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学ぶ

翌朝。

「おはよう、k…………優人」

 あんなことがあったのに、天花さんはあの完璧な微笑みでボクを見ていた。寮から教室までの道。瀬戸さんとつぐみさんは壁のような立ち位置だ。周りの人がこちらを見ては、そそくさと通り過ぎていく。


 カ行を言いかけたような音が聞こえたのは気のせいか、それとも…………。答えはない。確かめようにも、昨日のことが頭をよぎる。


 会話に混ざれないまま教室の前についた。完璧な仕草で天花さんがドアを開けた。

 瞬間。音が消えた。刺さる視線。

 速すぎず、遅すぎず。淀みのない歩み。


 が、止まった。

 一人の女子生徒が目の前に躍り出たからだ。

「あ、あの、そのっ」


 天花さんの表情は動かない。黄金比の微笑みのまま、まばたき一つせずに彼女を見つめている。

 無言の睨みあい。けれど、勝負など最初からついていた。


「て、天花さん、その、い、今までごめんなさいっ」

 勢いよく彼女が頭を下げる。それが始まりだった。

 次々に立ち上がる音。あるいは駆け寄ってくる音。

「わ、私もっ! つい言いすぎちゃってっ」

「俺も! 天花も特待生なのに、ひどい事言った、悪かったっ」

「今までごめんっ、許してっ」

「もう何もしないからぁっ」


 …………なんていうか。

 隣でつぐみさんが冷めた目になる。瀬戸さんが口笛を吹いた。何気にうまい。

「お手本みたいな手のひら返しだな…………、土曜に犯罪感染者を一人で沈めたからか?」


 何、を。何を、言って——。


 犯罪感染者といえば、無駄に人を殺したり誰かを感染させたりする殺戮病感染者の総称じゃないか。天花さんは非感染者。つまり、感染者よりずっと身体能力が劣るはず。なのに、沈めた? 犯罪感染者を? 一人で?


「なに驚いてんだよ、お前も巻き込まれたって話じゃねーか、ユウ」

「え? あー、そ、そう…………だけど」

 そうなのか。…………そういえば、そんな話をしたような。

 つぐみさんが吐き捨てる。

「くだらない」


 それが耳に入ったか、入ってないのか。天花さんは、謝ってきた人たちを見渡して。

「大丈夫。みんな謝ってくれた。私も、それを見て聞いた。この謝罪、忘れない。絶対に」

 そう、微笑んだまま口にした。

 空気が、ゆるくなる。誰もが安心した顔を浮かべていた。天花さんも微笑んだまま、

「そう、忘れない」

 と、一人一人に視線を合わせて。



「机に画びょうを仕込んだこと」

「机に落書きしてきたこと」

「重要書類の封筒を盗んだこと」

「消えればいいのにって言ったこと」

「出がらしって言ったこと」

「全部、全部忘れない。私は記憶力がいいから。例えば——東京中の執闘医の顔と名前と階級、感染の有無を全部データベースで眺めて覚えたくらいには」

 完璧な微笑みと完璧な声音で言ってのけた。


 直接その言葉を向けられたわけじゃない。けれど、背筋が凍る。あの人たちはあんなに必死に謝っていたけれど。天花さんは、多分——


 と、黒いガラス玉に似た瞳がボクを映した。微笑みは変わらない。

「これが、私の記憶力の使い方。一度見聞きしたものは忘れない。その能力は、こういう時のためにある」

 美しく澄んだ高い声。語りかけるような口調。でも——でも、大切なものが抜け落ちている気がした。


 ああ、と唐突に理解する。

 忘れないんじゃない。忘れられないんだ。

 罵詈雑言。嫌がらせの数々。もし——もし、それをすべて忘れられないとしたら。いつでも克明に思い出せるとしたら。

 ボクは、なんてひどいことを。

「——ごめんなさい。……気持ちが分かってなかったのは、ボクの方だった…………っ」

 天花さんは微笑むだけだった。

 さっきまで謝っていた人たちに向けたのと、まったく同じ顔で。



天花さんには、もちろん謝った。

 それでも人形のような笑顔は変わらなかった。


 授業が始まる前、学園図書館まで走るように歩いた。借りたのは中等部の教科書と資料集。教科はもちろん日本史で、それぞれ一冊ずつ。

 休み時間、漁るように読んだ。

 例えぜんぶ覚えられなくてもいい。そんなの、どうせボクには無理だから。だけど、あるポイントに集中すれば。


 放課後、誰より先に教室を出た。つぐみさんが何か言いかけて、それを瀬戸さんが丸めこむのが聞こえた。


 物騒な跡が残るアスファルトの道を走る。

 知らなかった。殺生病感染者の脚力なら、こんなに速く走れるなんて。

 

