第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」-6-
いつしか雨はその勢いを増し、まるで空に穴が開いたかのように、激しく地面を叩きつけていた。駅前のロータリーはあっという間に水浸しになり、街灯の光を乱反射させる大きな水たまりがいくつもでき始めている。人影はまばらになり、逃げ遅れた人々は建物の軒下や駅のコンコースへと避難し、遠巻きに不安げな表情で戦況を見守っていた。
アスラは、駅から少し離れた場所にある、大きなケヤキの木陰に身を潜めていた。降りしきる雨が木の葉を激しく打ち、バチバチと絶え間なく音を立てている。雨粒は葉の隙間から降り注ぎ、アスラのスカートをぐっしょりと濡らして体温を奪っていく。それでも、アスラは傘を差さないまま、その場から動かなかった。ただ一点、雨に煙るロータリーの中心で繰り広げられる死闘を、息を殺して見守っていた。
水の盾を展開し、激しい水流でスレイヴの巨体を押し返そうとするリアマイム。降りしきる雨の中、炎の勢いを保ちながら果敢に攻め立てるリアスピサ。ふたりは、圧倒的なパワーを持つスレイヴと、それを操るナーサを相手に、必死の攻防を続けている。
視界の端には、駅の軒下で、雨に打たれながら立ち尽くす瑞季の背中が見えた。変身できず、ただ仲間たちの無事を祈ることしかできない彼女の姿は、ひどく小さく見えた。その姿を見るたびに、アスラの胸に冷たく重い雨水が染み込んでいく。
アスラは、濡れて冷たくなった自分の掌を、ゆっくりと開いた。そこには、先ほど瑞季のバッグから抜き取った、ふたつのアイテムが、雨粒に濡れて鈍い光を放っている。白く輝くデシリル・ジェムと、それと対になるデシリル・アンプ。この小さな石と金属片が、デシリアへの変身を可能にする奇跡の力……自分が彼らを騙して手に入れた、許されざる戦利品。
アスラは、掌の中のそれを、複雑な思いで見つめた。一年ほど前のジンの言葉が、雨音に混じって蘇る。
——君には、デシリル・ジェムへの適性がある。しかもふたつだ。空と風。特に風のデシリル・ジェムには、顕著な適性があるようだ。
それはつまり、彼女にもこの石を使うことができるということ。
「……もし……この力を使えば——」
私も、デシリアになれるのでしょうか。
そんな考えが、嵐のような雨音の中で、誘惑のように囁きかける。
雨はますます激しさを増し、まるで世界を洗い流そうとするかのように、アスラの身体と心を、冷たく打ち続けていた。
降りしきる雨の中、リアスピサが先陣を切った。
ぬかるんだ地面を物ともせず、持ち前のスピードで巨大なスレイヴの側面へと回り込み、その関節部……動きを封じやすいであろう箇所を狙って、連続で炎弾を叩き込む。
灼熱の火球が、雨粒を蒸発させながらスレイヴへと迫る。しかし、スレイヴは巨大な体躯に似合わず、驚くほど滑らかな動きを見せた。武術家のように、最小限の体捌きで炎弾の直撃を回避し、掠める程度に抑え込む。黒い靄がわずかに揺らめき、焦げたような臭いが漂うが、ダメージは明らかに浅い。
「くっ!」
リアスピサが舌打ちするのと同時に、後方からリアマイムの援護が入る。地面に広がる水たまりを操り、鋭利な水の槍を複数生成、スレイヴの正面から撃ち放った。
同時に、スレイヴの足元に強力な水流を発生させ、その巨体を足元から絡め取ろうとする。
だが、スレイヴは太い腕を巧みに使い、柔道の受けのように力をいなし、軌道を逸らしてしまう。
「その程度か?」
スレイヴの傍らで戦況を眺めていたナーサ。そのほくそ笑んだ視線は、ふたりを侮っている。
「そういえば、ブラフザールさんとカスパールさんに連続して負けたんだって? で、お情けで生きさせてもらってるんだろ?」
「うるせえ!」
自らのうちに渦巻く恐怖を吹き飛ばすべく、リアスピサは叫び、高出力の炎を放射する。
燃え盛る炎の壁がスレイヴの顔面付近を覆い、その視界を一時的に奪う。
陽動だ。
その隙を突き、リアマイムがスレイヴの背後へと高速で回り込み、零距離から高圧の水撃を放出した。
しかし、スレイヴは視界を奪われてもまるで動じなかった。背後から迫る気配を察知し、振り向きざまに巨大な腕を薙ぎ払う。リアマイムの渾身の水撃は、いとも簡単に弾き飛ばされた。それだけではない。スレイヴはその手に握る、黒い靄で形成されたリボルバーの銃口を、体勢を崩したリアマイムへと向け、続けざまに弾丸を連射した。
空気を切り裂き、弾丸はリアマイムの足元のアスファルトに着弾し、小さな爆発を起こす。
「きゃっ!」
