第六十三話 怒りに任せて
ラルクはギラついた猛獣のような瞳で、じっと俺を睨み据えていた。
その視線は鋭利な刃物そのものであり、向けられるだけで皮膚がチリチリと焼けるような錯覚さえ覚える。かつて俺を「ゲンさん」と呼んで慕ってくれた少年の面影は、そこにはもう、微塵も残っていなかった。
彼の左腕は、すでに肉体の一部として完全に同化し、禍々しい変貌を遂げた鋏腕と化している。鈍い黒光沢を放つその腕が、迷いなく真っ直ぐに俺の胸元へと向けられていた。
「おい、やめろラルク! 落ち着けっす!!」
背後から、鼓膜を破らんばかりのサブの怒号が何度も響き渡る。
しかし、今のラルクの耳には、いかなる制止の声も届いてはいなかった。彼の世界のすべては俺という存在だけで埋め尽くされ、その瞳の奥には、俺への純粋で濃密な憎悪だけがメラメラと不気味に灯っている。
完全に理性を焼き切った、命がけの殺意。それが大気をビリビリと震わせていた。
——ザッ!
短い、しかし爆発的な踏み込みの音が爆ぜる。
ラルクの身体が、バネのようにしなやかに、そして凄まじい速度で跳ねた。
俺は、ただ迫り来るその必殺の閃撃を、信じられないほどのスローモーションの中で見つめていることしかできなかった。
あまりの速さに、ラルクの突き出す腕の軌道は黒い一本の線となって、眼前の空間を強引に引き裂きながら近づいてくる。
あの日、あの時、まだ幼く無力だった子供の眼差しが、今は明確な殺意の色に染まり、俺の命を刈り取るために肉薄してくる。
脳は「動け」と命令を出しているはずなのに、金縛りにでも遭ったかのように全身の筋肉が硬直して動かない。
だが、これほどの剥き出しの殺意を真っ向から向けられた以上――俺もまた、かつての情を捨て去り、本気で応える他に道は残されていなかった。
『握れ……』
その時、脳髄を直接掴んで揺さぶるような、低く重々しい地鳴りのような声が聞こえてきた。
途端に、世界からすべての音が完全に消失する。ラルクの突撃も、引き裂かれる空間の黒い線も、背景の景色も、すべてが灰色に染まってピタリと動きを止めた。
時が完全に凍りついた、精神の世界。その底知れぬ深淵から、何者かが俺に声をかけていたのだ。
(なんだ……!? 誰の声だ……! いつもの少女の声じゃない。おい、誰だ、お前は……!)
俺は、声も出せない精神の暗闇の中で、必死に周囲を見回そうとあがく。すると、濃い霧の向こうから、その主が厳かに言葉を紡ぎ出した。
『お主に宿りし残滓……。儂は……もはや儂が誰であるかも分からぬ。遠い記憶の彼方に、己の名すら置いてきてしまった……。だが、これだけははっきりと分かる。お主に刃を向ける者……あの哀しき目を、救ってみせよ……』
低く、しかし確固たる威厳を持って語りかける口調。
薄暗い闇の向こうから、ぼんやりと、だが圧倒的な存在感を放ちながら見えてきたのは、血のような真紅の甲冑だった。
その顔には、禍々しい赤鬼の面が着けられている。一見すれば、おどろおどろしい見た目をした地獄の怪物のようであったが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、その奥底からは、すべてを包み込むような深い優しさと慈愛、そしてどこか懐かしい温もりが静かに伝わってくる。
(あんたは――武田、信玄……。そうか、あんただったんだな。俺の体の中に眠り、ずっと俺の戦いを見て、何度も危機から助けてくれていたのは。……はは、そうかよ。なら、期待に応えるしかないな。そうだろ、あのラルクの目を、あいつの絶望を救うには、もうこれしかないんだ――!)
