寮
ひとくちに寮といっても、さすがに一つの建物というわけではない。
非感染者女子寮の蒼陰寮。
非感染者男子寮の蒼陽寮。
感染者女子寮の紅陰寮。
感染者男子寮の紅陽寮。
色は感染の有無だ。リストバンドの色に応じていて、まず蒼と紅で建物が違う。どちらも一階部分には男女共用スペースがある。
「白道くん」
つぐみが優人を呼んだのは、二人分のコロッケをリベイクしているときだった。中途半端な時間だからか、食堂はガラガラ。電子レンジもオーブントースターも使い放題という天国だ。
「ひとつ気になったんだけど、その」
遠慮がちな前置きが、声になっては消えていく。ためらいがちな声が、嗅覚制御装置の下からこぼれてくる。
「あなたまで、ここまで持って帰る必要はなかったような……。温かいのを食べたいなら、道中で食べればよかったんじゃない?」
「それは」
食堂の人はまばらで、いたとしても距離はだいぶ離れている。殺生病感染者の耳をもってすれば、会話が聞こえないことはないだろう。
ただし、距離だけを考えればの話だ。
リベイクと換気扇の音が重なって、それでも「うるさい」とはおよそ対極のような音量だ。さっきの問答だって、声にしたはしから消えていった。
もれ出てくるコロッケの香りも、一瞬ただよっては消えていく。
優人の目をのぞき込むつぐみは、心なしか目を見開いているようにも見える。まるで、どんなにわずかな反応も見逃しはしないとでも言うかのように。実際、彼女の五感をもってすればそうなのだろうが。
「ごまかしても無駄よ。私、覚えてるもの。あなたが、『いつか揚げたてを食べたい』って言ってたこと」
――――それは、確かに白道優人が言った言葉だ。まだ覚えているし、日記にも書いてある。
その枕詞と、そのとき一緒にいた人たちの名前を。
つぐみ。
蛍。
守人。
けれど、うち二人は。
だから、つぐみの言うことを否定はしない。
はぐらかしもしない。
ただ静かに、リベイクの完了を待つだけだ。
食堂はガラガラなのに、廊下にはそれなりの人がいた。一緒に出てくる異端者コンビに視線を向けては、何やらささやきあっている。
まぁ「白い悪魔が~」だの「親友堕としが~」だのという、いつものやつだが。優人が睨めば押し黙るところまでワンセットという、心底低レベルな村八分である。
本当にくだらない人たちだ。
「つぐみ」
今度は優人が呼ぶ番だった。なんとなく、歩くのを止めて。
気持ち張り上げた声に、つぐみも足を止めて優人に体ごと向き直る。
蛍光灯が二人の頭上を淡く照らす。
「ずっと誤解してた。きみが蛍を――――その、裏切ったんじゃないかって。けど」
どうして。
どうして、思い浮かばなかったのか。
あんなに蛍を大切にしていたつぐみが。
つぐみにだけ向けられる、蛍の安心しきった顔が。
どうして。
「きみは悪くなかった。だから」
白いまつげがふるえる。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸して、それから優人はまぶたを開いた。それから色の淡い唇をふるわせる。
ただ、この言葉を伝えるために。
「今さらだけど――――疑ってごめん。誰よりもきみが辛いとき、傍を離れてごめん」
言いきって、腰を四十五度に折って、体をおこす。文字に起こせばそれだけなのに、時が凍りついたようだ。ざわめきもつぐみ以外の存在も、いつしか優人の意識から抜け落ちていた。
そんな優人を、つぐみは正面から見つめ返して目元をやわらげる。
「……ずっと、こんな日は来ないって思ってたわ」
独り言のようで、伝えるための言葉のようで。
白い壁を背景に、彼女は遠くを見るような目つきになっていく。
「何度も死にたくなった。何度も廃人になりかけた。何度も狂いかけた。それでも必死であがいて苦しんで生き続けたのはきっと……、きっと、今日のため」
声はふるえて、けれどそれは恐怖でも遠慮でもない。
目尻に涙が光るのは、きっと悲しいからじゃない。
ふらり、優人の右腕が動きかけ――――止まらせる。
この手が、誰かの涙をふけるわけがない。
かといって、こんなときにかける言葉など優人は知らない。そんな人生経験を積んだ覚えはないのだから。
答えなど書かれているはずもないが、それでも淡い青緑の瞳はさまようのを止めようとしない。ゆれ動き、惑い、そして。
