#89 またのご来店を
「――ごちそうさまでした。マスター、チェックをお願いします」
時計の針は丑三つ時を越えようとしていた。
もういい時間だとシヨウが声を掛けると、彼は伝票をまとめながら此度の一夜の感想を述べる。
「はいよ、お粗末様。
……ウチはさ、ただ無言で黙々と飲んでいく連中が多いから。ああやって味の感想をたくさん言ってもらえると、本当に出しがいがあったよ。
今度はちゃんとしたお食事も用意しておくから、次はお酒を飲みに来てよ」
「デザートをあのクオリティで出せる店なら、ご飯ものも期待できそうね。
でも――言っておくけど私、味には相当煩いわよ?」
サキが期待を込めた挑発で笑うと、マスターは「おー、おっかない。精々、腕を磨いておくとしますか」と軽妙にいなす。
「サキが暴れないで、始末書を書くための残業さえしなければ、いつでも来られると思うけど」
「暴れたくても暴れようがないでしょ。ロクな通報もないのに」
不満げに口を尖らせながら文句を言う彼女の後ろで一人、どうしても腑に落ちないと深く考え込んでいる者がいた。
「ねえ、マスター。ここで変な現象が起こったことはないの?
何かが勝手に動いたり、変なものが見えたり、奇妙な音が鳴ったり……!」
「いい加減にしろよニイナ。
物音の正体はさっきのでっかいクモか、バーの人たちだってもう分かっただろ」
飲み食いして落ち着いたかと思われていたニイナのゴーストに対する執着に、辟易しながら溜息をつく。
暗い青色の瞳に呆れと疲労の暗雲の陰りが見てとれたのか、同系統のライトでより輝きを増した飴色の目が爛々と攻撃的に睨みつけた。
「でもッ!! 探査機には、確かにさっき反応があった!!
今までにないくらいに、強い反応がハッキリと出たんだから!!」
その熱量にマスターは困り気に苦笑いしながら、宥めに掛かる。
「……そっか。ねえ君たち、お名前は?」
「知らない人に、名前は教えられない」
大人の言いつけをしっかり守る、その姿に可愛らしさを感じさせる。
自立しようと精一杯背伸びをする様と、幼いころに擦り付けられた決まり事が盾に成り得ると本気で思っている子供らしい純粋さ。
そのちぐはぐが、彼の笑いを誘った。
「あはは! こりゃまた、しっかりしたお嬢さんだこと」
「お嬢さんなんて呼ばれる歳じゃない!!」
「おっと、失礼致しました、お客様。
では僭越ながら自己紹介を――僕はティディ、しがないバーテンダーさ。
それで、皆さんのお名前は?」
マスターことティディが名を明かすと、ニイナは残りの大人たちを見る。
「ハンターのサキよ。こっちはシヨウ」
「……ニイナ。面倒くさいのがアックス、それとオーディー」
「面倒くさいとは失礼だな!」
「あっ、これボクの名刺です!
ポチャスコープ、チャンネル登録お願いしまーす!」
大人達に手渡されたのは手作り感満載のカードだった。
ポップなイラストに、動画に直接アクセスできるコードが印刷されている。
「中学生が作ったにしては良くできてる」
シヨウはしげしげと眺めながら、財布のガラガラのカードポケットに仕舞って空席を埋めた。
ティディは「ニイナちゃん、アックスくんにオーディーくんね。覚えたよ」と微笑むと、少しだけトーンを落とし、真面目な顔で話し始める。
「ニイナちゃん。僕はここでずっと働いているけれど、君が言うようなお化けや現象は今までに特になかったよ。
……いつだって面倒事を起こすのは、幽霊じゃなくて生きている奴らだからね。力になれなくて、ごめんよ」
誠実でありながら陰のある回答。
「でも……」と、それでもどうしても納得がいかない彼女は、悔しそうに唇を噛み締める。
その直後、傍に置いていた探査機の紐を引っ掴んで、一人で店の外へと走り出ていってしまった。
ガシャガシャと重たい機械の音が、暗闇の奥で木霊しながら徐々に小さく消えていく――。
「「ニイナッ!!」」
二人の少年が慌ててその後を追いかける。
「ちょっと、待ち……あ、もう! これだから子供は!」
「お二人さん、ちょっと待って」
ティディが慌てて追いかけようとするサキたちに待ったを掛けた。
レジ横から小さな折り畳みの紙を取り出すと、サラサラとボールペンで走り書きをし、スタンプを手際よく押していく。
「何よ、これ?」
「ウチの店のポイントカードだよ。中を見てごらん」
手渡されたカードの表紙にはそれぞれの名前が書かれていた。
開いて内側の面を見てみると、そこには可愛らしくデフォルメされたクモのスタンプが五つ並んで押されていた。
「本来は一回のご来店ごとに一つ押されるシステムなんだけどね。今回は特別に人数分、押しておいたよ」
「全部溜まると、どうなるんですか? 割引とか?」
店のスタンプならドリンク一杯無料だとか、10%オフだとかが妥当だろう。
そんなシヨウの想像を肯定も否定もせず、彼はのらりくらりと焦らす。
「さあ? それは、全部溜めてからのお楽しみってことで。
ほら、早くしないと子供たちが行っちゃうよ。
――またのご贔屓に」
ティディはひらひらと手を振って見送りの挨拶をすると、そのまま琥珀色の光に静かに佇むだけ。
「15回もリピートできるかは貴方の腕次第ね。ご飯もの期待してるから!」
残りのマスを数えてカードをポケットに突っ込むと、今度こそ子供たちを追いかけるためにサキは出口の闇へと身を溶かした。
シヨウも後に続こうとするが、慌てて二の足を踏み止める。
「――っあ、クモさん達って無事でしたか?」
グラスに揺らめく酒のように、掴み処のない目が驚きで固まった。
「ん? あ、あぁ……だいじょーぶ、だいじょーぶ。
誰かやられたらもっと騒いでるだろーし、問題ないでしょ」
「なら良かったです。手応えは無かったので大丈夫だとは思ってはいましたが……念のため。
撃っちゃってごめんなさいって伝えておいてくれますか? いくらか壊しちゃった部分も含めて」
申し訳なさの感情が混じった苦笑いに、彼は意地悪な笑みで返した。
「建物は元々壊れっぱなしだから気にしなくていいけど、クモたちが気がかりなら次回来た時に直接言ったらいいと思うよ。その方が喜ぶだろーし」
「営業上手ですね、では次回にまた。
――おやすみなさい」
何が何でもまた来させようと言う、店主の呼び込みにフッと笑うと急いで走った。
既に車に辿り着いていたのだろう。
バディの己を呼ぶ声に応えながら走る最中「――おやすみって言っちゃった」ととっくに寝ている時間帯に引きずられて口にしてしまった言葉に、若干の照れを感じながらもスピードを上げる。
* * *
――賑やかだった店内に時間相応の静けさが戻る。
「おやすみなさい……ねぇ。いつぶりだったかな、そんなことを言われたの」
カサカサと音を立てながら姿を現した数匹のクモ。
そのうちの一匹が彼の方に乗り、揶揄うように顔をガシガシと突っつく。
「ちょっ、偶々でしょ。あんまり夜遊びするタイプには見えなかったし、ついうっかり出ちゃったってところじゃないんですか?
――にしても、容赦なく戦闘態勢に入っておきながら虫に気を遣うとか……どんだけ甘いんだかなんだか…………」
淡々としたぼやきの中に含まれた飲み込みづらい何かには、気付かないようにした……。




