最悪な誕生日しか、彼女は知らない。
「それは」
悟の目元がゆがむ。
顔を逸らして、その先でただうつむいた。
「…………天才に、なれなかったってだけだよ」
天花がわずかに、けれど鋭く息をのむ。それはやがて、ほんの短い歯ぎしりに変わった。
それも刹那のことだ。
「あっそ」
吐き捨てて、音高く足を踏み出す。
「天」
「帰る。じゃあね」
その口は、完璧なほほえみの形を描いていた。
タクシーの中でも、天花は姿勢をくずさない。
背もたれすら使わず、両手は重ねて膝の上。
そしてもちろん、口元には完璧なほほえみ。
そんな顔をしているのに、頭の中では反省会の最中だ。
表情をくずしてしまった。
声も、耳障りな音になっていたかもしれない。
最悪だ。
あそこは人目につく所で、天花は特待生だというのに。
悟の返事が反響する。
あんな答え。
まるで。
高嶺天花は天才なんだと思ってるみたいじゃないか。
成績がよければ大人は文句言わない。
本を取り上げられることもない。
痛い思いをすることもない。
それに天花が気づいたのは、小学四年生になってからだった。
初めて90点台を取れたテストで、母の小言がいつもより短かった気がしたのだ。
――もしも、100点を取れたら。
なんども問題を解いた。
姉が遊んでいる間も、母がいない間も、ずっと机にかじりついた。
本を読みたいのも我慢した。
初めて100点を取れたテストは、それから何回かあとだった。少なくとも、あのときの天花はそう思っていた。
初めて自信を持って母に見せた。
初めて母に褒められた。
「すごーい、さすが! 天花は天才だもんね!」
努力は、なかったことにされた。
その時、ふと頭に浮かんだ。
あぁ、そっか。
これは「100点をとりたい」と思ってから、13回めのテストだった――と。
それから何も忘れられなくなって、なのに笑い方はいつの間にか忘れて。
天才としか言われなくなったころ、千万悟に出会った。
テストでは天花と競い合えるほど。
なのにスポーツもできて、書道やら美術やらでいつも賞をとっていた。
唯一、天花に「天才」という言葉を使わなかった。
だからかもしれない。
数少ない、本音で話せる相手。
数少ない、笑顔になれる相手。
そして、たった1人だけのライバル。
いや、もしかしたらそれ以上の――――――
うなだれたのか、うつむいたのか。濡羽色のツインテールが力なく垂れ下がる。こんな時でもほほえんでいる口からもれるのは、かすかな忍び笑いだ。
結局、ライバルだなんて思っていなかったんだろう。
彼も、そして天花自身も。
この記憶力がなくとも高みに至れる彼を、天花は。
気づいた時にはスマホを開いていた。トークアプリの相手一覧を、ただ眺める。
必要最低限くらいしか入ってない。
だから誰からも通知はない。
しいていえば、アプリのほうから「お誕生日おめでとうございます」とだけ送られているくらいだ。
誕生日など、天花にはいい思い出がない。
1歳のときから、ケーキのろうそくは空花が消していた。
2歳のプレゼントは空花と共有で、翌日には空花のものになっていた。
3歳のパーティーは、空花だけが祝われていた。
4歳のプレゼントはお菓子のおまけ。3カ月と2週間と5日前に空花が「いらない」と投げ捨てたもので、よく見たら端が欠けていた。
5歳のバースデープレートは狭くて、空花の名前しか入ってなかった。
6歳のプレゼントは空花とおそろい。でも空花が選んだやつで、天花の好みじゃなかった。
7歳のケーキは家族で作って、でもデコレーション作業は空花が独り占めした。
8歳のときから、誕生日には期待しなくなっていた。
実際、期待していても無駄だっただろう。
そんなわけだから、今年こそはと思っていたのだ。
今年こそは、自分だけの誕生日を祝えると。
たとえ、自分だけだったとしても。
学園についたのは、かなり日が落ちたころだった。
いつもなら、授業範囲にあたる参考書のページを開いているところだ。もう教科書も問題集も解き終えているはずなのに。
