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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」

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第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」-3-

『偶然近くに来たのでお話ししませんか? 折り入ってご相談があります。他の方には知らせず、ふたりだけでお会いしたいです』

 アスラからのメッセージに気づいたのは、六時間目の体育の授業が終わり、着替え終わった後だった。

『オッケー。私でよければ相談乗るよ』

 返信すると、すぐに既読がついた。『ありがとうございます。こちらでお待ちしております』というメッセージが送られ、ほどなくして学校の西にある喫茶店の地図が添付された。徒歩三分ほどで着く場所だが、瑞季はそこに行ったことがなかった。

 終わりの会が終わると、瑞季は沙耶と優菜、星輝に「ごめん、急用があるから先に帰るね」と言って、ひとりで学校を飛び出した。

 学校の正門を出て、曇り空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込めている。蒸し暑いが、肌寒い風が一陣、頬を撫でた。

 通りを歩きながら、瑞季はアスラの相談事の内容を想像してみた。しかし、普段から物静かで控えめなアスラのことだ。何を相談したいのか、まったく見当がつかない。

「もしかしておすすめのアニメのこととか? って、それならわざわざ、ふたりきりで会いたいなんて言わないよね」

 そうやって冗談めかしてひとりごとを言った後、瑞季はとある可能性を思いつき、寂しげな顔を見せた。

「まさか、ね」

 三分ほど歩くと、喫茶店の看板が見えてきた。

 深呼吸をして、ドアに手をかける。

 どんな相談でも、できる限り力になりたい——そう心に誓いながら、店内へと足を踏み入れた。

 アスラはすでに席に座っていた。彼女の金色の髪と美しい姿勢はよく目立ち、すぐに見つけられた。アスラも瑞季に気づいたため、瑞季は軽く手を振りながら近づいていく。アスラは控えめに手を振りかえしてくれたが、どこか笑顔がぎこちなく、緊張した様子に見えた。

「こんにちは、アスラちゃん」

「こんにちは、瑞季さん」

 テーブルにはすでにお冷のコップがふたつと、フルーツジュースのコップがふたつ並んでいた。

「外はお暑いので、すぐに飲みたいかと思いまして、先に瑞季さんの分も頼んじゃいました。今しがた持ってきていただいたので、まだ冷たいですよ」

「そうなんだ、ありがとう」

「こちらは私の奢りです。今日の相談代だと思っていただければと」

「え! そんな、別にいいって。前に映画館行った時も払ってくれたんだし、今日は私が」

「お気になさらず。ご相談に乗っていただくのですから」

 瑞季は少し困ったが、アスラの真剣な様子に押され、結局受け入れることにした。

「そっか。ありがとう」

 ジュースに手を伸ばし、一口飲んでみる。冷たくて甘い味が、緊張気味だった心を少しほぐしてくれた。

「私が飲みたかったものを頼んでみたのですが、お口にあいますか?」

「うん! めちゃくちゃおいしい! 次は優菜や星輝も誘ってまた来たいなあ」

「はい、そうですね。ぜひ」

 おいしくて、再びストローを咥えた。今度は大きく吸い込み、喉や食道を甘さで潤した。

「それで、アスラちゃん。相談って?」

 アスラもジュースのストローを咥え、一口飲んだ。一呼吸つき、彼女はいつもよりゆっくりとした口調で話し始める。

「瑞季さんは、自分をこれまで育ててくれた大切な家族の期待を、裏切ることはできますか?」

「どういうこと?」

 アスラは瑞季と目を合わせず、俯いて自身の手元に視線を落としたまま話し続ける。

「家族が私に期待して送り出してくれて、私もそれに全力で応えたいと思って、頑張って。でも、本当は頑張りたくないと心のどこかで気づいていて。やっぱり家族の方針に従いたくないと思ってしまって——」

 話を聞きながら、瑞季は耳にする言葉の理解が鈍くなリ始めたのを感じた。

 視界がぼやけ始め、頭が重くなる。

 あれ……?