覚悟を決めた俺は、凍りついていた四肢の隅々にまで一気に力を込め、精神世界の殻をぶち破るように肺腑の底から絶叫をあげた。
「我が源、我が身に宿らせ――“祖魄創臨”!!」
その言葉を引き金に、止まっていた現実の時間が爆発的に動き出す。
それと同時に、俺の肉体が、根源的なレベルから凄まじい勢いで再構築されていく。
皮膚の下を駆け巡る血潮が沸騰し、骨が、筋肉が、爆発的な力を生み出す形へと作り変えられていく。俺の全身を覆っていくのは、血のように昏く、夜の闇よりも深い真紅の甲冑。
迫り来るラルクの鋏腕を迎撃するため、俺は無意識のうちに、己の内に眠る武器のイメージを構成させようとした。
しかし――何かが決定的に足りない。
まるで、脳の最も重要な片隅がごっそりと欠落してしまったかのような、強烈な違和感。記憶の引き出しが、どうしても開かない。
確かに、俺の手にはかつて使い慣れた太刀『来国長』を創り出してはいた。だが、この引き裂かれるような戦況を前にして、この細い刃だけでは、何かが致命的に足りないのだ。
『お主……かつてその手で創生した、あの大刀はどうしたのだ? 忘れたか? 名を呼ぶのだ……。お主がかつて、底知れぬ怒りの果てに紡ぎ出した、あの忌まわしくも強力な業刀を、今一度思い出せ……!』
(大刀……、大剣……? そうだ、俺は確かに使っていた。むしろ、今までも使っていた筈だそれすらも……まあいい、あの一切の希望が途絶えた悪夢の夜も、俺はそれをなりふり構わず振り回していたはずだ。ただ目の前のすべてを叩き潰すために、ただ血を求めて。あの時の相手は……確か、人、だったか?)
その思考が引き金となり、俺の脳内に、封印されていた記憶の断片が凄まじい濁流となって流れ込んできた。
途端に、俺の視界が、べっとりとした生々しい鮮血の色に染まっていく。
地獄の炎に包まれながら、泣き叫び、逃げ惑う罪なき人々の群れ。
人ならざる悍ましい、圧倒的な破壊の力によって、積み上げてきた日常のすべてが容赦なく打ち砕かれた、あの日。
脳裏を覆っていた忌まわしい記憶の霧が、激しい怒りとともに急速に晴れていく。
(あいつが……、ああ……、あああ、あいつだ、あいつが全部……!! 大勢の仲間を、大切な民を、俺の目の前で、虫ケラみたいに殺したんだあああああ!!!!)
村をようやく再建し、すべてが軌道に乗っていたと思っていた。これから誰もが幸せになれる、そう信じていた。
しかし、あの日に現れた元凶の影が、脳裏のスクリーンにチカチカと不快に、鮮明に蘇る。希望に満ち溢れていた俺の心は、奴の手によって木っ端微塵に踏み躙られ、その凄惨すぎる光景のせいで、俺はまともな感情すらも奪い去られたのだ。
いつの間にか、天から差し込んできたはずの穏やかな陽光すらも、俺を呪うかのように真っ赤な、禍々しいスポットライトへと変貌して俺の身を照らしている。
周囲の地面を見渡せば、現実の景色を浸食するように、不吉な紅い彼岸花が狂ったように咲き乱れていた。
溢れ出した感情の堤防が決壊し、すべてを破壊し尽くす激流となって、ただ一つの、漆黒の答えへと収束していく。
「――凶刃・怒怒羅」
ポツリと、魂を削り出すようにその名を呟いた瞬間、俺の理性を繋ぎ止めていた最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。銅鑼が響く虚空に。視界が完全に、狂気的な紅一色に染まる。
それはまるで、絶滅の淵に立たされた巨大な恐竜が、虚しく、しかし世界を圧殺するほどの圧倒的な怒りとともに吼えるようであった。
真っ赤に変色した空間の底から、「それでいい……」と、俺の暴走をすべて肯定するような冷徹な声が聞こえた気がした。
ふと気づけば、俺の右手には、恐ろしいほどの重量感を持った無骨な大剣が握られていた。本来ならば、朝日が揺らめくような神々しい橙色の輝きを放つはずのその刃。しかし、今のそれは、主の狂気を吸い上げたかのように、ドス黒い、呪わしい真紅の色へと染まりきっている。
もはや、そこに考える余地など一微塵もなかった。
ただ湧き上がる無限の怒りに身を任せ、迫り来るラルクに向けて、その大剣を力任せに一閃した。
キィィィィィン――ッ!!!
