第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」-7-
戦場へ跳ぶリアハイリンの背中を見つめながら、アスラは独りごちた。
「何をしているのでしょうか。私は」
その問いかけは、雨音に掻き消されて誰にも届かない。
彼女の行いは、潜入してからの一ヶ月——否、空の邦の王子が三つのデシリル・ジェムを持って逃亡してからの八年間を、すべて灰燼に帰す行為だ。
姉に知られれば、ただでは済まないだろう。
自分はヘヴンを裏切り、故郷を捨てた。
そして、デシリアをも欺き続けてきた。
「もう、私に戻る場所はない——」
指先が凍えるほど冷たい。
破滅への片道切符だと分かっていながら、なぜ自分は彼女の背中を押したのか。
その答えを、アスラはまだ見つけられずにいた。
戦場では、閃光が迸っていた。
リアハイリンは、ぬかるみに倒れ伏す仲間たちを一瞥すると、すぐさま巨悪へと向き直る。
ナーサの表情が凍りついた。
「……スレイヴ! もう一匹蟻が現れた! 潰せ!」
即座に振り下ろされる巨腕。
だが、遅い。
リアハイリンはアスファルトを爆発させる勢いで踏み込み、一直線に懐へと潜り込んだ。
その軌跡に沿って、降りしきる雨が真横に切り裂かれる。
彼女は身体を低く沈めて剛腕を回避すると同時に、がら空きになった脇腹へ、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
岩を砕くような重低音。
スレイヴが苦悶の声を上げ、巨体が大きくよろめく。
まだだ——!
よろめいた膝裏を蹴り抜き、体勢を崩させると、彼女は雨粒を足場にするかのように跳躍した。
全体重を乗せた、断罪の踵落とし。
スレイヴの脳天へ、垂直に叩き込む。
スレイヴの巨体が、水飛沫を上げてアスファルトに叩きつけられた。
「ハイリン!」
リアマイムとリアスピサが、泥だらけの身体を引きずり起こして駆け寄る。
三つの背中が、再び並んだ。
「ごめん! 遅くなった!」
息を弾ませるリアハイリン。その瞳には、かつてないほどの力が宿っている。
「ったく、心配させやがって! でも、ナイスタイミングだぜ!」
リアスピサは不敵に笑い、口元の血を拭った。
「……」
リアマイムは言葉を失っていた。
そんな彼女に、リアハイリンは「話は後で」と短く応え、敵へ対峙する。
三人のデシリアが揃い踏む。
その光景を前に、ナーサの顔に初めて焦燥の色が滲んだ。
「……ちっ、リアハイリン……! なぜ……!? まさか」
忌々しげに吐き捨て、舌打ちする。
「——あの馬鹿が」
ナーサは倒れたスレイヴに向かって叫んだ。
「立て! スレイヴ! まだ終わっていないぞ!」
主の命令に抗えず、スレイヴが緩慢な動作で身を起こす。
その動きは鈍いが、瞳に宿る憎悪と悔恨の炎は、雨に打たれてもなお燃え盛っていた。
《……裏切り者……俺は……償わなければ》
心の声が、再び漏れ聞こえてくる。
「……もう、充分苦しんだでしょう」
リアマイムが、静かに、けれど毅然と語りかける。
「あなたの後悔は、もう消せないかもしれない。でも、その罪悪感に囚われ続けて、誰かを傷つけるのは、もう終わりにしましょう」
「そうだ!」
リアスピサも続ける。
「あんたを縛り付けてるその黒い感情を、ウチらが燃やし尽くしてやる! そんで、もう一度、ちゃんと前を向けるようにしてやるからよ!」
「……あなたの心の中に、まだ少しでも、光が残っているのなら」
ふたりの言葉を受け、リアハイリンがまっすぐにスレイヴを見据えた。
「私たちに、その心を委ねて!」
三人の想いが共鳴する。
絶望の雨を蒸発させるほどの熱量が、戦場を支配していく。
「行くよ!」
リアマイムが天を仰ぎ、降り注ぐ雨を清浄なる刃へと変える。
「『黒き感情、流れゆけ』」
リアスピサが両手に灼熱を宿し、闇を焼き尽くす業火を纏う。
「『黒き感情、燃え尽くせ』」
そして、リアハイリンが大地を踏みしめ、胸の奥から湧き上がる光を右拳に集束させる。
「『黒き感情、無に帰せよ』」
三つの声が重なる。
「『デシリア・セイリング・ファイア!』」
「『デシリア・フライト・シャワー!』」
「『デシリア・クリア・スクリーム!』」
水流、業火、閃光。
三色の輝きが螺旋を描き、スレイヴへと殺到する。
それは破壊の奔流ではない。迷える魂を優しく包む、救済の一撃。
《ああ……。俺は、もう一度あいつと向き合うべきなんだな》
スレイヴから漏れたのは、もはや苦悶の叫びではなかった。
どこか憑き物が落ちたような、安堵の吐息。
浄化の光は黒い鎧を優しく溶かし、その奥にある傷ついた魂へと染み渡っていく。巨大な怪物の輪郭は光の粒子となって崩れ落ち、冷たい雨の中へと霧散していった。
光が収まったあと。
ぬかるみの上に、気絶したひとりの男性が横たわっていた。
浄化の光が消え、雨音だけが支配する静寂がロータリーに戻ってきた。
リアハイリンは安堵の息をつく。激闘は終わったのだ。
だが、その安堵は一瞬で凍りついた。
脳裏に焼き付いた記憶が、鮮烈に蘇る。
「——アスラちゃん」
弾かれたように振り返る。
視線の先。少し離れたバス停の屋根の下に、その影はあった。
雨を避けるように、ぽつんと立っている。俯き、じっと足元を見つめたまま、ピクリとも動かない。まるで捨てられた人形のようだった。
