第十七話「寒期の終わりを告げるそよ風」-2-
とある冬の朝。あれは、アスラが五歳の頃。侵略国家ガルデルグが大国パルメダに制圧され、彼女たちが解放された直後のこと。
すごく寒くて、でもひんやりとした空気はどこか心地よく、姉と同じ毛布を肩にかけて身を寄せ合っていた、あのぬくもりを、アスラは今でもよく覚えている。
草木が枯れ、見晴らしのいい広場にある野営地の片隅にある小さなテントのそばで、姉とアスラは木箱に腰をかけてココアを飲んでいた。
「こんなに温かいもの、いつぶりだろう」
「この甘さも、久しぶりかも」
姉は確かめるようにマグカップを握っていた。
「……あたしたちは、やっと解放されたんだ」
冷たい風が吹き、アスラの肩がぶるっと震える。
「テントの中に戻る? アスラ」
「ううん、もう少し外の空気を吸いたい。お姉ちゃんこそ、寒くない?」
「あたしは平気。このココアと、アスラの身体が温かいから」
痩せ我慢でない姉の笑みを見たのは、いつぶりだったっけ。
アスラは、姉のその優しい表情が大好きだった。久しぶりにそれを見ることができたのが嬉しくて、アスラは左に座る姉の肩にこめかみを預けた。姉の銀髪が鼻に当たってくすぐったかったけど、気持ちよかった。
そのときだった。
遠くから、乾いた銃声が響いた。
静かな空気が一瞬で緊迫に変わる。周囲の軍人たちが動き出し、号令と共に武器を構え始めた。
「アスラ」
「うん」
アスラたちはココアを木箱に置いて立ち上がり、音を立てないようにテントに戻った。
このときの彼女たちは知る由がないが、ガルデルグ軍の残党三人が銃を構えながら野営地に侵入してきたらしい。しかし、アスラたちを保護しているパルメダの軍人たち十数人を相手にするには分が悪く、パルメダ軍側はひとりがかすり傷を負った程度だった。
騒ぎが収まるまでの時間はせいぜい三分程度だった。外には緊張の糸がまだ張り詰められていたのだが、幼いアスラたちはすっかり騒ぎが収まったのだと信じていた。姉が「外の様子見てくるね」と言い残し、テントの外に出る。
瞬間、姉の短い悲鳴が響いた。
「お姉ちゃん!?」
アスラはテントから飛び出した。
あのときの光景は、よく覚えている。どういうわけか、映像ではなく写真として、鮮明に。
腕で頭を庇ってしゃがみ込む姉。姉にナイフを持った手を伸ばす暗い迷彩柄の軍服——ガルデルグの軍服を着た男。そして、真っ白な白衣をなびかせ、肘で男の顎を殴りあげる青年。
次に記憶している景色はガルデルグの残党が仰向けに倒れ、青年が彼の鳩尾に膝を立て、ナイフとハンドガンを男から奪っている光景だった。
遅れてやってきた青年兵が、敬意を込めて彼の名を呼んだ。
「ジン様!」
ジン様と呼ばれた青年は、当時のアスラの記憶にはなかった。昨夜までは確かにいなかった。
「やけに無謀な攻め方をするものだって思ったから、嫌な予感がしてこの子たちのテントに向かったんです。間に合ってよかった。銃を携帯しているのに握ってないってことは、この子たちをもう一度奪い返す気だったのかもしれませんね。残党が周囲に残ってないか、しっかり確認お願いします」
「はい!」
まるで指揮官のように青年は指示を出した後、ふわっと表情を緩め、彼女たちに優しく語りかけた。
「もう大丈夫だ。怖くなかったかい?」
温かい男性の声だった。毛布のように柔らかく、若葉を撫でる風のように爽やかで、大樹のように芯の固い声。
「君たちがカスパール将軍の言っていた姉妹だね。お名前はなんて言うんだい?」
アスラは震えた腕を姉の腕に絡ませ、黙ってうつむく。
自分たちを守ってくれた恩人なのは、分かっていた。でも、このときの彼女はひどく人見知りで、初対面の人を信用することができなかった。その上、彼女の記憶の中で男性という存在は、自分に酷いことをする人、という印象が強くこびりついてしまっていた。いくら声が素敵だからといって、自分を助けてくれたカスパール将軍のことを知っているといったって、たったいま危機から救ってくれたからといって、信じることはできなかった。
一方、姉は緊張した、しかし警戒心のない声で答えた。