「紅陰まで送るよ」
ある意味での答えを紡いだ。
道中での話題は尽きることがなかった。
途中でつぐみが前触れもなくクスりと笑ったのは、不思議だったからだと言う。
「だって、あの頃はあなたが制御装置をつけてたでしょ。なのに、今は私が両方つけているなんて」
お供えにコロッケはアリかと考え込んだのは優人だった。
「四人で揚げたてを食べたい、なんてあの頃は思ってたからさ」
そんなくだらないことばかり話していたせいで、気づいたときには紅陰の入口に着いていた。
「約束するよ。一緒に帰るときはここまで送るって」
「ありがとう。……じゃあまた」
それが別れの挨拶だった。
色褪せたリボンが見えなくなったのを確認し、優人は白い手を下す。
約束。星垂つぐみを、紅陰の入口まで送り届けること。
「――――きっとそれが償いだから」
つぐみを悪く言う声はそのうち消えるはずだ。だからせめて、それまでは。
紅陰寮から遠ざかるたび、「親友堕とし」への怨嗟の声は少なくなっていく。
紅陽寮へと近づくたび、「白い悪魔」を怖がる声は多くなっていく。
そこが感染者男子寮だからではなくて、単純に優人しかいないからだろう。
「いいか、あの白い男子には近づくなよ」
「なんで?」
「有名なやつなんだよ、悪い意味で。『白い悪魔』って呼ばれるくらいにはな」
「ルームメイトを笑いながら惨殺したって話だぜ」
「あいつか、親友の女の子を惨殺して発狂したのって」
「夜な夜な囚人を惨殺してるんだろ。それも同じ傷口で。よくやるよな」
「オーバーキルにもほどがあるだろ。首を絞めるとか頸椎をへし折るとかで充分だっての」
「俺のルームメイトが見たってさ。あいつが囚人の腹をかき混ぜてんの。内臓の色なんて知りたくなかったって、ゲロくさい口で喚いてたな」
「あいつとだけは関わりたくねー!」
「バカ、聞こえるぞ」
「別によくね? それでキレて殺しにきても、俺らなら半殺しくらいでどうにかなるだろ。そしたらあいつが殺処分になるだけだし」
「あー、闇堕ちな。親友とルームメイトと同じ運命をたどるとか、どんな皮肉だよ」
「決まってるだろ。歴史は繰り返すってやつさ」
東京校に来たばかりの候補生に向けられた忠告。
それに便乗した陰口と愚痴。
あれで、声をひそめているつもりなのだろうか。
移動中も一人稽古のときも。大型テレビがあるエントランス付近でさえ。要は部屋以外の空間なら、どこにいても聞き取れるほどだというのに。
「……というわけなんですよ。ひどくありませんか」
地下の大広間に、優人の声が反響する。
大広間、といっても簡素な造りだ。畳があるような和室じゃないし、かといってシャンデリアと装飾と調度品で飾られた豪奢な場所というわけでもない。
いや、調度品と呼べなくもないものなら一種類。
成人男性が余裕で入る大きさのロッカーが、さながら共同墓地のようにずらりと並んでいる。
そのひとつ、優人が開けたロッカーから
「それは……ひどいな、うん」
太い声がした。
成人男性だ。服はよれて、顔もやつれている。こんな時でも外されていないリストバンドは、非感染者を示す青。両手両足は拘束されている。
申し訳程度につけられた換気扇が、優人の頭の上でカラカラと音を立てる。消えることない血の残り香を巻き上げて、でも逃がしきれてない。優人たち以外の姿が見えない空間を、血のにおいは気ままにただよっていく。無駄に高性能な監視カメラをもってしても、その行方を追えることはない。
は、と男が声をもらした。
「同情するぜ。根も葉もない噂に振り回されてさ。こんなとこ、さっさと裏切って逃亡すりゃあいいのに。俺の古巣とかおすすめだぞ」
だんだん早口になっていく声に、優人の肩がピクリと動く。ゆっくり、ほんの少しだけ足の位置と体の角度を変えながら、色の薄い唇が開いた。
「裏切れるわけないでしょう。この部屋ひとつとっても、高性能を売りにしたカメラで見られてるんですから。なんでも、モニターごしに唇を読めるほどの高画質だそうで」
優人の言葉に、男が軽く鼻を鳴らす。
「そのすごいカメラさんは、今しがたお前さんが背中で隠しただろ。話を聞く気満々じゃねーか」
「偶然ですよ。――――まぁ、今から動くとまでは言いませんが」