「私は……できるわけ……本当は……のに。瑞季さん……思いますか?」

 瑞季は必死に目を開けようとするが、まぶたが重く、うまく開かない。ついにはアスラの言葉がほとんど聞きとれなくなってしまった。

「アスラちゃん……」

 言葉を紡ぐのも困難になってきた。アスラの姿がかすんでいく。

「ごめんなさい、瑞季さん」

 アスラの声が遠くから聞こえてくる。瑞季は何かおかしいと感じつつも、もはや抵抗する力は残っていなかった。

 瑞季は完全に意識を失い、テーブルに突っ伏した。


 アスラは会計を済ませ、ひとりで外に出た。

 日本の蒸し暑い夏に慣れることができる気はしない。

 でも、問題はない。

 今日がこの空気を浴びる最後の日なのだから。

 アスラは駅の方向へ歩き出す。アジトへ戻るテレポート地点の方向だ。このあたりは坂の上にあり、駅は坂の下にある。十五分ほど下り坂を降りれば駅まで辿り着くことができる。

「……これでよかったの、かな」

 電話をしないといけないが、あたりには中学生や小学生がたくさんおり、報告内容を口に出すのがはばかられた。それに、あの薬は効果時間が短い。もし瑞季がすぐに起きてしまったら厄介だ。

 アスラは早足で坂を降りていく。途中で大通りから道を外れ、住宅街へ入る。この街を散策していて気がついたショートカットがあるのだ

 人通りが減り、近辺には誰もいなくなっていた。バッグに手を伸ばし、電話をかけようとしたとき、突如雨が降ってきた。最初は小雨かと思ったが、十秒もしないうちに大降りになってしまった。

「困りました」

 この日の天気予報では雨が降る予定がなかったため、折り畳み傘の携帯すら怠っていた。

 すぐ近くにはコンビニなどなく、すぐに傘を買うことができない。バッグで頭を庇おうかとも考えたが、今は雨に濡れたい気分かもしれない、と思ってそのままテレポート地点まで歩くことにした。自身の体力を消費してテレポートすることも可能だが、使うとどっと疲れてしまう上、一般人に見られるリスクがあるため使用したくなかった。

 前髪から雨が滴る。もう全身がびしょびしょだった。

 瑞季のフルーツジュースに混入したのは、彼女たちの故郷で流通している睡眠薬だ。即効性があり、服用するとすぐに眠たくなるのが特徴。しかし、効果は弱く、元々眠気がなければせいぜい三分程度で目を覚ましてしまう。多量摂取しない限り身体への悪影響はほとんどなく、昼休みに仮眠したいサラリーマンがすぐに寝付けるようにするような用途でよく使われる。効果が弱いため重大な犯罪用途では使い勝手が悪いが、まさにアスラがしようとしている窃盗用途では悪用されることがある。とはいえ、相手が緊張しているとあまり効かないことが多いため、やはり悪用するには実用的ではない。

 体育の授業終わり。気心の知れた友達との待ち合わせ。警戒心を解かせる条件は、揃いすぎていた。

 アスラは呟く。

「友達ごっこで人を騙す女には、この汚い姿がお似合いです」

 願わくば、この雨でもやもやした心が流されますように――。

 すると、突然雨が頭に当たらなくなった。

「え」

 見上げると、青い傘が頭上を覆っていた。

 振り返ると、目と鼻の先に優菜の顔があった。

 アスラは猫のようにびくりと飛び跳ねる。

「優菜さん……どうして」

「ごめん。つけてきたの。最初はあなたじゃなくて、瑞季を」

「……」

 優菜にはすでに翻訳チョーカーを見られている。あれだけでアスラの正体に確信をつくことはできないだろうが、他の細かい点にも彼女が気づいているのであれば、仮説を立てるには充分だろう。