「ナ、ナーサです。こっちは妹のアスラ」
アスラは驚き、顔を上げた。
姉はこれまでずっと、酷い目に遭い続けていた。アスラよりもずっと酷い目に。姉の警戒心は、アスラのそれよりも強いはずだった。
どうして姉がそうやって話せるのか、当時のアスラには理解できなかった。今なら分かる。一目惚れしたのだ。
男性は膝をついて目線の高さをアスラたちに合わせた。
「ナーサ……。確か、ルクレートの方面の古い言葉で『希望』という意味だったね」
「は、はい!」
「いい名前だね」
「あ、ありがとうございます……」
「——お姉ちゃん」
アスラが一層強く姉の左腕を抱くと、姉は右手で妹の頭を撫でた。
「そんなに怖がらなくていいよ、アスラ」
「でも」
「この人は、きっと大丈夫だから」
何を根拠に姉がそんなことを言っているのか、理解できなかった。
パルメダ軍に助けられたときも、姉はずっと獣のように周囲を睨み続けていた。それから二日が経過したこのときだって、この人たちは自分たちの味方だと分かっていながらも、どこか大人に心を許すことができないでいる様子だった。
そんな姉の瞳はキラキラと輝き、頬が赤く染まっていた。初めて見た表情だった。
「ごめんなさい。アスラはちょっと人見知りで」
「ずいぶん警戒されてしまっているね。でも、それくらいがちょうどいいのかもしれない。今は治安が悪いから。——カスパール将軍から君たちのことは少しだけ聞いている。ルクレートの生まれなんだってね。ルクレートのことは、本当に残念だ」
彼女たちの故郷ルクレートは、ガルデルグからの侵略でなくなってしまった。あの場所に残っていた人々が戻ることはない。
「『アスラ』というのは確か、ルクレートの春に吹く風の名前だったかな」
そこでようやく、アスラは顔を上げて男性の顔を見た。全体的に線が細く、美しい顔立ちだった。歳は十代にも二十代にも見える。姉が「怖がらなくていい」と思った理由が、なんとなく伝わった。
しかし、アスラという言葉の意味は少し違う。
「いいえ、寒期の終わりを告げる温かいそよ風のことです。なので、季節は冬です」
「それだ! ごめんね、間違えちゃって。春っぽいイメージだけは覚えてたんだ。教えてくれてありがとう。勉強になったよ。そっか。もうすぐ君の季節が来るんだね」
その明るい声と仕草から、彼の物腰の柔らかさが伝わった。同時に、とても魅力的な人かもしれない、と思った。また、彼はきっと繊細な心の持ち主で、人を傷つけることなど絶対にできないだろうと、第六感で理解した。
「そういえば自己紹介がまだだったね。先に僕から伝えるべきだったのに。ごめんね」
男性はアスラとナーサと目を合わせ、まっすぐな瞳で名乗った。
「僕はジン。この世界を、戦争のない幸せな世界にするため、ここにいる」
アスラは自室でひとり、静かに座りながら遠い昔の記憶に思いを巡らせていた。部屋は薄暗く、窓から差し込むわずかな朝日だけが、彼女の青白い顔をぼんやりと照らしている。
「あれからもう十年……」
ナーサもジンも、そして自分自身も、あのときから何もかも変わってしまった。あの日々に戻ることはもうできない。彼女はその変化を受け入れつつも、どこかに消えた温かさに手を伸ばそうとしていた。だからこそ、この世界にある幸せな日常に憧れを抱いてしまっていたのかもしれない。
しかし、アスラが生きる世界は、この世界ではない。
長い支配の歴史から解放されるために人類が戦い、あと一歩で念願が叶うところまで来た世界だ。
「その命運のひとかけらを、私は握っている。私の道は、最初からこれしかない」
決意が青い瞳の奥に宿り、彼女は静かに立ち上がる。
「私は負けない。彼女たちにも、自分の弱さにも」
机の上に置かれていた、深い空色の宝石が備わった黒い棒を握る。まだ一度も実践で使用されたことのないそれは、無機質ながら強い意志を持って自分に何かを問いかけているような気がした。
「……いってきます」
彼女はその槍の柄をしっかりと握りしめ、決意を胸に強く抱きながら、心を戦場へ向ける。自分の中にある葛藤を押し殺し、冷たい風が吹き込む外へと、アスラは静かに歩み出していった。




