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追想

換気扇が空気をゆらし、血のにおいは動き続ける。鼻をひくつかせ、おとこは薄く唇をつりあげた。

「エデン……俺の元鞘だ。黒十字をぶっ潰したいなら」


 言葉は続かなかった。


 代わりに、音。

 遅れて、吐血。


「お……ま……っ」

 かろうじて絞り出した音の合間から、これでもかというほどの血がびしゃりびしゃりと吐き出される。唾液と混ざってもなお赤黒いそれは優人の右腕、もっと詳しく言えば前腕を白から血色へと染め上げていた。

 

 そして、手首から先は。


 男の体に埋められていた。


 人体の内部を。

 血管の温度を。

 筋肉の痙攣を。

 神経の緊張を。

 小骨の断絶を。

 内臓の感触を。

 今日も感じながら、優人は腹をかき混ぜる。手首の動きで傷が広がるのなんて、ものの見事にお構いなしだ。

 ただいつもと同じように、体に染みついた動きをなぞるだけ。


「タイムアップってことですよ。あなたの話は長すぎます」

 右手で人体破壊を繰り広げている張本人だというのに、優人の言葉はことごとくいつも通りだ。忍び笑い交じりの言い方など、まさにマナーの悪いクラスメイトを煽った時のそれである。

「なんで『根も葉もない噂』だなんて思ったんです? この血のにおいに気づかなかったわけでもないでしょう」

 言いながら、優人は手をまたしても移動させる。今度は上へ。ちょっと肺を引っかいただろうか。力なくうなだれた男の口から、それこそ申し訳程度に空気が漏れた。


 だが、そんなことを気にかける優人ではない。


 上に動かしていた腕が止まる。左胸だ。そこからさらにまさぐって、まさぐって、まさぐって。


 まだあたたかい、優人の拳よりすこし大きい塊に辿りついた。何度も、別の人の体で触ったものだ。今さら間違えるはずもないが、確かめるように撫でる。やわらかいが、なにしろ弾力がある。ちょっとやそっと押した程度では何も変わらない。

 

 そんな代物を、優人は。


 いっさいの躊躇もなく。


 握り潰した。



 そしてゆっくりと手を引き抜いた。糸を引く粘液が、ついていけずにポチャリと切れる。赤黒い雫が指先から手の甲へ、手の甲から手首へとつたっていく。そのまま重力に逆らうことなく腕をつたい、肘から落ちて金網に落ちる。雫ははじけて、ほんの一瞬だけ血の王冠を形取った。


 金網は床と比べて新しいはずだが、もう錆びたような色でおおわれて銀色は見えない。当然だ。今もものすごい勢いで鮮血が、金網の穴めがけて流れ込んでくるのだから。


 すっかり赤黒く染まった手のひらを、優人は淡い青緑の瞳で静かに眺めた。

 

 内乱罪……海外と通じていれば外患誘致罪だろうか。いや、外患援助罪という可能性も。あるいは、シンプルに犯罪感染者幇助罪。口ぶりからして、あの死刑囚の罪はそんなところか。

 まあ、こうして彼が死刑となったからには。

 その「エデン」とやらも、黒十字が解体しているんだろうが。


 ぼんやりと手を見つめていた目が、ふと爪の先にとまる。


 指と爪の間に、血色とはかすかに色味の違うもの。殺生病感染者の視力がなければ見逃していただろう。細かいが、ぶよぶよとしているのは肌から伝わる。


 内臓だ。

 それがすぐに分かるくらいには、優人も惨殺を重ねてきた。






 何度も、塗り重ねてきた。







 だから。













 大丈夫な、はずなのに。 











 消灯時間、少し前。

 寮内の自習室で、優人はひとり隅の席に着いた。

 男女共用の一室だが、この時間に利用するのは彼ひとりだ。利用状況を知らせる入口のパネルで、全席空席だったのは確認済み。誰かが入ってくる気配もない。


 もう手も体も洗い終えて、服も着替え終わっている。血濡れた服はぬるま湯で洗って、いつも通り洗濯機に放り込んだ。あとちょっとで乾燥がはじまる頃合いか。


 机に置くのはミント色のノートだ。冷えた指先でなでる表紙には、「白道優人 日記Ⅱ」と硬い文字で書かれている。

 そんなノートを、彼は指の腹で静かにめくった。


 びっしりと埋まったページをめくって、めくって、めくって――――その手が止まる。

 白紙のページにたどり着いたからだ。

 

