第六十四話 狂気に染まる
血祭り——憤りはやがてボルテージが限界を超え、狂騒的な祭囃子となって脳内に喝采を響かせる。意識は泥の中に沈み、自分自身であるはずの肉体が、まるで他人の操り人形のように儀式めいて踊り狂っている。紅く塗られた般若の面が視界を占拠し、自らの意思を奈落の底へ突き落としていく。
甲冑の擦れ合う金属音がガシャガシャと耳障りに鳴り響き、赤く映ろう般若の面が、俺の自我を断片化させていく。その朦朧とする意識の果てで、俺は確かに見ていた。ラルクの胸を、鈍く光る刀身が貫く光景を。
遠くで銅鑼が重苦しく鳴り響く。出囃子の調べが再生されては、巻き戻るように逆再生を繰り返す。その不協和音はあまりに気味が悪く、胃の腑を逆流させるような生理的嫌悪を催す。
「これが、本当に俺が求めていたものなのか……?」
分からない。武田信玄という男の言葉を信じ、その神託のような導きに従った俺は、ただの愚か者だったのか。だが、あの時、血に濡れた眼差しで「あれを救え」と呟いた老将の真意が、俺を惑わすための虚言だとも思えない。何かが狂っている。歴史か、運命か、それともこの般若の面そのものか。
銅鑼が再び轟音を立てる。紅の般若は、紛れもなく俺だ。
般若の仮面の隙間から、ドロリとした粘り気のある影のようなものが、ポタリと滴り落ちた。
——その瞬間だった。
仮面の内側から、漆黒のモヤが噴き出し、百足のような悍ましい姿をした何かが仮面を覆い尽くした。それは異物であり、侵略者だった。仮面から現れたその黒い影は、俺の残された意識をさらに貪り食う。怒りと黒い憎悪を無理やり融合させ、思考を液状化させていく。
もう、己の声さえ聞こえてはこなかった……
◇
「なあ、こんな傷で殺せると思ったのか?そんなに俺はやわじゃないぜ!」
ラルクが叫んだ瞬間、その視界に飛び込んできたのは、狂気を煮詰めたような光景だった。目の前のゲンの紅般若の仮面は、すでに元の面影などどこにもなく、おぞましい黒い百足の塊に完全に覆い尽くされていた。
「なっ!!……全く、どうなってやがる!赤くなったり黒くなったりよ!」
急激な変貌に、狩人としての本能が警鐘を鳴らす。先ほどまでとは明らかに次元の違う、煮凝りのような禍々しさ。ラルクは反射的に体勢を整え、刺し傷から触手のような組織を伸ばし、細胞を急速に再生させていく。荒い息を吐き出し、精神の平衡を保とうと全神経を集中させる。
「フッー、すぅ……。なあ、あんたを蝕んでいるものって一体何なんだよ。理解不能だぜ。……まあ、だからといって今更止められるわけもねえ。それに、誰が許すかよ。……そうだろ、ヤン……」
ラルクはふと、自身の右腕ではない、左腕を見つめた。
ラルクとヤンの形態変化は、対をなすことで真価を発揮する特異な術だ。本来であれば、ヤンが左腕に、ラルクが右腕に鋏腕を宿し、二人が呼吸を合わせて初めて「最強」の連携が完成する。
だが、もうそのヤンはいない。
あの惨劇の光景が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。怪物に単身飛び込み、胸を貫かれたヤンの姿。時間が極端に引き延ばされ、記憶の破片が鈍い色を放って反芻される。
そして、ラルクの視界の中で、ゲンの顔を覆う黒いモヤと、ヤンを殺したあの怪物が重なり合った。
あの怪物はケンタウロスの如き悍ましい姿を持ち、胴体からは虫を彷彿とさせる構造から無数の触手を蠢かせていた。単なる空似かもしれない。だが、外骨格の異質な光沢、その質感が、あまりにも酷似していた。ラルクの動悸が耳元で鐘のように激しく脈打つ。
「う、嘘だろ…………なんで………………。違うよな……あいつじゃないよな……。あんたなのか……?」
疑念は瞬く間に確信へと変貌する。ラルクの思考回路が、音を立てて崩壊していく。
「……そうかよ、あんただったのか。だったら、ここで殺すしかないな……。そうだろ?同族殺しなんて笑えない冗談を、今ここであんたが提示してんだぜ?ふざけやがってよぉ……どれだけ、人を馬鹿にすれば気が済むんだよ……なぁ、ヤンよ」
ラルクの中で、狂気が臨界点に達した。彼は左腕を握り締め、そこにはすでに亡き友の魂が宿っていると信じ込み始めたのだ。現実と幻影の境界が霧消する。
「行くぞ、ヤン!!形態変化だ——『宿れ土蟹』!」
ラルクは左手に叫ぶ。本来であれば右腕に向けられるはずの命を、あえて狂気に満ちた左腕へと注ぎ込んだ。すると、呼応するように左腕の細胞が異常変異を起こし、右腕と全く同じ漆黒の鋏腕へと姿を変えた。さらに、背中の筋肉に空気貝をボコボコと生やし腕に装着しジェット噴射による推進力を得る。今までとは違う、やり方でラルクは戦闘スタイルを変えていく。
両腕に備わった鋏腕。二倍となった攻撃速度。ラルクの挙動は、もはや理性を逸脱し、物理法則さえ置き去りにするほどの凄まじい衝撃力を持ってゲンへ殺到した。
しかし、百足に飲み込まれたゲンは、人間離れした直感ですべての攻撃を紙一重でいなしていく。仮面にへばりついた百足がギチギチと硬質な音を立て、不気味に威嚇する。
「ヤン……ゲンさんが、また俺達のこと笑ってやがるぞ?訓練だってさあ、ほどほどにしといてくれよな……。なあ、俺らも本気だそうぜ?」
ラルクの全身が限界を超えて強張る。それは、狂気という名の深淵へ完全に足を踏み入れた瞬間のことだった。親友の死を受け入れられず、その残滓を己の肉体に取り込むことで完遂させようとした禁忌の変身。
ラルクの肉体は異様に膨張し、皮膚は鋼よりも硬く質変していく。尾てい骨からは鋭利な針を持つ尻尾が生え、両腕の鋏はさらに分厚く、巨大化していった。
その姿は、まさしく漆黒の巨大スコーピオン。
「……ギチギチ……」
ゲンの顔を覆う百足が、不気味に震えながら空を蹴り、ラルクへと飛びかかる。
ラルクはその両の鋏で百足を受け止め、即座に尻尾を突き出した。ゲンは間一髪で『怒怒鑼』を構築し防御するが、その衝撃は凄まじく、ゲンはそのまま後方へと吹き飛ばされた。
ここまで、お読み下さりありがとうございます。評価して下さるととても嬉しいです!
【面白い!】★四つか五つ
【まあまあじゃね】★三つ
【いまいち】★一つか二つ




