Triage Libra
同刻、感染者用避難テント。
「………………今、なんて?」
星垂つぐみが声をふるわせた。
ふるえる金色の瞳を見据え、なぜか来ていた学長は再び口を開いた。そして、一切迷いのない口調で先ほどの言葉をなぞる。
「白道優人が闇落ちした。感染者の中で、彼と最も親しかったのは星垂つぐみ、君だ。——白道優人を殺処分してくるように」
囚人は脱走した。
衰弱していることは想像に難くない。だが、最後のあがきという可能性だって充分にある。
だから教師たちは、生徒を避難させた。巨大テントに。
いちおう、感染の有無でテントを分けて。
どちらも門番は屈強な感染者教師だ。不法侵入者など見逃しはしない。勝手に生徒が外に出ることもない。
だから、つぐみの立つ場所は感染者生徒の避難テントになる。
一切感情のない指令が、感染者用避難テントに木霊した。静まる避難生徒。その中でただ一人、つぐみは鋭く息を飲んだ。指が、それ自体が意志を持っているかのように痙攣していく。
「そんな、こと」
ひりつく声に、学長の眼光が鋭さを増していく。
「これは校則・法律・憲法のすべてに基づく命令だ。もし従わないのなら」
声が、区切られる。それだけで周囲の気温が二、三度下がったかのような錯覚。つぐみも、赤のテントで待機している他の生徒も、何も言えない。
「——この国のすべての法規に従い、離反とみなして星垂つぐみも殺処分になる」
ただ、冷たく告げられるだけだった。
————逆らえない。
瞬間的にそう悟る。
いくら黒十字学園の生徒とはいえ、感染者は感染者。社会秩序を乱すのなら、即日処分。疑わしきは殺せ、生きたければ狂うべからず逆らうべからず。——何も、変わらない。
それに。
つぐみの胸元、奥の奥。心臓が波打つ。
殺戮病感染者は、一日一人の人間を殺さないと生きられない。つぐみにとってのデッドエンドは、すぐそこに。
首元でチャームが揺れる。猟犬候補生になった初日、渡されたチョーカー。お揃いだね、と蛍の写真の前で泣き笑いしたこともあったけれど。でも、今なら分かる。これは、首輪だ。黒十字の犬、忠犬だという証明。
「………………承り、ました……っ」
つぐみの姿が見えなくなった後、誰かが息をついた。それが、始まりだった。
「なぁ、ヤバくね?」
「『白い悪魔』、殺されるかな」
「いや殺処分確定だろ。だって……闇落ちだぞ」
「でも……、殺しに来たりとか……」
「あー……、恨み……買ってるよね……」
「だ、大丈夫だって! テントは両方とも、感染者教師が守ってくれてるし!」
「だ、だよね。いざってときには、先生がどうにかしてくれるよね」
「でもさ、アイツごときに務まると思う? 『白い悪魔』探し」
「無理でしょ。だって、まだ制御装置どっちもつけてんだよ?」
「いくら目がよくても、ねぇ」
「ってか、むしろ殺処分してメンタル壊れてほしい」
「うわ、ひっど」
「とか言って、お前笑ってんじゃん」
「お前もな」
巨大な密室に、囁き合う声が充満していく。
夕方と夜のあわい、廃墟街。冷たい風に茶色の髪が頼りなくゆれる。
「引き受け、ちゃった……けど」
できるわけ、ない。だって、彼は。
彼とは。
すれ違っていただけなのに。
最近、やっと仲直りできたと思ったのに。
そんな彼を、殺す——?
たしかに、最近は少し不自然なところがあるとも感じてはいたけれど。
例えば歩幅。例えば、ふとしたときの視線。例えば、重心のかけ方。そんな細かい違和感がぬぐえなくて、ときおり別人みたいに感じてはいたけれど。
それでも追及しなかったのは、彼が説明してくれると信じていたからで。
なのに、終わる……? 真実を、知らないまま……?