リアマイムは爆風に煽られ、後方へと吹き飛ばされてしまう。咄嗟に周囲の雨水を集め、リアスピサの足元に不安定ながらも水のプラットフォームを瞬間的に作り出した。
「スピサ、お願い!」
「任せろ!」
リアスピサはその水の足場を強く蹴り、高く跳躍する。スレイヴの脳天を飛び越え、首の後ろへ炎を纏った脚を振り下ろした。
しかし、スレイヴは上空からの強襲に対しても冷静だった。身を屈め、衝撃を吸収するような体勢を取って受け流した。リアスピサの蹴りは、スレイヴの肩口を掠めただけだった。
「……くそっ!」
「無駄だ」
ふたりの連携がことごとく破られるのを、ナーサは嘲笑う。
「あんたたちの連携は、リアハイリンがいて初めて成立していたものに過ぎない。水と炎……本来、相反する属性のその力を、あの脳筋娘が無理やりひとつに繋ぎ止めていただけだ。要を失ったあんたたちの連携なんて、所詮は根のない木の幹と葉のようなもの。脆く、すぐに崩れ去る運命だ」
ナーサの言葉が、リアマイムの心を的確に抉る。
確かに、リアハイリンなしで戦うのは初めてだった。彼女がいないことが、これほど不安なことだなんて想像したこともなかった。
さらに、リアマイムの脳裏に、カスパールの言葉が蘇る。
——改めて考えるといい。その手に握る『戦う理由』は、無関係の邦同士の戦争に首を突っ込み、命の危険を晒すほど価値のあるものであるかを。
この警察官の格好をしたスレイヴに、自分たちが命を賭して救う意味は——。
そう考えかけて、頭を振った。
「……っ、それでも!」
「諦めてなんてやらねえ!」
肉体的にも精神的にも限界だった。それでも、無理やりに叫び、勝利への活路以外の思考を無視する。最後の望みを託し、ふたりは同時に最大級の攻撃を仕掛けた。
「土砂降りの雨も、わたしなら味方にできる!」
リアマイムが両手を天に掲げ、降り注ぐ無数の雨粒が、自分の身体の一部になるイメージを描く。周囲の水たまりが渦を巻き、生成された膨大な水が四本の巨大な鞭となって、スレイヴの両手両足へと襲い掛かった。
水の鞭は、スレイヴの巨体を正確に捉え、その動きを一瞬だけ、完全に封じ込めた。
「スピサ!」
「おおおおおおっ!」
リアスピサが、残された全エネルギーを右腕に集中させる。凝縮された炎が、眩いばかりの光を放ち、巨大な槍の形を成していく。
「いけえええええ!!」
解き放たれた炎の槍は、轟音と共にスレイヴの胸部目掛けて、一直線に突き進んだ。
炎の槍が直撃した瞬間、急ブレーキをかけた列車のような絶叫が町中に響いた。
スレイヴの胸部の黒い靄が、内部からの爆発によって大きく吹き飛び、停車していたバスに背中を打ちつける。バスはスレイヴの重量に大きく歪み、ガラスが粉々に散った。
激しい雨音に混じり、痛切な心の声が聞こえ始める。
《……すまなかった! すまなかった……っ! 俺が……俺が、あのとき……お前を見捨てなければ!》
それは、過去の取り返しのつかない後悔。誰かを裏切ってしまったことへの、深い罪悪感の表れ。
《許してくれとは……言わない……。言う資格なんてない……。俺は……俺は、裏切り者なんだから!》
スレイヴの声は絶望に染まっていた。自己嫌悪が、黒い感情をさらに増幅させていく。
「許されるとは限らないけど」
リアマイムが、苦しむスレイヴに手を差し伸べた。
「後悔があるなら、それが本気なら、きっとあなたが想っているその人は、話を聞いてくれる。だから、暴れるのはもうやめて」
「そうだ! あんたは、まだやり直せる!」
リアスピサが叫ぶ。
「その後悔を償う方法だって、きっとあるはずだ! だから、目を覚ませ!」
そのふたりの言葉が、木陰に隠れるびしょ濡れのアスラの心に響いていた。
自分は最初からスパイだ。ただ任務をしただけ。罪の意識を感じることなんてない。
そう、自分に言い聞かせている自分がいる。
つまり、アスラの心は罪悪感でいっぱいなのだ。——大切な友達を裏切った罪悪感で。
そこで、スレイヴに語りかけるリアマイムの声が聞こえた。
「あなたは、どうしたいの?」
私は——。
ふたりの必死の説得。しかし、それは逆効果だったのかもしれない。
心のもっとも触れられたくない傷に触れられたスレイヴは理性を失い、激昂した。
憎悪と絶望の咆哮が、ロータリー全体を震わせる。スレイヴの動きは、より一層荒々しく、予測不能なものへと変貌した。パワーは格段に増し、ただ破壊することだけを目的とした、理性なき破壊の権化。
