第十五話「感情は空へ昇っていく」-7-
お昼の保護者競技の直前にやってきた優菜は「わたし、ちょっと家の用事があるから、戻るね。今日はありがと! お疲れさま!」と言って足早に去っていた。
残されたアスラ、星輝、瑞季は最後まで運動会を見届けることになった。
すべての競技が終わり、閉会式も無事に終了すると、熱気に包まれていたグラウンドでは次第に片付けが始まり、日常の風景へと戻り始めていった。保護者たちは子供たちの健闘を労い、生徒たちは達成感と疲労感を滲ませながら、三々五々家路についていた。
「いやー、幹斗、おまえ最後すごかったな! 根性見せたじゃん!」
星輝が、弟の幹斗の頭をわしわしと撫でながら褒める。
「姉ちゃんだって、かっこよかったよ!」
幹斗も照れながらも嬉しそうだ。
「晃も惜しかったな! 転んだけど、最後まで諦めなかったの、偉かったぞ!」
星輝は今度は晃の肩をポンと叩く。
「う、うん! でも、姉ちゃんたち、めっちゃ速かった……! 次は、絶対負けないからな!」
晃は悔しさを滲ませながらも、清々しい表情で言い返す。
勝った側も負けた側も、互いの健闘を称え合い、笑い合っている。勝者と敗者を隔てる壁のようなものは、存在しないように見えた。その光景に、アスラは静かな驚きを感じていた。アスラの故郷では、競争とは常に、勝者と敗者を生み出すものだった。勝者は称賛され、敗者はしばしば嘲笑や侮蔑の対象となる。
「……あの」
アスラは戸惑いを隠せないまま、小声で星輝に尋ねた。
「勝った側の賞金や、負けた側のペナルティのようなものは、特にないのですか……?」
「え? 賞金? ペナルティ?」
星輝はきょとんとした顔でアスラを見た。
「な、何言ってんだよ、アスラ。ただの運動会で、そんなのあるわけないじゃん!」
あっけらかんと笑う星輝に、アスラはさらに戸惑う。
「運動会に限らず、どんな戦いや競争であっても、このように互いを認め合える関係が、理想なのかもしれませんね……」
アスラは、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「でも、現実は、そう簡単に割り切れるものではないのでしょうけれど」
そんなアスラの横顔を見て、「アスラちゃん、もし、」と瑞季が尋ねた。
「もし、どんな競争でも、わだかまりなく、こうやって笑い合えたら。アスラちゃんは、どう思う?」
瑞季が静かに問いかける。その問いの真意は、アスラにはわからなかった。
「……」
アスラは少しの間、言葉を探すように黙り込んだ。そして、ゆっくりと顔を上げ、確かな実感を込めて答えた。
「……とても素敵だと、思います」
憎しみも妬みも屈辱もなく、ただ互いの全力を認め合える世界。
そんな世界が、もし存在するのなら——。
その後、一行は星輝の家へと向かうことになった。「お疲れさん会でもしようぜ!」という星輝の提案に、誰も異論はなかった。
星輝の家に着き、玄関に入る。古い日本家屋特有の、優しい木の香りがした。
「アスラ」
星輝に呼ばれ、彼女は先頭を立つ星輝に近寄った。
「この戸、開けてみな」
「え?」
困惑しつつも、アスラは木製の戸を開ける。
その瞬間、パンッ! とクラッカーの弾ける音が響き渡った。
「「「おつかれさまー!! あーんど、アスラちゃん、ありがとう!!」」」
そこには、星輝の一番下の弟である颯太と、彼らの父親、そして、先に帰ったはずの優菜が、満面の笑みで立っていた。テーブルの上には、色とりどりのお菓子やジュースが並べられ、「祝☆運動会おつかれさま!」と書かれた手作りの横断幕まで飾られている。
「え……これは?」
「ジャジャーン! 題して、『運動会お疲れさま会・アンド・アスラちゃん運動会に急遽参加してくれてありがとう・アンド・ようこそ! 私たちの友達になってくれてありがとうの会』だよ!」
優菜が、嬉しそうにパーティーの名称を告げる。瑞季が「長いな」と短く呟くと、星輝が吹き出した。それにつられ、アスラも笑みをこぼす。