心臓が、指先が、熱を失っていく。「殺せ」なんて生存本能すら生ぬるい。さっきの命令に比べれば、ほくろくらいには小さな問題。
「蛍……」
ふるえる声が紡ぐのは、亡くした親友の名前。誰よりも研究熱心で、でもその夢は叶えられなかった。名義を黒十字に奪われて、つぐみを感染者に変えた親友。目の前で闇落ちした——止められなかった。権力に抗えなかった、星垂つぐみの罪だ。
「私は、どうすれば……」
何も、出来ない。無力で無能な厄介者だから。制御装置ひとつ外せず。
黒十字の不正を知って、それなのに声ひとつあげられなかった。
それで
親友の闇落ちを、ただ黙って受け入れるしかできなかった。止められなかった。罪を犯す前に。
……罪を犯す前に?
——もしも。
つぐみの頭に、一つの文章が浮かび上がる。
もしも、彼がまだ誰も傷つけてないなら?
もしも、闇落ちが一時的なものだとしたら?
生存本能の殺人衝動。それに飲まれているだけだとしたら?
あくまで希望的観測だ。でも、その可能性に賭けたくなってしまう。
彼は、まだ正気に戻せるかもしれない。
「っ早く、見つけないと」
目視——駄目、時間がかかりすぎる。廃墟。瓦礫。障害物が多すぎて、見落としがあるかもしれない。
だったら、使うべき感覚は。
ヘッドホン型聴覚制御装置に手をかけ——動きが、止まる。
そう、制御装置。これは制御装置だ。一瞬にして鋭くなりすぎた五感に、少しずつ慣れるためのもの。これを外してしまったら、星垂つぐみは——。
「………………っ、そんなの……っ」
手が、ふるえる。外せば、次の瞬間に音がなだれ込んでくる。最悪、狂死——!
でも。だとしても。
かつて救えなかった、闇落ちした親友。
今まさに闇落ちしているという、白道優人——あるいは、もしかしたら、別のだれか。
「——そんなの、関係ないわ」
手のふるえは、止まっていた。指先が、心臓が、熱を取り戻していく。
「壊れてでも掴んでみせる——闇に落ちる、その前に」
風の音。自分の体が奏でる音。虫の声。羽ばたき。衣擦れ。避難テントの方から話し声と笑い声。たくさんの人間が奏でる音。切りたての野菜と肉の残り香。それをあわてて詰めこんだ真空パックと、クーラーボックスのにおい。ドライアイスが解ける音。
耳も、鼻も。五感すべてを解放して。すべてを拾う、つぐみの耳に。鼻に。
誰かの走る音。感染者特有の匂いと、猟犬候補生の首輪が発する香り。
「——右ね」
地面を駆ける、刹那。
「……っ」
反対側から、聞こえるはずのない音。その場所にいるはずのない人の声。
この声の響きは。
「………………天、花……?」
けど、様子がおかしい。誰かと、戦ってる——彼じゃない、猟犬候補生の首輪は反対側から。避難テントに近づいている、らしい。けど、だとしたら——
「……『死刑囚』……っ」
そうだ、一人だけ。天花と戦う理由のある人物。脱走した囚人が、天花とかち合ってしまった、とか。
でも、どうすれば。
白道優人を優先したら、高嶺天花は囚人と戦うことになる。
高嶺天花を優先したら、白道優人は罪を犯してしまうかもしれない。
体は一つ。救えるのは、どちらか一方。
————でも。きっと————!
高嶺天花は、執闘科の特待生だ。
筆記も実技も、受けた試験はすべて満点。肉弾戦においても例外はなく、最近では犯罪感染者を、傘一本で無傷のまま制圧している。昨日のバトルロイヤルだってすごかった。
だから今回も、問題などあるはずがなかった。
相手は素手の民間人。訓練の度合いも、実戦経験も桁違い。天花が負ける理由は、どこにもなかった。天花が素手だとしても、きっとハンデにもなりはしない。
同刻、実行委員会用テント。
「……っ!」
天花は、床に押し倒されていた。
上にいるのはさっきの男。目を見開き、こちらを見下ろしている。
最初は優勢だった。
殴りかかってきた拳を見極め、いつものように拳を迎え——相手の勢いを利用して、受け流しながら投げに入ろうとした。
そう、いつも通り。勝てる“はず”だった。
だがその瞬間、視界の下で何かが絡んだ。
赤い衣装の裾。舞い装束の長いスカートの端を、自分の足が、確かに踏んでいた。
重心が狂う。
踏み込みが甘くなる。
支点が、わずかにずれる。
わずか——だが、それが全てだった。
体勢は崩れ、カウンターができない。胸元の飾り糸が引きちぎられるのを感じた。
そして、視界が反転した。
こんなはずじゃない。 けれど——これが現実だ。組み伏せられ、両手首は頭の上で乱暴に掴まれている。
勝てるはずだった。なのに、衣装が——衣装のせいで!