 まっさらなそれに、彼は今日の日付を書き加える。そしてまずは情報整理。

 

 入学式の日だったこと。

 自分の席の位置。

 寮から高等部校舎への道のり。

 クラスと、教室への行き方。

 学籍番号と出席番号。

 担任の名前。

 ひとつひとつ間違いのないようにまとめていく。内容の一部は以前に書き残したものだが、この場を借りてもう一度。

 何も知らない人がこれを見ても、すぐに必要最低限だけは分かるように。


 出来事を書き連ねるのはその後だ。

 高嶺天花(特待生)と聖瀬戸が、同じクラスになったこと。この二人は他分校からの上京組で、優人とはこの時点で初対面だったこと。

 特待生への陰口に釘を刺したら、なぜか天花に気に入られてしまったこと。

 便乗した瀬戸が、まるで旧知の仲のように親しくしてきたこと。

 瀬戸が蛍の、天花がHotaru Tobiiriの名にそれぞれ反応したこと。

 星垂つぐみもクラスメイトだったこと。

 天花と瀬戸による、星垂つぐみ論文疑惑の真相解明。

 途中で天花が地雷を踏んで、猟犬候補生につかみかかられたこと。

 優人が、逆上した猟犬候補生を制止したこと。

 彼女の制服の糸が切れたこと。

 星垂つぐみは悪くなかったこと。

 コンテストの運営が、勝手に名義を変えたこと。

 どうすべきかという問題。

 暴露という瀬戸の提案ではなく、組織内法改正という天花の提案に賭けることになった、と。

 計画の全容。

 コンテストの運営トップである研究局の局長を「協力しなかったら暴露する」と脅し、法改正に口添えしてもらう。

 その鍵をにぎるのは、天花の双子の姉。

 高嶺空花。内務科の特待生で、分校は別。

 入学式後、天花が「出がらし」と言われたこと。

 そのくせ少し優人が言葉をつきつけたら、天花を煽っていた人たちは逃げていったこと。

 瀬戸に「派手髪仲間」なんて言われたこと。

 天花に、外見を「天使みたい」と言われた――――

 

 優人の手が止まる。

 シャーペンが、書きかけのページに滑り落ちた。転がって、書いたばかりの文字に寄り添う。


「『嬉しかった』……?」

 虚しく響くのは、ノートに書かれたばかりの文字をなぞる声。優人以外に誰もいない空間を広がって、壁に天井に床にぶつかっては消えていく。


 なぜ。

 日記に感情など。


 白い手が消しゴムに触れ、しかし掴むにはいたらない。

 手にしたのは、先ほど落としていたシャーペンだ。芯を押し出し、続きを書き始める。


 忘れないうちに。


 




 そしてひっそりと部屋に戻った。

 隣のベッド、布団はふくれている。意識があるのかは優人の知ったことではないが、いつものことだ。

 昏い部屋の中、足を忍ばせて日記を目立つ場所に置くのも。

 棚の片隅に安置した、大きめの木箱にふれて目を伏せるのも。

 ひとりベッドに身を投げ出し、目を閉じて夜の音を聞くのも。


 ひとつだけ違うことは、頭の中から言葉が離れないことだろう。

 まぎれもない自分の筆跡。

「嬉しかった」と、感情を綴る文字。


 外見を褒められて嬉しかった、なんて。




 まるで、感情でもあるみたいじゃないか。





 感情など。











 蛍を殺した夜、棄ててしまったはずなのに。

 

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