」
光が弾け、リアハイリンは元の瑞季の姿に戻った。
彼女は、泥だらけで泣きじゃくるアスラの前に、そっとしゃがみ込む。
「居場所なら、ここにもあるから」
アスラが涙に濡れた顔を上げる。
そこには瑞季だけでなく、優菜と星輝もいた。誰もが泥に汚れながらも、限りなく温かい眼差しで彼女を見つめている。
三人は示し合わせたかのように、アスラに向かってそっと手を差し伸べた。
「——だいじょうぶ」
瑞季が、優しく、力強く告げる。
「あなたには、私たちがいる」
「……はいっ……」
アスラは一瞬ためらった後、泥に汚れた震える手で、瑞季の手を確かに掴んだ。
その上に、優菜と星輝の手が重なる。
四人の手が結ばれた。
その確かな温もりが、長く凍てついていたアスラの心を、春の雪解けのように優しく解かしていった。
(第十七話「寒期の終わりを告げるそよ風」了)
第十八話「神風」2026/06/06 8:00投稿予定




