第十七話「寒期の終わりを告げるそよ風」-1-
王座の間は、威圧的な空気に支配されていた。
その玉座の前で、ナーサは深く頭を垂れ、跪いていた。濡れた髪から滴り落ちる水滴が、黒い床に浮いている。彼女はただ、玉座に鎮座する主の言葉を待っていた。
「アスラが裏切った、か」
玉座から響いてきたのは、感情そのものが欠落した、平坦で冷たい声だった。
「はい。申し訳ありません」
床に額を擦り付けんばかりに、さらに深く頭を下げた。声がわずかに震えている。それは、恐怖からか、あるいは自らの失態への悔しさからか。
「ナーサ。君はこれまで、アスラの手綱を握り続けていたはずだ。この重要な局面で、飼い犬に手を噛まれてしまった、と」
ジンの言葉はまるで遠い国の出来事を話すかのようで、非難の色はなかった。だが、その淡々とした口調が、かえってナーサの心を抉る。
「も、申し訳ありません……! あたしの監督不行き届きです……!」
「君をヘヴンから追放し、二度と私の前に姿を見せないようにさせる、という選択肢もある」
依然として感情の起伏がないその言葉は、ナーサにとって死刑宣告にも等しかった。
「そ、それだけは……! どうか、それだけは……!」
ナーサは必死の形相でジンを見上げ、彼の仮面の奥を懇願するように見つめる。
「あたしは……! ジンがいないと……あたしは……」
故郷も肉親も失い、妹を護る使命しか生きる意味のなかった彼女に、生きる理由を与えてくれたのはジンだった。彼への忠誠心と恋情は、生きる理由そのもの。それを失うことは、真っ暗な床下で祖父と母が息絶える音を聞いた、あのときの絶望に戻ることに等しい。
ジンは、ナーサの悲痛な訴えに、沈黙で応えた。やがて、ゆっくりと口を開く。
「いいだろう。アスラの選択を静かに見守るとしよう。彼女が自らの過ちに気づき、我々の元へ戻ってくるのであれば問題はない。しかし」
ジンの声のトーンが、わずかに低くなった。
「もし、彼女が寝返ってしまったとしたら。アスラは我々にとって、無視できない脅威となり得る。ナーサ」
「……はい」
ナーサは息を呑み、主の次の言葉を待った。
「もし、そのときが来たならば、君が自身の手でアスラを——分かっているな」
その言葉は、最後まで発せられることはなかった。だが、その意味するところは明白だった。
「はい。そのときは必ず、このあたしが」
ナーサは表情を引き締め、揺るぎない声で答えた。
どれほど残酷な命令であろうと、ジンのためならば、ためらわない。
「ならば、そのときに備え、今は身体を休ませておくといい」
「——あの、ジン」
ナーサは立ち上がろうとして、ふと、ためらいがちに口を開いた。
「ジンの心は、もう戻らない……のかな」
「……心など不要」
その声は、どこか遠い場所から響いてくるかのようだった。
「心など、使命への道を惑わせる霧にすぎない」
その言葉が、ナーサの抱いた淡い希望を容赦なく打ち砕いた。
「——そう、だよね」
ナーサは、込み上げてくる感情を押し殺し、再び深く頭を下げた。玉座に背を向け、漆黒の闇の中へと、静かに姿を消していく。