どうやら優菜が先に帰ったのは、このサプライズパーティーの準備のためだったようだ。星輝や瑞季の様子を見る限り、このことを知らなかったのは自分だけらしい。
温かい歓迎の雰囲気に包まれながらも、アスラは素直に喜ぶことができなかった。自分は、ここにいるみんなを欺いている、スパイなのだ。こんなふうに、無条件で受け入れられ祝福される資格などない。
罪悪感が胸の奥をちくりと刺す。
それでも、ここで戸惑った様子を見せるわけにはいかない。
アスラは、ぎこちなくも精一杯の笑顔を作り、喜びを表に出すように努めた。
「あ、ありがとうございます……。こんな……。あの、日本では新しいお友達ができるたびに、このような盛大なパーティーを催すのが、一般的なのでしょうか……?」
努めて平静を装い、尋ねてみる。
「いやいや、普通はしないって!」
星輝が笑って答える。
「でも、アスラには無理なお願い聞いてもらっちゃったし。それに、せっかくこっちに来てくれたんだからさ、楽しい思い出いっぱい作ってってほしいなって思ってさ!」
星輝の屈託のない笑顔が、アスラの心をさらに締め付ける。
「アスラさん!」
晃が、無垢な目でアスラを見上げる。
「今日は、本当にありがとうございました! おれ、アスラさんとペア組めて、すっごく嬉しかったです! あの、もしよかったら、また遊びに来てくれると嬉しいです」
続いて、幹斗が少し照れながらも、はっきりとした声で言った。
「僕も……練習のとき、優しい言葉をかけてくれて……ありがとうございました。嬉しかったです」
彼らの感謝の言葉に、胸が詰まる思いだった。ありがとう、と言われるたびに、自分の嘘が重くのしかかってくる。
「……私も、みなさんと遊べて幸せでした。また機会があれば、一緒に遊びましょう」
パーティーが始まり、しばらくお菓子やジュースを楽しんだ後、星輝の父親が「そろそろ夕飯にするか!」と声をかけた。出てきたのは、ほかほかの湯気が立つ、握りたてのおむすび。香ばしいソースの匂いが食欲をそそる焼きそば。ほんのり甘い卵焼き。そして、薬味がたっぷり乗った鰹のたたきと、すっぱい梅干し。どれも、日本の家庭料理の温かさが感じられる、心のこもった料理だった。
賑やかな夕食の時間。温かい会話と笑い声。だが、その温かさが、アスラの心にある罪悪感を、より一層色濃くしていく。
それは、アスラが今まで経験したことのない、賑やかで幸せな時間だった。しかし、もう少し穏やかだけれど、この幸せな時間は記憶にあった。
あれから、九年——。
あまりに遠い思い出。あれはただの夢だったのではないか。
アスラの心を、冷たい風が撫でる。
夕食後、すっかり日も落ち、庭には涼しい夜風が吹き始めていた。アスラは、「少し、家族に電話をかけてきます」と断り、ひとりリビングから庭へと続く縁側に腰を下ろした。庭には、小さな家庭菜園があり、夜露に濡れた野菜の葉が、月明かりを受けて静かに光っている。
アスラは、ポケットからスマートフォンを取り出した。しかし、スリープ状態を解除することなく、そのまま、冷たい画面をそっと耳に当てる。そして、誰に聞かせるともなく、夜空に向かって、ぽつりと呟いた。
「どうして、こんなにも……私の心を惑わしてくれるのでしょうか……」
ただ、スパイとして潜入し、任務を遂行するだけのはずだった。
それなのに……。
日に日に、彼女たちの優しさに、温かさに、そして、まっすぐな心に、惹かれていってしまう自分がいる。この心地よい居場所に、ずっといたいと願ってしまっている自分がいる。
それは、許されない感情のはずだ。姉を裏切り、故郷を裏切り、そして何よりも、自分自身を裏切ることになるのだから。
スマートフォンの冷たい感触を確かめるように、ぎゅっと握りしめた。月明かりが照らす彼女の横顔には、言いようのない寂しさが浮かんでいた。
