第十七話「寒期の終わりを告げるそよ風」-5-
ヘヴン社の敷地の隅の丘の芝生の上で、当時六歳のアスラは寝転がっていた。
そんな彼女の隣に、ひとりの少女が腰をかける。
「今日はいい天気だね、アスラちゃん」
すると、その少女も芝生に寝転がった。
「そうだね、ミィシャさん」
おかっぱ頭の華奢な少女・ミィシャ。線の細い整った顔立ちをしているが、その肌の色は病的に白い。歳は十で、アスラの姉ナーサよりも年上だ。しかし、ナーサよりもずっと幼く見えた。
「今日は外に出ていいの?」
「うん。元気だから。お兄ちゃんも、たまには外に出てお日様を浴びなさい、って言うし。……本当の意味で、お日様を浴びることはできないけど」
空にはどこにも青色がなく、灰色の雲で覆われていた。雨雲よりもずっと高いところに、その雲は存在する。空にはその雲だけがあり、低い地点に雲がないことが、彼らにとっての『快晴』なのだ。
「アスラちゃんは、青空を見たことはある?」
「写真やテレビでなら、あるよ。でも、あれは、加工されたものなんじゃないかって、ちょっと疑ってる」
「気持ちはわかるよ。でも、青空は本当にあるの。お兄ちゃんが雲の上に行って見たことがあるから、本当なの。すっごく、綺麗な青色らしいよ。あの大きさと美しさは、写真なんかじゃ十パーセントも伝わらないんだって」
あの雲の上に行くということは、宇宙の目前まで行くということ。つまり多大な費用が必要となる。一般庶民には、その目で青空を見る資格はなかった。もはや「本当の空は青い」と信じられる人は、ほとんどいないのかもしれない。
「私も行きたかったなあ。でも、この身体じゃ、ね」
「ジンさんも、きっとミィシャさんと一緒に行きたがってたと思うよ」
ミィシャ——ジンの妹は、静かに頷いた。
「私にこの病気がなかったら、たぶん連れていってくれたと思う。でも、私が病気じゃなかったら、お兄ちゃんは空に興味を持つこともなかったと思う」
どっちでも、私はいけないね——。
自嘲して笑うミィシャの、深いえくぼが印象的だった。
「あの空を取り返したら、私たちの心もずっと元気になるんだって。お兄ちゃんならそれができるって、信じてる」
「そのときは、ジンさんとお姉ちゃんと四人で、一緒に空を見ようね」
アスラの提案にミィシャは頷かず、じっと雲の向こうを見上げ続けていた。
◆
デシリア三人が等間隔に横一列に並び、その後ろにはヒナが浮いている。そして、その前方十メートル先。開けた草地の中心に、アスラが空の黒槍を構えて静かに立っていた。先ほどまでの戦闘の余韻と、アスラが語った衝撃的な真実が、空気を重く張り詰めさせていた。
「精霊が、青空を奪った……?」
ヒナが、信じられないといった様子で、か細く呟いた。
「ええ、そうです」
「確かに、闇の邦には灰色の雲が覆われているニャ」
ヒナはリアハイリンたちへ顔を向ける。
「ぼくら精霊はよく無の邦を観察していたニャ。でも、闇の邦は観察できなかった。その雲が、精霊からの観察を妨害していたからだニャ。だから、ぼくらは闇の邦が光の連邦に侵略することが、事前に察知できなかったんだニャ」
「『観察』とは、ずいぶん精霊のエゴを感じる表現ですね。『監視』あるいは『覗き』とでも表現するべきでは?」
「……それは、そうかもしれないニャ。でも、闇の邦がそれを嫌がって、自ら雲を作ったと……ぼくは、そう学んできたニャ」
ヒナの言葉に、アスラは、ふふ、と乾いた、不気味な笑い声を漏らし始めた。それは、嘲笑でもなく、悲しみでもない、何か歪んだ感情の表れのように聞こえた。
「あはは……。失礼しました。あまりに白々しくて、実に精霊らしい言い分だったもので」
笑いを収めたアスラの瞳は、氷のように冷え切っていた。
「カスパールさんから、あなた方が『正しい歴史』と信じてきたものが、いかに歪められたものであるかを聞いたあなたなら、もう、本当は察しているのでしょう? あの忌まわしき雲——灰呪雲を作り出したのが、精霊なのだと」
その言葉が放たれた瞬間、アスラの持つ空の黒槍にはめ込まれた青い宝石……空のデシリル・ジェムが、きらりと鋭い光を放った。
そして、次の瞬間、アスラの姿が、再び掻き消えた。
「!?」
それは、さきほどまでのステルスとは違う。ステルスは景色に溶け込むようにして消えていた。それに対し、今回はいきなり消えたのだ。
三人が警戒するよりも早く、悲鳴が上がった。
「ニャアアア!」
声は、デシリア三人のすぐ後ろから聞こえた。慌てて振り返ると、そこには、いつの間にか移動していたアスラが、ヒナの頭部を鷲掴みにしていたのだ。
「ヒナ!」
リアハイリンが叫び、アスラに飛びかかる。
アスラは、リアハイリンの攻撃を軽やかに避ける。
「私たちが転移するのを、あなたたちは何度か見たことがあるでしょう。これは、空の邦の精霊の力を応用したものなのです。……もっとも、あまり勉強熱心でなかったどこかの王子は、まだそれを身につけていないようですが」
