第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」-1-
世界大戦が始まったのは、ナーサが生後一ヶ月のときだったらしい。
遠い大国の研究者が「世界の資源が五十年後に枯渇する」と発表し、各国が残された資源を奪い合い始めた——と物心がついたときに大人たちから聞かされた。この頃にはすでに父は徴兵された後で、それ以来帰ってきていない。そのため、実の父の顔を思い出すことさえできなかった。
彼女たちの住んでいたルクルートという辺境の北国は、けっして資源が少なくなかった。エネルギーを生み出す希少な鉱物資源が取れるため、それを他国へ売り払うことで首都は都会的な生活をしていた。しかし、その恩恵が届く範囲は狭かった。彼女の住む田舎では電気やガスは通っておらず、灯は火を起こして発生させ、食料は広大な海から賄っていた。
侵略大国ガルデルグの軍によって、首都が戦火に包まれたとナーサの住む村に伝わったのは、ナーサが七歳の頃だった。「いつこの村まで襲われることか」「この辺境の村が恨みを買う理由などないからしばらく大丈夫だろう」「いやいや、対策は明日からでも少しずつしておくべきだ」などと大人たちが話しているのを耳にし、その夜は妹のアスラと「怖いね」とふたりで身を寄せ合って震えていた。
けたたましい鐘の音が夜の静寂を切り裂いたのは、まだ誰もが油断しきっていた、夜更けのことだった。
村中に響き渡る、不吉な警鐘。
それは、悪夢の始まりを告げる音だった。
ナーサとアスラは、病床に伏している母の部屋にいた。いつもは穏やかな母が、そのときばかりは、病の苦痛を忘れさせるほどの緊迫した表情で、ベッドからかろうじて身を起こしていた。そして、震える指で、部屋の隅にある床下収納を指差した。
「ナーサ、アスラ……! 早く、そこに隠れなさい!」
「お母さんは」
「いいから隠れなさい!」
外から伝わる緊張感や悲鳴、優しい母の強い語気に、四歳のアスラは泣き出してしまった。
「……うわぁぁぁん……! こわいよぉ……!」
「だいじょうぶ、こわくないよ。よしよし」
ナーサは、自分の身体の震えを必死に堪えながら、妹をあやすようにその小さな背中をさすった。そして、震える手で、重い床下収納の木の扉を開ける。妹を背中にしっかりとおんぶし、冷たく暗い穴へと続く梯子を、一歩一歩、慎重に降りていった。暖炉で暖められていた部屋の空気から一転、床下はひんやりとした、土と埃の匂いがする、墓場のような空間だった。
ナーサが中から扉を閉めると、辺りは完全な闇に包まれた。その途端、再びアスラが甲高い声を上げて泣きじゃくり始める。
「アスラ。暗いけど、がまんしてね。いまだけだから」
最愛の妹を胸に抱き寄せる。落ち着いているかのように振る舞っていたが、アスラがいなかったら自分も声をあげて泣いていたかもしれない。
ナーサの腕の中で、アスラの嗚咽は次第に小さくなり、やがて鼻をすする音だけが暗闇の中に残った。そのとき、頭上からガタリと物音がして、祖父の声が聞こえた。
「……おい、大丈夫か! ナーサたちは、無事か!?」
「床下収納に隠れてもらってるわ。そうだ、カーペットを動かして収納を隠してくれないかしら」
「わかった」
部屋の中央に敷かれていた、厚手の毛皮の絨毯を、ずるずると引きずる音が聞こえる。扉の隙間から漏れ入っていた頼りない光が完全に遮断され、世界は完全な漆黒の闇へと変わった。息が詰まるような暗闇と静寂。
「お姉ちゃん……」
アスラの、小さな声が震える。
「……どうしたの、アスラ」
「お姉ちゃんも不安なんだね。お姉ちゃんの心臓の音、すごく、ドキドキしてる」
「……うん。バクバクしすぎて弾けてしまいそう」
正直な気持ちを吐露した、そのとき。
すぐ近くで、腹の底に響くような、鈍く重たい破壊音が轟いた。玄関扉が、力ずくで蹴破られた音だ。
全身の血が凍りつく。
奴らが来た。
ナーサたちは息を殺し、床下の冷たく狭い空間で、互いの体をきつく抱きしめ合っていた。外からは、がなり立てるような男たちの怒鳴り声、物が壊れる派手な音、そして、誰かの短い悲鳴が、断続的に聞こえてくる。その恐ろしい物音が、自分たちの隠れているこの部屋へと、近づいてくる。
ナーサは必死に祈った。
お願い、見つからないで...…。
しかし、その祈りは誰にも届かない。
「や、やめろ!」
祖父の叫び声が遠くから響いた瞬間、銃声が轟いた。その後、部屋に重苦しい静寂が流れた。床下で震えるナーサは、祖父の声が二度と聞けなくなったことを悟った。咄嗟に腕の位置を変え、アスラの耳を自分の二の腕で覆う。
部屋の扉が乱暴に開けられる音が響いた。続いて、ふたりの知らない男の声が聞こえる。
「女がいるぞ。まだ売れる年齢だな」
「いや、見ろよあの杖と車椅子。それに、この状況でベッドにいるなんて身体が弱ってる証拠だ。運搬中に粗大ゴミになるのがオチだろう」
低い声で交わされる言葉の端々に、冷酷さと残忍さが滲み出ていた。
床板の上を歩く重い足音が響く。ふたりの男が母のいるベッドへ近づいたのだろう。
沈黙が流れた。
「なんだその目は。お願いです許してください何でもします、って言ってもらえれば、見逃してやることも考えてやるんだけどな。ちょっと気持ちいいことしてもらった後にな」
母の声は聞こえない。ただ、重苦しい沈黙が続く。その静寂は、まるで永遠に続くかのようだった。
沈黙を破ったのは、あまりに簡潔な命令だった。
「やれ」
その一言と銃声が、ナーサの耳に鋭い刃物のように突き刺さった。思わず体を縮こませ、アスラをさらに強く抱きしめた。どさっ、と重たいものがベッドに倒れる音がした。
お母さん……! おじいちゃん……!
