第六十六話 疑念(side ソウ)
一向が食糧調達を終え、活気づく村へと戻って荷を下ろしている頃。その喧騒から背くように、俺の足取りは村の外縁へと向かっていた。ゲンやラルク、村の連中が手に入れた潤沢な食糧に沸き立ち、まるで祝祭のような空気に包まれているというのに、俺の心はその中心から遠く離れ、冷え切っていた。
村の境界を越え、さらに歩みを進める。視界を遮るように生い茂る森の深部へと、あてもなく足を踏み入れていく。ただ胸中で渦巻く焦燥と、消化しきれない不条理な思いを抱えながら、ひたすらに前へ、前へと歩いた。
ザッ、ザッ——。
湿った黒土を踏みしめる重い足音が、静まり返った木立の間に冷たく響き渡る。あちらこちらの足元には先ほどの雨の名残か水たまりが澱んでおり、森の小さな住人である鳥や小動物たちが喉を潤すために群がっていた。命の営みがそこにある。しかし、今の俺の目にその平穏な光景が映ることはなかった。
ふと、木々がまばらになり、少しだけ視界が開けた空間へと差し掛かる。俺はそこで、ようやく足を止めた。
頭上には、どこまでも高く澄み切った青空が広がっている。頬を撫でる風はどこか新鮮で、心地よいはずの空気を運んでくる。風に揺られた緑の幾何学模様の枝葉が、太陽の光を浴びて複雑な木漏れ日のモザイクを地面に描き出していた。自然の美しさがそこにある。だが、俺の内側にある荒涼とした感情とは、あまりにもかけ離れていた。
「はあ……っ、くそっ……!」
押し殺したような息が漏れる。込み上げるイライラは収まるどころか、時間を追うごとに増していくばかりだった。
「毎日毎日、血の滲むような特訓をしてんのに……それなのに、親父は到底超えられない壁のまま。『形態変化』だって、死に物狂いでようやく使いこなせるようになったっていうのに……!」
怒りの矛先を失った俺は、足元に転がっていた無機質な小石を、全身の力を込めて思い切り蹴り飛ばした。
ゴンッ!
乾いた破壊音が響き、小石はすぐそばの太い木の幹に激突する。衝撃で樹皮が削れ、木の断面が白く割れた。その突然の暴力的な音と気配に驚き、近くの水たまりで水を飲んでいた小動物たちが一斉に跳ね上がり、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと姿を消していく。
静寂が戻る。小動物が逃げ去った方向を一瞥した俺は、再び重く淀んだ思考の海へと沈んでいった。
「それに……俺は知ってんだよ……親父……。あの時、神から聞いたんだ。夢の中で見た記憶……あれは、仕組まれた陰謀ってやつなんだよな……!」
歯を食いしばる音が、ミシミシと耳の奥で響く。
「俺がもっと強くなって……もっと、もっと力をつけたら……! あの時、すぐ近くにいた俺が、もっと早く動けていれば……! もっと早く、母さんを救えていれば……!!」
過去の記憶が、鮮烈な刃となって脳裏を切り裂く。
「……母さんを殺したあいつだけは、絶対に、この手で俺が殺してやるんだっ……!!」
両手を強く、指が手の平に食い込むほどに握り締める。震える拳には、計り知れないほどの後悔と、底知れぬ殺意が込められていた。俺の身体から発せられる怒気は、周囲の大気をピリピリと震わせ、木々の葉を恐怖に怯えるかのように揺らしている。
夢の中で、幾度となくその復讐を果たしてきた。何度も、何度も、あの憎たらしい仇の首を刎ねる光景を脳内で繰り返した。だが、それはあくまで夢の出来事だ。現実の俺は、未だにその本性と相まみえていない。
水色の坊主頭。――ガニメデ。
その名は、俺の呪縛であり、心の最も深い傷口に突き刺さった錆びた釘だった。
蘇るのは、あの日の鮮烈で残酷な記憶だ。
あの時、俺はまだ幼かった。世界の一端も分からず、ただ母の背中に隠れることしかできない小さな子供だった。母はいつも優しく、分からないことだらけの俺にたくさんの温かい言葉を教えてくれた。世界で一番大好きだった人。
対して、親父の姿はどこか遠かった。狩りに出てはたまにしか帰ってこず、家の中を騒がせるだけの、少しうるさい存在というイメージしかなかった。けれど、母は違った。母はいついかなる時も、無償の愛を俺に注ぎ続けてくれた。それだけで、世界は十分に満たされていた。
だが、そんな家族の温かく穏やかな日常は、あまりにも唐突に、そして暴力的に奪い去られた。
