第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」-4-
ナーサはオフィス街の駅前にいた。傘を差して壁に背中を向け、行き交う人々を観察している。
黒感情を抱える者は五万といた。制服で自転車を漕ぐ高校生もスーツを着た社会人も、どちらでもなさそうな老人も、それぞれ何かを抱えている。やろうと思えばいつでもスレイヴを生み出すことができる状態だった。
「暑い」
彼女が身につける黒い長袖のブラウスと革製のコンバットブーツは、アスラのファッションよりも日本の夏に向いていない。スカートだけが唯一の救いだった。袖をまくろうかとも思ったが、片手に傘を持った状態ではうまくできる気がしない。
「一旦駅構内に避難しようか」
そう思い立ったとき、腰に巻いたポーチが震えた。スマートフォンを取り出し、その画面に表示された名前を一瞥して耳に当てる。
「どうした」
〈リアハイリンのデシリル・ジェムとデシリル・アンプを盗むことができました〉
通話の向こうからは、淡々とした報告の声が聞こえた。
一時は、アスラは仕事をしているふりをしているだけで、本気で任務を遂行する気がないのではと思っていたが、邪推だったらしい。ナーサは安堵の一息をつき、鋭い歯を冷たく輝かせた。
「よくやった。あとはこっちでやるから、帰って晩餐の準備でもしてな」
〈はい。あとはよろしくお願いいたします。お姉さま〉
ナーサは電話を切り、腰のポーチにスマートフォンをしまう。
すると、湿り気を帯びた空気に紛れ、アルコールの香りが漂ってきた。
「お嬢ちゃんかわいいね。どこから来たの? アメリカ?」
「あ?」
声をかけてきたのは、赤ら顔にだらしない笑みを浮かべた小太りの中年男だった。しわの目立つ小汚いワイシャツを着ている。サラリーマンのようだ。
酒臭い息がふわっと広がり、鼻をつく。しかし彼女は不快感で顔を歪めることもせず、ただ冷たい目で男を一瞥しただけだった。その目には、冷酷で、どこか底知れぬ冷ややかさが宿っていた。
「さっきの話ちょっと聞こえたけど、日本語上手だね〜。おじさん感心しちゃった。あ! その顔は『夕方からなに酔っ払ってんだこのおっさんは』って顔だね! そういう冷たい目も素敵だよ。おじさんね、夜勤明けなんだ。ちょっと残業かさんじゃってね、お酒飲みながら仕事してたんだよね。がっはっは」
酔っ払いの存在など、道端のゴミと同じくらいの価値しかなかった。無視してそのまま立ち去ろうとするが、男は「待って!」と大声を上げた。
「今、気分いいから金払いはいいよ、おじさん」
男は右手に一万円札を四枚掴み、ひらひらと揺らしている。
そちらに目を移した後、ナーサは再び男の顔を見上げる。
下心が丸出しの歪んだ顔。
「——!」
それを見た途端、彼女の脳にとある記憶がフラッシュバックした。
衣一枚も身につけず、身体を震わせる自分。
下半身に何も纏わず鞭を振るう小太りの男。
自らの血と、アルコール、男の体液のにおい。
目を無理やり指で開かされて見せつけられる、下心と支配欲が滲んだ汚い顔——。
——鈍い痛みが右手に走る。
二本の傘が宙を舞い、男は水たまりに倒れ、水飛沫が弾ける。
ナーサは男に馬乗りになり、再び右手を振るって男の左頬を殴った。
間髪入れず左手も振り下ろし、さらに右手で鼻を殴る。骨が折れる感触が拳に走った。アルコールのにおいが、血の鉄臭いにおいで上書かれる。
ナーサは膝を上げ、男に跨ったまま立ち上がった。
「ひ、ひぃ」
男は倒れたまま震えた肘と踵で後ずさる。彼の瞳には、鈍い光を放つ女の瞳が写っていた。自らに向けられているのが明確な殺意だと男は肌で理解し、全身の震えが止められないでいる。
ナーサがコンバットブーツで鳩尾を強く踏みつけると、短い叫びとともに男の動きが止まった。
彼女はポーチから黒くて細い懐中電灯のようなものを取り出した。すでに緑色の宝石が嵌められたそれは、暗い緑色に光を帯びながら伸び、二メートルほどの黒い槍となった。
柄を逆手で強く握り、振り上げる。その切先は男の震える右目の瞳孔に向けられている。
「許さない……」
無意識に呟いていた。
そして、ナーサは振り上げた右腕を振り下ろす。
「なにをしているんだ!」
その声で、ナーサはようやく我に帰った。
顔を上げると、多くの民衆が集まってこちらを見ていた。声のした方向には警察官の制服を着た男がいる。
「やめなさい!」
ナーサは足元を見下ろす。黒槍の切先は男の目まで紙一重のところで止まっており、男の股間からは染みが広がっていた。
「チッ」
黒槍をしまい、ポーチに入れ、ナーサは走り出した。
「こら! 待ちなさい!」
ナーサは民衆を押し除けて走る。路地を見つけ、曲がっていく。小さな立ち呑み屋が所狭しと並ぶ飲食店街だった。まだ午後四時ごろだが、高架駅のコンクリートが影になっていて薄暗い。ほとんどの店は開店前だが、焼き鳥屋の提灯がぼんやりと光り、甘辛いタレの香りが充満していた。夕飯時はまだ先であるため人数は多くないが、まっすぐ進めるほどではない。ナーサは酔客たちを機敏に避けながら走り続ける。
「待て!」
周囲の店の暗がりを見つめながら、逃げ道を計算する。ここはテレポート地点の近くであるため、地理は頭の中に入っていた。細い路地は曲がりくねり、古びた建物が左右にせり出している。
ナーサは視線の先に小さな曲がり角を見つけた。そこを曲がれば、逃げ切れる——そう思ったその瞬間、彼女の口元に再び冷たい笑みが浮かんだ。さらにスピードを上げて角に飛び込む。
しかし、
「止まりなさい!」
その声は想像していたよりもずっと近かった。
ナーサの履くコンバットブーツは、走りやすい靴ではない。体力は問題なかったが、脚に痛みが走り始めていた。
「くそっ」
飲食店街を抜け、左手の角を曲がる。高架下の薄暗いトンネルだった。道路にはまばらに車が走っている。
「止まりなさい!」
交番巡査の声がトンネルに響いた。
ナーサは立ち止まり、振り返る。
リボルバーの拳銃が向けられていた。ナーサは軍人と暮らしているため、銃は見慣れている。カスパールたちの銃の練習風景と比べ、交番巡査の構えはぎこちない。肩に力が入りすぎており、腰が引けている。実践経験がないのは一目瞭然だった。彼の指一本で自分の命が失われる——その恐怖はまるでない。
「先ほどの武器はなんだ。それを足元に置いて手を挙げなさい」
ナーサは黙ってポーチに手を入れる。しかし、そこから取り出したのは黒槍の柄ではなく、水晶だった。
「なんだそれは」
「さあね。自分で考えてみれば? ま、考える暇もないか。せっかくだから利用させてもらうよ」
ナーサの目には、警官の男から滲み出る強い黒感情が見えていた。
「綺麗だろ? 黒感情が強いほど、美しく見えるんだってさ」
ナーサは水晶を警官に向けて掲げる。彼の視線は水晶に釘付けになっていた。
「『水晶よ。黒を喰え』」




