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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」

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第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」-2-

 六月中旬にしては雨が少ない。

 生徒会室から黒い雲を眺めながら、染谷瑞季そめやみずきはそんなことを思っていた。

「ジメジメするね」

「それな」

 高梁星輝たかはしてんしが冷蔵庫からいつもの野菜ジュースを取り出しながら「雨降ってなくてもこれなんだから、降ったらちゃんと息できる自信ないな」と冗談めかして応える。

「アスラちゃん大丈夫かな」

「こないだも暑そうだったもんなあ。あんまり肌出したくなさそうだったからなおさらきつそうだし」

 先日の運動会で、アスラはジャージのチャックを一番上まで上げていた。アスラは表情からあまり心情が読めないところがあるが、暑がっているのは瑞季や星輝によく伝わっていた。

「おしゃれは我慢だもんなー。な、優菜」

 星輝は月音優菜つきねゆうなの隣に腰掛け、彼女に目を向ける。優菜は声をかけられたことに気づいた様子もなく、黙って虚空を見つめていた。

「優菜?」

「……え? あ、ごめん」

 ようやく優菜は我に帰り、「ちょっと考えごとしちゃってた。なに?」とはにかんだ。

「日本の夏にアスラが耐えられるかなーって」

「そうだね。慣れてるわたしたちでも大変だからね」

 優菜の回答はどこか上の空だった。

 瑞季には、彼女の笑みが作り笑いに見えた。

「優菜、どうしたの?」

「……」

 優菜は目線をテーブルに下げた。

「そのアスラちゃんなんだけど……ううん、なんでもない」

 優菜の様子を見て、瑞季と星輝は顔を見合わせた。何か言いかけては止める優菜の態度に、ふたりとも不安を感じ始めていた。

「ほんとにどうしたんだ? 具合悪いのか?」

「そんなことないよ。でも、暑さにやられて変なこと考えすぎちゃってるかもしれない。ごめん、いったん忘れて。さ、お昼食べましょ」

 優菜はお弁当箱を開き、お箸でほうれん草を掴み、上品な所作で口に入れた。瑞季はお弁当の白米にふりかけをかけ、星輝は眉を曲げながら、いつもの野菜ジュースのストローを咥えている。

 ふりかけご飯を口に入れ、咀嚼して飲みこむ。

 数秒沈黙が訪れた後、野菜ジュースのストローから口を離した星輝が言った。

「梅雨明けたら海行きてえな。アスラも誘ってみんなで行かね?」

「いいね、海」

 優菜が答える。

「瑞季はどう?」

「え……そんな陽キャの巣窟みたいなとこ行くの? 私、溶けるよ?」

「溶けないよ」

「あ、でも……みんなの水着は……ぐふふ」

「なに想像してるの」

 ごほんごほん、と瑞季は顔を赤くしながらわざとらしく咳をする。

「ぼくもそのアスラって子に会ってみたいニャ」

 スカートのポケットから声が聞こえた。コンパクトミラーを取り出し、テーブルに置くと、ポンと音を立ててヒナが現れた。

「そっか。アスラちゃんがお家に来たときは、押入れに閉じ込められてたもんね」

「声しか聞いたことがないんだニャ」

「でも、ヒナが現れたら、アスラちゃん驚いて腰抜かしちゃうよ」

 そう言うとヒナは悲しそうな顔を見せ、「ぼくもどこかの青い猫みたいに空を自由に飛びたいニャ」と呟き、宙に浮いた。ぷかぷかと移動し、ヒナは優菜の膝の上に乗る。

「うむ。優菜のお膝の上は綺麗でいい匂いニャ。どこかの誰かとは大違いだニャ」

「私が臭いって言いたいの?」

「そ、そんなことないニャ。バッグはともかくポッケはそんなに臭くないニャ。六時間目の体育の授業の後は……ちょっとあれだけどニャ」

「顔面に消臭スプレーの原液ぶっかけてやろうか?」

 家帰ったら制服やバッグに消臭スプレーかけまくろう、と誓う。

「瑞季の膝も悪くないけど、たまの優菜のお膝はご褒美みたいで気持ちいいニャ」

「きもっ」

「気持ち悪くないニャ! ぼくはラブリーでキュートな王子様ニャ!」

 そんな瑞季とヒナのやりとりを見て、優菜からは先ほどまでの思い詰めた暗い表情は消えていた。そして、少しだけいたずら心を口元に出した。

「ヒナ、今夜はうち来る?」

「行くニャ! お泊まりするニャ!」

 瑞季はジト目で浮かれたヒナを見つめた後、ぷいっとそっぽを向いた。

「もう……。勝手にすれば?」

 優菜は左手でヒナの背中を撫でる。うにゃ〜、と情けないヒナの声が聞こえた。


 その話題が盗聴されていたことなど、彼女たちは知る由もない。

 学校の北側にある喫茶店の二階から、高精度高指向性のマイクを生徒会室に向け、アスラはその音声をイヤホンで聴いていた。店内は空いており、静かであるためアスラにとって都合が良かった。マイクは筆箱に偽装しており、彼女は日本語の参考書とノートを広げている。アスラの大人っぽいルックスも相まり、店員からは勉強熱心な二十歳前後の留学生に見えていたことだろう。

 先日、瑞季から「水曜日のお昼は生徒会室で三人でお昼を食べてる」と聞いていたが、生徒会室の場所までは分からなかった。電気が点いている教室へ地道にマイクを向けて続け、七個目の教室で瑞季たちの声が聞こえてきた。

 学校の会話を盗聴しようとしたことは以前もあったが、教室には常に大人数がおり、声の判別ができなかったため諦めていた。「生徒会室で三人で」という条件は、まさに棚から牡丹餅ぼたもちだった。

〈優菜のお膝の上は綺麗でいい匂いニャ。どこかの誰かとは大違いだニャ〉

 空の邦の王子の声は聞いたことがなかったが、語尾の「ニャ」だけで、それが空の邦の王子なのだと分かった。

「やっぱり」

 瑞季は常に王子を携帯していた。そのバッグにはおそらくデシリル・ジェムやデシリル・アンプも入っている。下手に盗もうとしても王子に気づかれてしまう。そのため、デシリル・ジェムを盗むなら他のふたりから盗む方が合理的だろう。しかし、もっとも隙があるのは瑞季で、王子さえいなければ彼女から盗むのがもっとも難易度が低い。また、デシリアとしての力がもっとも脅威で、かつ彼女たちの中心的存在である瑞季の力を奪うことができれば、大きく戦力を削ぐことができる。

〈ヒナ、今夜はうち来る?〉

〈行くにゃ! お泊まりするニャ!〉

〈もう……。勝手にすれば?〉

「……!」

 つまり、瑞季のバッグからヒナが消えるということ。

 これほど都合がいい展開になるとは、願ってもいなかった。

 ペンを持つ手が震えている。深く呼吸をして心を落ち着かせようとするが、心臓はバクバクと鳴り続ける。

 アスラは思う。

 自分はきっと、心のどこかで「こんなチャンスが二度と来なければいいのに」と思っていた。自分の立場を忘れ、彼女たちの友達としている時間が続けばいいのに、と。

「でも、私にそんな権利はない」

 自分のわがままな気持ちと、幼い頃からお世話になっている家族代わりの人たちの使命。

 そんなの、天秤にかけるまでもない。

「必ず、今日中に終わらせます」

 終わらせて、このもやもやした気持ちから解放されるんだ——。


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