「瑞季が突然ひとりで帰るって言ってさ。ちょっと嫌な予感がして後をつけてみたら喫茶店に入っていって。しばらくしたらアスラちゃんが出てきたから、つけてきちゃった。声をかけずにアスラちゃんがどこまで行くか確かめてみたかったんだけど、雨にあたりっぱなしのアスラちゃんを放っておけなくて」

 彼女の声色は至っていつも通りだった。

「そうですか」

 アスラもいつものように頷く。

「瑞季はどうしたの」

 その声色は、初めて聞いた暗い色だった。

 アスラは表情を崩さない。

「とてもお疲れのご様子でしたので、居眠りしてしまいました。お代は私が払いましたのでご心配なく」

「そういう問題じゃない。瑞季に何をしたの?」

 優菜はさらにアスラへ距離を詰める。鼻先が当たってしまいそうなほどだった。

「けっして危害を加えてなどいません」

「アスラちゃん。前に本屋さんで会ったときも思ったんだけど、学校はどうしたの? おうちもこのあたりじゃないんだよね? 学校も遠いところって言ってたよね?」

「学校には通っていません。通えないのです」

 アスラは大きく一歩退いた。傘から滴る水が後ろ髪にかかる。

 優菜は眉間に皺を寄せ、アスラを睨む。スレイヴに対峙するときの目。それを今、自分に向けられている。

 アスラは彼女の瞳を見ながら、いつものように微笑んで立っていた。が、次第に表情を保っているのが辛くなり、眉を曲げて目を逸らしてしまう。

 その寂しげな顔を見て、優菜の表情から怒りの色が消えた。

 彼女は深く一息つく。

「アスラちゃんにはアスラちゃんの事情があるのは分かった。わたしは、アスラちゃんの立場はともかく、アスラちゃん自身を信じたいから、あまり深く聞かないよ。でも、相談してほしいって言ったよね?」

 優菜の言葉の語尾が強い悲しみの感情で揺れたのを、アスラは翻訳機をつけていない右耳で感じ取った。

「……どうして」

 一度、言葉が途切れる。

「どうして相談してくれなかったの?」

 優菜は涙を流していた。

「わたしたちじゃ力足らずだった? それとも、アスラちゃんは、なにも悩んでなかったの? なにか悩んでるんじゃないかな、って思ったわたしの思いあがり……? 仲良くなれたと思っていたのはわたしたちだけだったの? 一緒に映画を見たことも、かるたをしたことも、晃くんや幹斗くんを励ましてくれたことも、運動会で頑張ってくれたことも、全部わたしたちを騙すための嘘だったの?」

「……そんなこと、言わないでください」

 ぶつけられる言葉に耐えきれず、アスラは優菜に背中を向けた。このまま傘から出ようとしたとき、

「ひとつだけ教えて。その補聴器、ずっとつけてたの?」

 アスラは思わず自身の耳を触る。髪が濡れたことにより、髪で耳を隠しきれなくなっていたことに初めて気がついた。

「こないだの運動会のときも、ちらっと見えてた」

 運動会では髪が乱れることなんて気にせず、精一杯走っていた。考える前に走っていた。どうやらそれが仇になったらしい。

 もはやごまかすことに意味はないと、アスラは結論づけた。

「はい。おうちにいるとき以外はずっとつけています。チョーカーもそうです。祖国を離れた私たちの生活必需品ですので」

 アスラは一歩進み、傘の外に出た。雨に打たれながら振り返り、美しい所作で頭を下げる。

「今まで、本当にありがとうございました」

 アスラは再び優菜に背を向け、歩きだす。

 優菜がついてきている気配はなかった。

 角を曲がり、商店の軒下に入ると、アスラはスマートフォンをバッグから取り出して電話をかけた。こちらが挨拶をするより先に「どうした」と姉の声が聞こえた。

「リアハイリンのデシリル・ジェムとデシリル・アンプを盗むことができました」


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