天使と悪魔と
力のない音がした。二等分、というわけではない。ただ歪に、さっきまで人だったものが左右に崩れ落ちた。
そして、割れた先で。
「白道、くん」
金色の瞳が、細かくふるえていた。奥にはもう一人。ボロボロの衣装のまま、音もなく立ち上がる。
目が、合った。
「本当はそこまでする必要ないのに、ぼくはいつもそうやって殺してきた。」
この口がなぞるのは過去の言葉。帚木慶は知らない、でも白道優人白道優人の記憶に、確かに刻まれていた問い。
「そんな『白い悪魔』と、きみは仲良くなりたいっていうの?」
光源があるとはいえ、テント内は「明るい」と断言できる明るさじゃない。わずかに薄暗い光の下、彼女は。
「やっぱり、お友達になってほしい」
微笑んだまま、そう言った。
そして何事もなかったかのように、いつも通りに歩み寄ってく。
「その手が血濡れたのは、誰かを守るため。『白い悪魔』なんかじゃない」
高く澄んだ声と共に。恐怖なんて、どこにも見当たらない。
「帚木慶も、白道優人も。どっちも優しい、一人の人間」
そう言いながら手入れの行き届いた手を、血濡れた手に伸ばしていく——そのとき。
「はい、そこまで!」
勢いよく、けれど被った血が背後の女子にかからないように。割り込んでくる声。
「天花、離れて。変態男の体液なんて、ばっちいでしょ。白道くんは外、女の子が着替える時間よ!」
あれよあれよという間に連れ出されたのはテントの外。雲はどこかに流れ、星明かりが夜を照らしていた。テントからの衣擦れと、二人分の足音。その他には何も聞こえない。
と、足音が止まる。
「………………白道くん、あなたは」
彼女の声はふるえていた。声だけじゃない。自分の体を、囚人の血に染まる体を抱き抱え、背中を震わせていた。
恐怖。警戒。でも、多分それ以上に。
限界、なんだ。
そろそろ、つぐみが人を殺してから二十四時間が経過しおえる。
固い物が割れるような音。
激痛、なんて言葉じゃたりないくらいのはずだ。
「失礼」
ふるえる背中に手を回す。同時に、膝の裏にも。
抱え上げた体は思った以上にひんやりとしている。それはきっと、外側だから。巡る血の温度は皮膚に、ボディースーツに、遮られているから。あの囚人の血液も、背中側には届いてないらしい。
「え、ちょ……、歩けるわよっ」
「いや、こっちの方が早いから。それに……、まだなんでしょ」
沈黙が訪れる。声はない。でも、委ねられた体が何よりの返事だった。
感染者の筋力は感染前の五倍——その脚力が、地面を蹴る。
————見えた。避難テント。
切っ先が一斉にこちらを向く。高周波ブレードの熱気が、空気を焦がしていく。
「止まれ! その生徒を」
「下ろしますよ——つぐみ、歩ける?」
腕の中、小さな頷き。ふわり、地面に降り立たせる。
「先生方、彼女はまだ『死刑囚』を殺していません——まずはそちらの誘導をしては?」
つぐみは無傷だ。ただ、血に染まっているだけで。教師陣が顔を歪める。
「………………いいだろう」
天花の回収、返り血の処理、着替え。
再びつぐみに会えたのは、一時間ほど後のことだった。
感染者用避難テントの中、なぜか猟犬候補生全員の前で。
「さて——」
学長が口を開く。それだけで、空気は張り詰める。学長は、この中で唯一の非感染者だというのに。
「君たちがここでそうしている理由、分かるか」
クス、と誰かが笑う。嘲る声。冷ややかに見つめる教師陣は、その嘲笑を止めもしない。隣に立つつぐみは、足を震わせているらしかった。無理もない。聴覚制御装置を外して数時間もしない内に、これだけの悪意に晒されているのだから。
どうとでも言えばいい——白道優人のことは。
けれど、この中にはつぐみへの侮蔑も混ざっている。
きっと「白い悪魔」が一度流し見れば、すべて静まり返るだろう。例えば、高等部入学式の日のように。なのに学長の視線が、態度が、口調が、それを許さない。
どこまでも無機質に、無感情に。
「白道優人」
名前が呼ばれる。
「君は闇落ちを起こし、暴走状態に陥った。殺人衝動は明確であり、殺処分相当だと判定する」
囁き合う声。異口同音に告げていた。いつかこうなると思ってた、と。
否定、できない。
「で、ですがっ!」
隣のつぐみの声が裏返る。
「白道くんは正気になって」
「星垂つぐみ。君も意見できる立場ではない。何しろ、殺処分命令を無視したのだからね。これは重罪だ——反逆とみなし、殺処分を科すのが妥当だろう」
今度は冷笑。聞こえる悪意は「ざまあみろ」。つぐみがふるえているのは、きっと。
「——学長もお人が悪い」
僕の声が冷静だったからか、あるいは闇落ち戻りの「白い悪魔」が反論したというのが意外だったからか。学長の眉が上がる。けど静かに聞く構えだ。
ならば、こちらも主張をぶつけるまで。
「先生方の中には、感染者の方もいらっしゃいました。何が起きていたのか、把握なさっていなかったはずがないでしょう。一体、何を企んでおいでです?」
学長は唇を吊り上げる。
「君こそ人聞きの悪い。私はただ、黒十字学園東京校の学長という立場から正論を述べているだけさ。そもそも、黒十字学園は殺戮病対策組織・黒十字の人材育成機関でもある。そして、黒十字の理念は」
「弱き人々を守るために」
瀬戸の声だ。「ですよね、理事ちょー」などと、どこまでも軽い調子で視線を流す。
学長は頷いて、「ここからは講評の時間だ」と僕とつぐみを順番に見た。
「白道優人と星垂つぐみは、それぞれが理念を体現した。だが」
僕を。つぐみを。そして、陰口しか言えなかった猟犬候補生の群れを。見渡した。そして告げる。
「どうやら黒十字の理念を理解していた猟犬候補生は、この分校・この学年では二人だけだったらしい」
静まるテント。群れる猟犬候補生は、誰もが顔を逸らしていた。教師陣の表情は読めない。この断定が学長の独断か、それとも教師陣の総意か————答えは、どこにもない。
「ところで」
沈黙を割り、学長が瀬戸を見る。
「聖瀬戸。なぜ君がここに? 非感染者の避難テントはあっちだろう」
「あー、ちょっと気になって。見張ってた先生に頼んでみたら、なんかあっさり通してくれましたよ。でもすぐ出ていくんで、そんな怒んないでくださいって」
言葉どおり、瀬戸は出口へと向かっていく。まるで台風の目だ。
ふと、いつかの言葉がよぎる。
『逃げたいとか裏切りたいとか。そういうのがあるなら俺は見逃すぜ。』
――あのときは逃げたいと思ってたかもしれない。
さっきまでは裏切る気満々だった。
でも、今は。
「瀬戸」
伝えよう。
「僕はここで生きるよ。辛くても、悲しくても――それでも、誰かに同じ思いをしてほしくないから」
決意と本音の誓いを。