「ヒナを放して!」
リアマイムが叫び、水の鞭を放つ。リアスピサも炎弾を構える。リアハイリンも、すぐさまヒナを奪い返そうと身構えた。
三人のデシリアが一斉にアスラへと襲い掛かる。アスラは、ヒナを掴んだまま、巧みな体捌きと瞬間移動、そして槍を盾のように使って、三人の攻撃を捌いていく。ステルス能力や空中浮遊を織り交ぜた変幻自在の動きに、三人は翻弄され、なかなか決定打を与えられない。
だが、三対一の状況は、徐々にアスラを追い詰めていった。リアハイリンが力強い踏み込みでアスラの体勢を崩し、リアスピサが炎で牽制し、動きが鈍った瞬間を、リアマイムが見逃さなかった。水の鞭が、アスラの腕を正確に打ち据える。
「くっ……!」
不意の一撃に、アスラは思わずヒナを掴む手を緩めてしまった。その隙を突き、リアハイリンが素早くヒナを奪い返し、後方へと下がる。
震えるヒナをしっかりと抱きしめた。
「……はぁ……はぁ……」
アスラはかすかに息を切らしながら、距離を取った三人を睨みつけた。
「灰呪雲とは、」
まるでそれを語ることが義務であるかのように、アスラは話を戻した。
「精霊との戦争で敗北した私たちを連邦から追い出し、私たちの世界に閉じ込めた後、精霊が報復として私たちの世界の上空に解き放った、巨大な雲です。普通の雲よりも遥か上空に存在し、この五百年間、ただの一度も消え去ることなく、空を覆い続けている、呪いです」
彼女は一息つき、空を仰いだ。
「私が空というものを初めて見たのは、この無の邦に来たときでした。……あまりにも広く、どこまでも続く、美しい青。あまりの美しさに、言葉が出ませんでした。その気持ちを、カスパールさんはこう喩えました。勝利の王冠を手に故郷へ凱旋したかのようだ、と」
空を知らなかった者だけが持つ、純粋な感動。そして、それを奪われたことへの深い悲しみ。
「灰呪雲は不思議な雲です。自然は慢性的な日照不足で貧しくなりましたが、人間や多くの生物が絶滅するほど日照を遮るわけでもない。……精霊が私たち人間を絶滅させない程度に苦しめるには、実に適切なバランスです」
アスラは再び三人に視線を戻し、静かに続けた。
「無の邦では知られていない概念のようですが、我々人間も精霊も、常に目には見えないエネルギーを身体から放出しています。その者の感情が明るく肯定的であれば軽く白いエネルギーを。逆に、感情が暗く否定的であれば、重たく黒いエネルギーを」
精霊が人間の感情をエネルギーとして食していることは、瑞季たちもヒナから聞いたことがあった。
「軽く白い感情は空へ昇り、光に溶けて地上へ降り注ぎます。重たく黒い感情は空高くまでは届かず、地に堆積し、降り注いだ白い感情と攪拌されます」
瑞季は思い出す。以前アスラが星輝の弟・幹斗に似た話をしていたことを。
——私の故郷では、人の気持ちはすごく軽くて、空へと昇っていくものだと言われています。だから、心の中に捨てたい思いがあるなら、下を向くのではなく、空へ向かって飛ばしてしまうのがいい、と。
さらに、アスラは続ける。
「そのエネルギーの色は、精霊だけでなく、人間の精神にも影響を与えます」
「あっ……」
リアマイムがハッと息を呑んだ。点と点が繋がり、恐ろしい可能性に思い至ったのだ。
アスラは何も言わず、ただ黙ってリアマイムを見つめている。彼女が導き出した答えを、自らの口で語ることを促しているかのようだった。
リアマイムはごくりと唾を飲み込み、震える声で話し始めた。
「もしかして、灰呪雲っていうのは、空へ昇る感情エネルギーを吸収するもの? 人から放たれた白い感情エネルギーだけを吸収して、人が住む地面には、黒い感情エネルギーだけが残る」
「正解です」
アスラは、はっきりと肯定した。
「王子。あなたはきっと、カスパールさんから真の歴史を聞いたとき、疑問に思ったはずです。精霊が、禁書に記されたような残虐な行いをするはずがない、と」
ヒナは、何も答えることができない。
「精霊の精神は、人間以上に感情エネルギーに左右されます。今の精霊は、五百年前と同じ種族だと思えないほど、柔和で温厚な性格をしています。私たちも、伝え聞く精霊像と実際の精霊が違いすぎて、面食らいました。——その歪な変化と、彼らが人間の世界に作り出した灰呪雲。そこから見出せる真実は、あきらかでしょう?」
アスラの言葉は、静かな確信に満ちていた。
「精霊の本質は、五百年前の戦争を引き起こした、非道で傲慢なものです。そして、彼らは人間を幽閉し、灰呪雲で白感情エネルギーだけを吸収する。そのエネルギーを光の連邦にばらまくことで、年月を経て精霊たちの精神は、明るいものに染まっていきました。そうして誕生したのが……一見善良で、平和を愛するように見える、あなたたち精霊なのです」