キャンプファイヤーのリハーサルでも、動きの自主練でも、一度も転んだことなどなかった。
格闘技術だってそうだ。何百回と練習した動き。転ぶはずなどありえない。
絶対大丈夫、そう確信していたのに、だ。
衣装がどうなっているのか、なんて分からない。ただ、あちこちから聞こえてはいけない音が聞こえて久しいというだけで。
桜の微笑みはとうに枯れ、顔は歪む。羞恥心ではない。ただ、圧倒的な理不尽への怒りと屈辱感。あと、単純に重い。
声と呼ぶにはお粗末な悲鳴を上げ、天花は身をよじる。その様子に、上に乗る男が気持ち悪い笑みを浮かべた。片手は天花の両手首を押さえ、空いた片手。それが布地へ、無遠慮に伸びる。
汚らわしい手が金の刺繍に触れる、直前。
「——離れなさい変態男!」
聞き覚えのある声の、聞き覚えのない怒号。同時に、男の体が「吹っ飛んだ」。壁代わりのテントの布に激突し、床にぼとりと落ちる。
「っ天花! 大丈夫?」
知っている声。でも、天花の記憶よりも明瞭な響き。その声は。
「つぐみ? なんでここに?」
立ち上がり首を傾げる天花を見て、つぐみは細々と息をつく。
天花なら大丈夫、一度はそう思った。でも、音が危険だと騒いでいた。だからこっちに急ぐことにした。
ほつれた衣装。おびただしい量のしわを帯びた、破れたスカート。髪は乱れ、何をされそうになっていたかなんて一目瞭然だ。
判断は、間違ってなかった。
「聞こえたのよ。あなたの危機が」
「聞こえ……そういえば、制御装置」
耳元、顔。天花の瞳が動く。あるはずのものがない、それに驚いているのだろう。
「置いてきたわ。それより」
そのとき、つぐみの鼓膜は二つの音を捉えた。
ひとつは足音。走る音だ。テントの外から。
ひとつは、テントの中から。立ち上がる音。
「っ天花離れてっ」
突っ込んで来る男、天花狙いの体に、天花よりも早く。
第三の音。男の魔の手を、つぐみは防ぐ。
「つぐみ、私も」
「大人しくしてて! 衣装が脱げてもいいのっ?」
早口で天花を押さえつける。
天花は特待生。肉弾戦なら、並みの猟犬候補生も及ばないだろう。
けれど。
特待生である前に、天花は一人の女子高生だ。あの状態で、これ以上激しい動きはさせられない。そのためには——そのためにも、まずはこの男をどうにかしないと。
近づいて来る足音が入り込んで来る、その前に。
つぐみの手首には赤のリストバンド——殺戮病感染者を示すものだ。その赤に、囚人の顔が変わっていく。
快楽から生存へ、欲の本質が塗り替えられる。
伸ばされる手をはじいて、急所に拳をめり込ませて、けれどそれは防がれて。二人の位置は入れ替わる。最初に入口側にいたのはつぐみだったのに、いつしか立ち位置すら入れ替わっていた。
ひと際大きな音。両者の両手が激突する。明らかな膠着状態。だが、つぐみの方が押している。感染者の筋力と専門の訓練を受けている存在の前には、性差などハンデにすらなりはしない。
だというのに。
つぐみの額には汗。
あの足音はもう聞こえない。違う、耳に入ってはいる。だが、意識にまでは届かない。
つぐみの心臓が跳ねる。
時計などない。でも、確かに分かる。二十四時間——デットエンドは、すぐそこに。
殺戮病感染者は、一日一人の人間を殺さないと生きられない。
少し離れた場所、天花が目を見開く。
膠着していたつぐみと囚人。その片方が。
囚人の体が、「左右に割れた」。