空気を切り裂く金属音が響く。それは直接的な一撃ですらなかった。大剣を振るったことで生じた、凄まじい衝撃波の『余波』。
たったそれだけの衝撃で、音速で突撃してきていたはずのラルクの身体は、まるで暴風に吹き飛ばされる枯れ葉のように、派手に後方へと吹き飛ばされた。地面を何転も激しく転がり、ラルクが呻き声をあげる。
「てんめえ……なんなんだよ、その姿は……ッ! 化け物みてえじゃねえか……! そんな仮面までつけやがって、ふざけるなよ!」
土煙の中から立ち上がったラルクが、唾を吐き捨てながら叫ぶ。
(化け物……? 俺が、化け物だと……? …………何を言ってやがる……っ、ぬ、グァッ………………)
喉の奥から、獣のような、人間のものではない低い唸り声が漏れ出る。
俺の顔を完全に覆っていたのは、禍々しい赤般若の面であった。
本来ならば白塗りで恨みを表す怨霊の面。しかし、俺の顔に張り付いたそれは、あまりの怒りによって醜く歪み、どす黒く邪悪な殺気をこれでもかと撒き散らしている。
俺の意識は、赤く染まった底なしの水面へと、急速に、深く吸い込まれていく。身体の制御権が、怒りという本能に奪われていくのが分かった。
現実世界では、その俺のおどろおどろしい変貌と、周囲に充満する圧倒的な威圧感を前に、村の者たちが次々と悲鳴をあげていた。腰を抜かしてその場に尻餅をつき、慌てふためきながら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
「化け物だ! 本当に化け物が出たぞおおお!!」
「助けてくれ、ゲンさんが怪物になっちまった!!」
誰かがそう叫び、絶望の声をあげる。だが、逃げ惑う彼らを責めることなど誰ができようか。
今の俺から放たれる圧倒的なプレッシャーと、死そのものを具現化したかのような禍々しさは、そう形容するしかなかった。
かつて誰もに慕われ、どんな無理難題も笑って解決してくれた、あの気さくで頼れる「ゲンの旦那」の面影は、今のその異形の姿には、爪の先ほども残されてはいなかったからだ。
「ゲンの旦那……。嘘だろ、おい……」
サブは、あまりの恐怖に腰を抜かすことすら忘れ、ただただ固唾を呑んでその場に立ち尽くしていた。
目の前で起きた主の様変わり、その異様極まる佇まいに呑まれ、生唾を痛いほど激しく飲み込む。
今のゲンには、言葉すら通じるか怪しい。何よりも、この暴走するゲンと、命を捨ててかかっていくラルクの衝突を、自分ごときの力では止めることが絶対に不可能であるという絶望的な現実に、サブはただ身体を震わせるしかなかった。
その向こう側。
大剣の余波によって数十メートルも吹き飛ばされたラルクは、凄まじい制動をかけて地面に着地すると同時に、さらにその狂気を加速させる。
ゲンを殺し、己の過去に決着をつけるため、彼はさらなる戦闘へのギアを一段階引き上げた。
ラルクは自身の左腕――その鋏腕に空気貝を形態変化させながら、まるで、巨大なロケットのブースターを、己の肉体に直接、接着させるように変化させていく。この、スタイルには、ラルク自身も使い慣れてはいない、だがやる理由がそこにはあるのだ。
骨が軋む音が聞こえてきそうなほどの過負荷を自らに課しながら、ラルクは狂ったように笑う。
「ったくよぉ、あんたはいつもそうやって変わりすぎなんだよ! 俺たちに隠し事ばっかりして、全部一人で背負った気になりやがって……! そういうところが、昔から反吐が出るほど嫌いなんだよ!!」
ラルクの絶叫とともに、鋏腕に取り付けられた空気貝が、周囲の大気を猛烈な勢いで吸い込み始めた。
――ガカッ、ドヒュンッ!!!