領収書をファイルに入れたときだった。
「天花」
透明な声が彼女を呼んだ。
白い髪をはずませ、彼は近づいてくる。黒い夏服からのびた白い手を、軽くあげながら。
涼やかな瞳が、数時間ぶりの天花を確かに映す。
淡い色の唇に、やわらかく笑みが浮かぶ。
「おかえり」
本当に自然な言葉。
それだけで、天花はこんなにも笑顔になれる。
「ただいま。優人」
梅雨明けの風が吹き抜けていく。
太陽は朧らしく、2人の影は境があいまいだ。
「それじゃ、帰ろうか」
夏に向かうだけの季節だからか、アスファルトの道はわずかでも熱をはらんでいるみたいだった。曇りなのに、そんなこと忘れてしまいそうになる。それとも、数十分前まで晴れていたのだろうか。
優人が教えてくれたのは、6時間目の授業内容だ。とはいえ予習済みだから、最後に何をしたかさえ分かれば補填はできる。
それでも、天花は優人の声を聞いていた。
なんというか、耳になじむのだ。
それは、多くの男子にある声のガサつきがないからか。
それとも、品のいい響きのせいか。
あるいは、抑揚が頭に残りやすいからかもしれない。
「――――――って感じかな。詳しいことはこの後……いや、明日にでも」
「ありがとう。楽しみにしてる」
二人分の影が同じ方向に伸びている。太陽が朧だからハッキリしなくて、たまに溶け合いそうになっているくらいだ。
そう。
2人。
「瀬戸とつぐみ、いないね」
「あ、ちょっと用事があって。それで」
それを聞いて、天花の頭に「?」が浮かぶ。優人の言葉が、いつもより早口に感じたのだ。
………………。
「なまむぎなまごめなまたまごっ」
「え、早口言葉? なんで?」
「早口言葉大会かと」
沈黙。
やがて優人は小さく噴き出した。そして改めて、天花の顔を見る。
「ごめんね、笑っちゃって。その……安心してさ。それで、つい」
「安心?」
もう踏切は渡って、商店街が近くなった頃合いだ。当然、ざわめきも大きくなる。
けれど天花の耳には、言葉としては優人の声だけが意味を持って聞こえた。
「その紙袋。信玄って、山梨の武将だよね。今日の早退、山梨に帰ってたのかなって思って。スケジュールはギリギリだったっぽいし、疲れてないといいなって」
「心配ないよ。呼ばれたから行っただけ」
そう。
断じて「帰った」わけじゃない。
いくら優人が相手でも、こればかりは譲れない。
それが伝わったのだろう。
「それならいいけど」
それきり踏みこんではこない。
商店街は、こんな時間でも賑やかだ。
いつもが学園生徒の元気なら、今は主婦の皆様の井戸端会議。
特に強く香るのはお惣菜のにおいだ。
涼しい顔をしているけれど、優人は大丈夫なのだろうか。盗み見れば、遅れて優人も見つめ返してくる。チョーカーのチャームも揺れていた。
学園の生徒。
人間。
同じ学び舎で学んで、同じ時間を過ごす。
同じものを見て笑いあう。
けれど、聞こえている音は違うのだ。
天花にしてみれば商店街のざわめき。
でも優人にしてみれば、呼吸の音さえ聞こえているのだろう。
だけじゃない。かぎ取るにおいも違う。
例えばお惣菜ひとつとっても、天花に分かるのはお惣菜そのものの香りだけ。
でも優人は、それを包む容器のにおいすら感じている。
こんなに近くにいて、彼は天花が絶対に行けない世界にいるのだ。
そしてその悲哀を、白道優人は絶対に感じさせてくれない。
そんなことを考えていたら――――――甘い香りが鼻についた。
ケーキ屋さんだ。
そういえば、まだケーキを買っていなかった。
ついでに買って行こうかと考え、いやと天花は思い直す。
天花でさえ甘さを強く感じるのだ。優人なんか、甘ったるいという言葉が生易しいほどの香りの中にいるのだろう。ケーキ屋さんの中など、どうなってしまうだろう。
それに、お土産を冷蔵庫に入れなくては。
別れ際、優人は言った。
「天花、このあと時間つくれるかな。1時間くらい」
「もしできるなら、蒼陰寮のエントランス前まで迎えに行くから」