「気の強い女を力づくで犯すのも嫌いじゃねえんだけどなあ」
人を殺したとは思えない軽い口調だった。
大好きな祖父と母はもうこの世にいない。そのことを理解したナーサは、そのまま男たちが軽い足取りで去っていくことだけを望んだ。しかし——。
「あの目は、おそらく子供のいる母の目だ」
その一言に、ナーサの呼吸が止まる。
「人妻か。大好物だぜ」
「お前の性癖に興味はない。そんなことより、近くに子供が隠れている可能性がある。探せ」
タンスや押し入れを次々と乱暴に開ける音が聞こえる。ナーサは息を止めた。足音が近づき、止まる。
「いませんね。他の部屋に隠れてるかもう逃げたんじゃないですかね」
「どうやらそのようだ」
男たちが扉へ向かう足音が聞こえる。
ナーサは静かに一縷の安堵を握りしめた。
「……いや、待て」
男のひとりの足音が再び近づいてくる。
そして、すぐ頭上で大きな布が床を擦る音が聞こえた。すなわち、カーペットが移動されたのだ。ナーサたちがいる狭い空間に、かすかな光が差し込んできた。これほど絶望的な光は初めてだった。
抱えているアスラの震えが一段と大きくなった。
だいじょうぶ……だいじょうぶだから……。
お姉ちゃんが必ず守るから……!
「やはりな。どうりで小綺麗な部屋の割に、カーペットの位置が不釣り合いなわけだ」
ナーサの心臓が激しく鼓動した。床下収納の蓋が開く。暖炉のオレンジ色の光が、暗闇に慣れた目に痛い。
「いたいた。しかもふたりも。なかなかのかわい子ちゃんじゃねえか。ヒヒヒ。ほぉら、怖くないよ〜」
大きな手がナーサの腕を掴み、強引に引っ張り上げられる。妹の小さな悲鳴が、すぐ耳元で聞こえた。ナーサは必死に妹を守ろうとするが、力の差は歴然としていた。
「丁重に運べ。ふたりセットで高く売れそうだ。あの幼女趣味の変態大臣あたりに高値で斡旋してやろう」
「兄貴もなかなかのワルですなあ」
「馬鹿言うな。我が国ガルデルグにとって、我々こそ正義だ」
「——お姉さま」
その声でナーサは目を覚ます。顔を上げて右を見ると、すっかり成長したアスラがお盆を持って立っていた。
朝食を食べた後、ロビーのソファに腰をかけたところまでは思い出せた。どうやらその後眠ってしまったらしい。
「あ、すみません。眠ってらっしゃいましたか」
「いや、大昔のことを思い出していただけだ」
アスラはお盆をテーブルに置き、そこに乗せられた白い陶器のカップをナーサの前に置く。紅茶だ。
ナーサは礼も言わず、胸の下で組んでいた手をほどいてカップの取手を持ち、口につけた。ほどよい温かさとふくよかな香り、砂糖を多めに入れた味はナーサの好みの味だった。
「そんなことより任務はどうだ」
「人事は尽くしました。少々の懸念点はありますが、あとは天命を待つだけです」
「その天命とやらは、いつやってくるんだろうな」
カップをテーブルに置き、左脚を上にして脚を組む。
鋭い右目でアスラを見上げた。
「カスパールさんもブラフザールさんも焦る必要はないと言ってるけど、あたしたちがデシリアの力を持って帰ることを心待ちにしている人が何百万人もいる。忘れてないよな?」
「もちろんです」
「待ってるだけじゃチャンスは来ない。無理矢理にでも掻っ攫いに行けばいいんだよ。どうせ今だけの関係だ。ケンカ別れしても問題ないだろ」
「……」
「まさか、情が湧いたりなどしていないだろうな?」
「そんなことは、ありません」
少なからず情が湧いているらしいことは、火を見るよりあきらかだった。
しかし、アスラは自分たちを裏切って寝返るようなことをするような恩知らずではないはず——ナーサは、少なからず妹を信頼していた。
「そうか。信じてるぞ、アスラ」
「はい、お姉さま」