限界まで圧縮された空気が、一爆のもとに爆発的な推進力へと変わる。
音速の壁を突き破る、狂気的な突撃。ラルクは鋏腕を槍のように真っ直ぐ前に突き立て、地面を深く深く抉り、大量の土砂を派手に巻き上げながら、一直線に俺の心臓を目がけて肉薄してくる。その速度は、目視することすら不可能な領域に達していた。
「ゔぁあああああああああ!!!」
理性を失った獣のような咆哮が、ゲンの口から迸る。
「どうしたァ!? ついに言葉も喋れなくなったのかよ! あんた……本当に、本物の化け物になっちまったのかよ!?」
ラルクの叫びに応じるように、ゲンの持つ真紅の大剣『凶刃・怒怒羅』が、マグマのように赤熱していく。
ゲンが大剣を地面に向けて全力で叩きつけると、どす黒く赤熱した波動が地鳴りとともに炸裂した。
大地を割って飛び出す、赤熱の斬撃。空間そのものを波打たせるような面攻撃。
しかし、ラルクは先程の失態を繰り返さなかった。音速で突進しながらも、極限まで研ぎ澄まされた集中力によって、紙一重のところで身体を翻し、その破滅的な斬撃をすべて避けてみせたのだ。
風圧でラルクの肌が裂け、血が吹き飛ぶが、彼はその痛みにすら歓喜の表情を浮かべる。
「そんなもんかよ! おらあああああ!!」
ラルクの狙いは、ゲンが大剣を全力で叩きつけた『その瞬間』だった。
いかに圧倒的な破壊力を持つ武器であっても、全力で振り下ろした直後には、必ず武器を持ち上げるためのコンマ数秒の『隙』が生じる。
ラルクはその一瞬の勝機を絶対に見逃さなかった。武器が地面に埋まり、ゲンの体勢が前傾になったその完璧な隙を突き、がら空きになった胴体へと、空気貝の推進力を全開にした鋏腕の一撃を喰らわせる――筈だった。
誰もが、ラルクの突撃がゲンの肉体に衝撃を与えると思った、その刹那。
「――ばぁ」
え?とラルクの思考が、まるで絶対零度の氷に浸されたかのように凍りついた。
下を向いていたはずの、あの禍々しい紅般若の面が。
ラルクの目の前、目と鼻の先の距離で、三日月のように不気味に口元を釣り上げて、愉しげに笑っていたのだ。
ゾクッ――!!!
ラルクの背筋に、未だかつて経験したことのないような、心臓を直接冷たい手で掴まれるかのような苛烈な悪寒が走る。
生物としての本能が、全力で「逃げろ」と警報を鳴らしていた。
ラルクの視線が下に向かう。ゲンの両手で保持されていたはずの巨大な大剣『怒怒羅』は、いつの間にかその手から完全に放され、地面に突き刺さったままだった。
では、ゲンの手は何をしているのか。
ゲンの左手には、いつの間にかもう一振りの太刀――極限まで研ぎ澄まされた『来国長』が、音もなく再構成されて握られていた。
大剣を囮にし、最初から左手の神速の一撃で迎え撃つ算段だったのだ。
引き返すことも、軌道を修正することもできない至近距離。
ゲンの左手から放たれた『来国長』の刃は、吸い込まれるように真っ直ぐ、ラルクの無防備な胸元へと突き刺さった。
ドスッ、という鈍い肉声とともに、鋭利な刃がラルクの肉を裂き、骨を断ち、背中へと突き抜ける。
そして、間髪入れずに、その刃は容赦なく、一気に引き抜かれた。
ブワッ!!! と、鮮烈な血飛沫が、大気中に派手に舞い散る。
自分の胸から溢れ出る大量の鮮血。それを受けながらもなお、ゲンの顔に張り付いた赤般若の面は、まるで極上の娯楽を楽しんでいるかのように、残酷に、愉しげに歪んで笑い続けていた。
「が、がふっ………………っ!! ……クソ、が……。ずりい、ぞ……てめえ……っ」
胸の傷口を両手で必死に押さえ、口から大量の血を吐き出しながらも、ラルクは必死に地を蹴って、その場から一旦大きく距離を取った。
よろめき、膝を激しく震わせながらも、ラルクは決して倒れようとはしなかった。
狂気と鮮血に染まった赤い視界の向こう側。致命傷寸前の重傷を負いながらも、その獣のような鋭い眼光だけは未だに衰えることなく、激しい憎悪を滾らせながら、怪物と化した俺の姿をじっと睨みつけ続けていた。
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