スマートフォンの冷たい画面を耳から下ろし、夜空に浮かぶ月をぼんやりと眺めていると、背後からそっと近づいてくる足音がした。振り返るまでもなく、それが誰なのか、アスラには分かった。
「アスラちゃん」
優しい声と共に、優菜がアスラの隣に、静かに腰を下ろした。庭に咲く夜来香の甘い香りが、夜風に乗ってふわりと漂ってくる。
「……どうだった? 今日一日」
優菜は、隣に座るアスラの横顔を、穏やかな表情で見つめながら尋ねた。
「はい……。その……とても、楽しかったです」
アスラは、少しどもりながらも、正直な気持ちを口にした。——後ろめたい気持ちに蓋をして。
「運動会もパーティーも……。こんなふうに歓迎していただけるなんて……初めてみなさんにお会いしたときには、思ってもみませんでした」
「うんうん。よかった」
優菜は満足そうに頷くと、嬉しそうに笑って付け加えた。
「サプライズに、ぽかんって驚いてるアスラちゃんが、すっごくかわいくて、準備した甲斐があったなって。わたしも大満足だよ」
優菜は持っていた白い無地の団扇を取り出し、アスラに向かって、ぱたぱたと優しく扇ぎ始めた。柔らかな風が、火照ったアスラの額を撫でる。ひんやりとした心地よさに、アスラは自分が思っていた以上に汗ばんでいたことに気づかされた。
「ありがとう、ございます。……とても、涼しいです」
優しさを受け取るたびに、心が少しずつ軽くなるような、それでいて、重くなっていくような。
「ねえ、アスラちゃん」
不意に、優菜の声のトーンが少しだけ真剣なものに変わった。優菜は、団扇を扇ぐ手を止め、じっと、アスラの瞳の奥を覗き込むようにして言った。
「もし……もしもだけどね。アスラちゃんが、何か、ひとりで抱えきれないようなこととか、悩んでることがあったら……。いつでも、わたしたちに気兼ねなく話してね。みんなもわたしも……アスラちゃんの力になりたいって、思ってるから」
優菜の曇りのない瞳が、アスラの心の奥底まで見透かしているようで。アスラは、たまらなくなって、ふいっと優菜から目を逸らしてしまった。視線は自然と、自分の膝の上に置かれた、固く握りしめられた両手へと落ちる。
「今は……今は何も……悩んでいませんから、大丈夫です」
その声が震えているのを、自分でもはっきりと感じていた。ごまかしきれていない。きっと、優菜にも、この動揺は伝わってしまっている。
アスラは逸らしていた視線をゆっくりと優菜へと戻した。そして、いつものように感情を押し殺した、完璧な微笑みを浮かべてみせた。
「でも、ありがとうございます。……もし、本当にそういうときが来たら……そのときは、どうぞよろしくお願いします」
「……うん」
優菜は、アスラのその笑顔の裏にある何かを感じ取ったのかもしれない。一瞬、何かを言いかけたが、結局それ以上は何も聞かずに、静かに頷いた。
「そっか。……じゃあ、そろそろ中に戻ろっか。わたしも、あんまり遅くなると親が心配するから、そろそろ帰らなきゃ」
「はい」
名残惜しさを振り払うように、すっと縁側から立ち上がり、もう一度夜空を見上げた。満月が煌々と庭を照らしている。
——私の故郷では、人の気持ちは空気よりもずっと軽くて、空へと昇っていくものだ、と言われています。だから、下を向いてため息をついても、せっかく吐き出した悪い感情が、また自分に跳ね返ってきてしまうだけなんです。……もし、心の中に捨てたい思いがあるのなら、空に向かって大きな声で叫んで、遠くへ飛ばしてしまうのがいい、とされています。
先日、自分が幹斗に語った言葉を、アスラは心の中で反芻していた。
私は、どちらの気持ちをお空に飛ばすべきなのでしょうか——。
答えは出ない。どちらか一方を選ぶことなど、到底できそうになかった。
アスラは、決めきれない思いを抱えたまま、静かに俯いた。月明かりが落とす自分の影が、足元で頼りなく揺れている。
(第十五話「感情は空へ昇っていく」了)
第十六話「泥に塗れた身体を雨で流して」 2026/5/23 8:00投稿予定