――奴らが、やってきたのだ。
突如として村を襲撃したリザードマンの群れ。龍なのか蛇なのか、人間とも獣ともつかない、おぞましい人型の化け物ども。やつらは躊躇うことなく村に火を放ち、一瞬にしてすべてを黒焦げの地獄に変えた。
そして、その群れを率いていた元凶。
水色の巨躯を持つ、圧倒的な威圧感を放つ男。
混乱と恐怖に満ちた喧噪の中、死角から放たれた卑劣な飛び道具が、逃げ惑う母を正確に穿った。音もなく、容赦なく、母の命が刈り取られる。
その瞬間、その場にいた俺は、母の温かい体温ではなく、生々しい返り血を全身に浴びることになった。
頭が真っ白になった。
何もできなかった。どうすればこの絶望的な状況を打破できるのか、思考すら追いつかなかった。
ただ、見開かれたまま動かなくなった瞳孔の母を見つめながら、全身の血が凍りつくような恐怖と、どうしようもない悲しみに支配された。
『どうして、こんなことになってしまうんだ……?』
心の中で、何度もそう叫んだ。
同時に、あまりにも無力な自分自身への絶望が胸を満たし、子供のようにただ泣き叫ぶことしかできなかった。親父にすがり、親父に頼ることしかできない。自分という存在が、いかにちっぽけで、いかに弱い生き物であるかを思い知らされた瞬間だった。
『親父なら、きっとなんとかしてくれる……!』
そう信じるしかなかった。しかし、現実に突きつけられた光景は残酷だった。
あの圧倒的な巨躯の男を前にして、親父でさえも勝てなかった。死闘の末に目の当たりにした親父の顔は、あまりにも辛そうで、痛々しかった。
そして——何よりも恐ろしかったのは、親父の双眸に宿っていたものだ。それは底知れぬ憤怒であり、煮えくり返るような激しい憎悪だった。あの時の親父の目は、化け物よりも恐ろしかった。
だが、どうだ。
それからしばらくの時が経ったというのに、親父はまるで人が変わったかのように、あっさりと前を向いていた。時折見せる表情はどこか和らいでおり、かつての殺気立った面影は薄れ、穏やかな優しささえ滲ませていた。
——そんな優しさなど、今の俺には一片の価値もなかった。
「ふざけんな……そんな優しさなんていらないんだよ……」
呟いた声は、誰に届くこともなく、森の湿った空気の中に空しく溶けていく。
「あいつへの復讐を忘れた親父は、もう俺の知ってる親父なんかじゃない……! 誰が何と言おうと、俺は親父を超える。そして、母さんをあんな風に殺したあの男を、この手で地獄に叩き落としてやる……!」
忘れたことなど、一度たりともなかった。
復讐の二文字を脳裏から追い出したことなど、一瞬たりともなかった。
眠りにつけば、決まって悪夢が俺を襲う。
血を流す母の頭部、そしてそこから流れ出た鮮血が、幼い自身の顔に生温かく降りかかるあの瞬間。その光景を、俺は夢の中で何百回、何千回と見せつけられてきた。脳裏にこびりついたそのトラウマが、俺の少年期を歪め、強さへの狂気的な執着へと変えていた。
「親父だって、あの時あんなに辛い思いをしたはずなのに……なんで、あんなに飄々と生きていられるんだよ……。俺にはそれが不思議で、気味が悪くて仕方ねぇんだ……」
自分の内側で燃え盛る業火の熱さを自覚しながら、俺は歯噛みする。
「俺は、こんなにも……毎日が痛くて、苦しくて、どうしようもなく辛いっていうのに……! 必死になって自分の限界を越えようとして、ようやく形態変化だってまともに使えるようになったってのに……!」
それなのに、現実の壁は厚い。どれだけ足掻いても、すぐ目の前にいる親父という存在の方が常に先を走っており、上を行っている。自分の知らない不可解な技をいくつも隠し持ち、涼しい顔をしている。
「……どうしてだ。どうして、親父はあの男を探しに行かないんだよ……っ!」
怒りと焦燥が混ざり合い、俺の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちそうになるのを、俺は乱暴に手の甲で拭い去った。弱音を吐く自分を呪うように、さらに強く拳を握り締める。
森の風が再び吹き抜け、木々がざわめく。
周囲の平穏とは裏腹に、俺の孤独な復讐心は、行き場を失ったままさらに深く、暗く、その根を広げ続けていた。
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