スレイヴは、黒い靄で形成された巨大な警棒を、凄まじい力で振り回し始めた。風を切る音が、雨音の中でもはっきりと聞こえる。あるいは、柔道の投げ技を彷彿とさせる動きで、リアマイムやリアスピサを、容赦なく地面に叩きつけようとする。雨でぬかるんだ地面を巧みに利用した、予測不能な足払いも繰り出してきた。
既に限界近くまでエネルギーを消耗していたリアマイムとリアスピサには、逆上したスレイヴの猛攻を捌ききることなどできない。
リアマイムが、最後の力を振り絞って水の盾を展開する。だが、スレイヴが振り下ろした警棒の一撃は、いとも簡単に盾を粉砕し、リアマイムの身体をビルの壁へと叩きつけた。
「ぐっ……あ……!」
「くそっ!」
リアスピサは最後の力を振り絞り、炎を放出する。
それは、一瞬で消された。
彼女の意識と共に。
スレイヴの薙ぎ払いが、炎とリアスピサの意識を、連続して途絶えさせたのだ。
「——おめでとう。記念すべき三連敗目だ」
ナーサは満足げに、倒れたふたりを見下ろしていた。
しかし、ヒーローはけっして諦めない。
「まだだ……!」
リアマイムが、かろうじて瓦礫の中から上半身を起こし、憎しみを込めてナーサを睨みつける。そして、最後の力を振り絞り、地面に水の柱を打ち込み、その反動を利用して、再びスレイヴの顔面目掛けて、自ら突撃していく。
スレイヴは、その動きを予測していたかのように銃口を向け、弾丸を放つ。リアマイムは、最小限の大きさの水の盾を瞬間的に展開し、弾丸を弾いた。
リアマイムが弾いた弾丸のひとつが着弾したのは、駅の軒下で戦況を見守っていた瑞季の目と鼻の先だった。
「きゃあっ!」
「ニャ!」
爆風と水飛沫を浴び、瑞季は尻餅をついた。地面の冷たさがスカート越しに染み込んでくる。
目の前で繰り広げられるのは、一方的な蹂躙だった。
仲間たちが何度スレイヴに挑んでも、決定打にはならず、その度に無情にも泥水の中へ叩きつけられていく。もう、ふたりには立ち上がる力すら残っていないように見えた。
それでも、ふたりは泥を啜りながら立ち上がり続けた。
そんな仲間たちの姿を目の当たりにしながら、自分は何もできない。戦場に立つことすらできない。その無力さと悔しさに、瑞季の目から止めどなく涙が溢れ出した。雨水と涙が混ざり合い、頬を伝っていく。
「なんで……。どうして、こんなことって……」
「瑞季……」
ヒナの怒りはすでに収まっていた。しかし、リアマイムの指示通りに慰めることはできていなかった。ヒナも、瑞季にどのように言葉をかけていいか分からず、先ほどから一度も声をかけられないでいたのだ。
そのとき、固い靴の音がした。
誰かが彼女の前に立ったのだ。
瑞季は見上げる。
そこには、雨で全身を濡らしたアスラが、幽霊のように静かに立っていた。
「アスラちゃん……どうして、ここに……。危ないから早く逃げて!」
ヒナを抱えたまま、瑞季は涙声で叫んだ。
しかし、アスラは何も答えない。黙ってその場にしゃがみ込み、ゆっくりと右手を瑞季に差し出した。
その小さな白い掌の上。
瑞季が失くしたはずの白い宝石と板が、雨粒に濡れながらも、確かな輝きを放っていた。
「え……ど、どうして……これを、アスラちゃんが……?」
瑞季は、信じられないものを見る目で、アスラの顔を見上げる。びしょ濡れの前髪に隠れ、口元しか見えなかった。
「……聞いている暇が、あるのでしょうか」
どこか投げやりな、けれど震える声。
アスラは瑞季の冷たくなった左手を、強引に掴んだ。そして、その手に、デシリル・ジェムとデシリル・アンプを押し付けるように握らせた。
ずしりとした重みと、ひんやりとした感触が、瑞季の掌に伝わる。
役目は終わったと言わんばかりに、アスラはゆっくりと立ち上がった。瑞季に背中を向け、再び冷たい雨の中へ早足で歩き出そうとする。
「待って! アスラちゃん!」
瑞季が、思わず呼び止める。
アスラは立ち止まる。背中が小刻みに震えているのが分かった。
「……行きなさい」
雨音に消え入りそうな声。
次の瞬間、アスラは勢いよく振り返った。
濡れた髪の間から覗くその瞳には、強い決意の光が宿っていた。
彼女は、土砂降りの雨を切り裂くように叫ぶ。
それは、かつて瑞季が彼女にかけた言葉。
「考える前に走ってしまえ! ——リアハイリン!!」
その叫びが雷鳴のように瑞季の鼓膜を打ち、凍りついていた心臓を灼熱させた。
全身の血液が沸騰する。
涙を拭い、宝石を掴む右手を天高く掲げた。
その手を振り下ろし、デシリル・アンプの窪みに力強く叩き込む。
「『デシリアの 穢れを裁く魂は 如何なる者にも染められない』」
絶望の淵から這い上がった希望の光が、灰色の雨雲を貫く。
「『透き通る心、リアハイリン!』」