「アスラちゃん!」
名前を呼ぶが、反応はない。
胸の奥から、得体の知れない不安がせり上がってくる。
リアハイリンは迷わず変身を解いた。光が弾け、制服姿の瑞季に戻る。
「おい、瑞季! アスラがいるのに変身解いたら……!」
背後からリアスピサの焦った声が飛んでくる。
「いいの! 今は、そんなことより……!」
制止を振り切り、瑞季は駆け出した。
水たまりを踏み抜き、泥水を跳ね上げて走る。
今はただ、彼女の元へ。
理屈ではない衝動が、瑞季の足を突き動かしていた。
「お、おい! どういうことだよ!?」
困惑するリアスピサ。
その隣で、リアマイムもまた静かに変身を解いていた。
「……星輝も来て」
優菜の声は静かだが、有無を言わせぬ重みがあった。
「はあ!? だから、どういうことなんだって……!」
「すぐに分かるよ。今は、瑞季を追いかけよう」
優菜はそれだけ言い残し、瑞季の背中を追う。星輝は状況を飲み込めないまま、それでも仲間を信じて走り出した。
息を切らし、瑞季はバス停に滑り込んだ。
目の前に立つアスラは、足音に気づいているはずなのに、顔を上げようとしない。
石像のように固まり、ただ震えている。
遅れて優菜と星輝も追いつく。
屋根を叩く雨音だけが、やけに大きく響いた。
「アスラちゃん……」
聞きたいことは山ほどある。
けれど、言葉が喉につかえて出てこない。
「どうして……。どうして、アスラちゃんが……」
アスラは答えない。
胸の前で握りしめた拳が、白くなるほど震えているだけだ。
その沈黙が、瑞季の不安を確信へと変えていく。
重苦しい十秒が過ぎた、そのとき。
「——どういうつもりだ、てめえ」
背筋が凍るような、低く冷たい声。
三人は弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、ナーサだった。
特徴的なツートンカラーの髪も、黒いブラウスも、びしょ濡れになって肌に張り付いている。
鋭い顎先から、滴り落ちる雨水。
「ナーサ……!」
瑞季が身構える。
「どういうつもりだって聞いてんだ」
だが、ナーサの視線は瑞季たちを素通りしていた。
その殺意に満ちた三白眼が射抜いていたのは、三人の背後で震える少女。
「何を言って——」
「答えろ、アスラァ!!」
獣の咆哮。
ナーサが動いた。
風のような速さで瑞季たちの間をすり抜け、アスラの目の前に躍り出る。
次の瞬間、その華奢な首根っこを鷲掴みにした。
「なっ……! ナーサ! 放しなさい! アスラちゃんは、関係ないでしょ!」
「関係ないわけねえだろうが!」
ナーサはアスラの首を締め上げたまま、憎々しげに瑞季を睨みつけた。
当然の返答だった。
瑞季の変身アイテムを盗み出し、彼女を「リアハイリン」と呼んだアスラが、無関係なはずがない。
関係があるとするなら——それは、敵としてだ。
瑞季も、本当は気づいていた。
中間テストの時、星輝が平均点を取らなければならない事情を、なぜかブラフザールが知っていたこと。
アスラとの待ち合わせ場所に、都合よくカスパールが現れたこと。
そして、カフェで眠らされ、デシリル・ジェムとデシリル・アンプがなくなったこと。
アスラがヘヴンの関係者であると仮定すれば、すべてピースが綺麗に繋がってしまうのだと。
それでも、信じたかった。
あの日々を。あの温かい時間を。
ナーサは喉が潰れんばかりの怒号を浴びせる。
「答えろアスラァ!!」
そして、汚れた雑巾でも捨てるように腕を振るった。
アスラの身体が右肩からぬかるんだ地面に叩きつけられる。
泥水が跳ね、白いブラウスとスカートを汚していく。右半身は泥まみれになり、左半身は屋根からはみ出し、冷たい雨に打たれていた。
「……お姉……さま……」
アスラは痛みで顔を歪めながら、自分を見下ろす姉を見上げた。
ナーサの瞳にあるのは、冷酷なまでの断罪の色。
「手段はなんでもいい。明日までにあいつらのジェムとアンプを全部集めて来い。さもなくば、あんたに帰る場所はない」
アスラは目を見開き、凍りついた。
その瞳が、恐怖と絶望に揺れる。
「念のために言っておくけど、あたしが独断で言ってるんじゃないよ。あんたが裏切ったときはそうしていいと、ジンから指示が出ている」
「そんな……」
「部屋に武器を置きっぱなしだろ。それを取るため今日は帰ってきていいけど、明日は必ずやり遂げな」
ナーサはアスラに向かって唾を吐き捨てると、今度は呆然と立ち尽くす瑞季たちへ鋭い視線を向けた。
「よく聞け。あんたらの大切なお友達を家なき子にしたくなければ、明日までに、こいつに全部渡せ」
言い捨てると、ナーサの姿は雨の中に掻き消えた。
残されたのは、バス停の屋根の下で立ち尽くす三人と、泥にまみれて横たわるアスラだけ。
瑞季たちは、打ちひしがれた少女に、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。
手を差し伸べることさえできない。
無情な雨音だけが、世界を支配していた。
(第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」了)
第十七話「寒期の終わりを告げるそよ風」 2026/5/30 8:00投稿予定