 ボクは、知らないものを拒んでばかりだ。


 よく似たふたつの建物のうち、赤い飾りのあるほうに滑りこむ。

 そして紅陽寮のほうへ。

 白道優人の部屋へ。


 一冊の問題集をカバンに押しこんで逆走。

 のどがひりひりに乾く。筋力が上がっただけなんだ。持久力まで上がるわけじゃない。

 けど、そんなこと。

 


 着いたのは学園図書館、その談話室。視線を走らせて。


 昨日と同じ席にすわる天花さんを見つけた。座っているだけで、何か読んでいるわけでもない。かといって、勉強しているわけでも。

 ただ、座っていた。

 その黒い目がボクを見た。


 メロスにでもなった気分だ。「お待たせ」とか「ごめん、遅くなって」とか言おうとしても、のどがつぶれているのか嗄れた声がかすかに出るだけ。

 だから、代わりにカバンから問題集を取り出した。

 中等部とすみに書かれた、日本史の問題集だ。それを、やっとの思いでかかげる。


 少しだけくらくらする視界の真ん中で、天花さんの笑顔がくずれる。虚を突かれたような、あるいは鳩が豆鉄砲を食ったような。


 呼吸が、もとに戻ってきた。

 視界のゆれも収まってきた。

 心臓も落ち着いてきた。

 もう大丈夫と思えるまで、いやに長かった。


 座るのはもちろん、昨日と同じ席。

「お待たせ。ごめん、遅くなって」

 現代史のページを探すボクの耳に、天花さんの声が小さく届く。

「遅刻じゃない。私も、何時スタートか言ってなかった」


 反省するような響きは、だんだん確かめるような響きに変わっていく。

「朝まで、もう来ないかもって思ってた。でも、休み時間。ちゃんと読んでたから。……それ、取りに行ってたの?」

 形のいい指が、静かに問題集を指した。

「あ、うん……寮まで。教科順にまとめられてて、だから探しやすくて」

「そっか」



 でもまんべんなくやるのは無理で。 

 その問題は解決してない。

 ぜんぜん分からない設問を読んで、ふと頭にアイデアがよぎった。

「天花。ひとつ提案があるんだけど」

「あ、私も。けど順番的に先どうぞ」


 差し向けられた手のひらは手入れされているようで、けど確かな分厚さがあった。白道優人の手にはない分厚さだ。

 にしても順番的に、か。

 先に言ったのはボクだ。そういうことなら。


「えっと、ポイントに絞ってやるのはどうかなって思うんだけど」

 甘えだってことは分かってる。

 でも、高等部ではどうせ古代から深堀りしながらの学び直しだ。

 公民と関わらせるなら、文化史は優先度が低いはず。

 だけど、そっちの方が続けられると思うから。


 そんな提案に天花さんは耳を傾けて、ふわりと笑う。人形じみた微笑みじゃない。桜の花が咲くような、そんなふんわりとした笑顔だ。

「同じことを思ってた。おすすめは殺生病以後、とくに黒十字設立のあたり。公民と黒十字基礎学に直結してる」


 談話スペースには他にも人がいて、けど話す内容は気にならなかった。

「まずは殺生病のはじまりと黒十字の設立から」

 そう銘打って、天花さんは朗々と語り出す。


「ヨーロッパの方で戦争が起きた。十年くらい膠着状態だったんだけど、ある日戦場で兵士たちが暴れ出した。素手で人を殺せるほどで、被弾しても死なない。でも体が崩壊する人もいた。これが殺生病のはじまりだという」


 まるで童話でも朗読しているかのようだ。しかも台本になりそうなものなんてないのに。いちおう現代史のページを開いてはいるけど、天花さんはそんなの眼中になさそうだ。視線や顔の角度からして。


「殺生病は各国の兵士、そして現地の民間人から世界へ広がった。もちろん、日本へも。なにしろ殺さなければ死ぬ病気で、感染前と後とで見た目に変化はない。だから世界中で殺し合いが起きた。魔女狩りならぬ感染者狩り」


 魔女狩り。ヨーロッパの歴史の闇だ。

 けど、それになぞられるのも分かる。

 殺される前に疑わしきは殺せ。きっとそうだった。黒十字もこのリストバンドも、当時はまだなかっただろうから。


「日本も例にもれず、時の政府は苦渋の果てに決断を下す。人権は感染した瞬間に喪失される、と。だがこの決定に賛同した議員の家族が次々に感染。政府は決定をくつがえし、身内をかばうようなタイミングでの朝令暮改に政府の信用は地に落ちた」

 

 すごい。

 童話じたてで、教科書の内容が頭に入ってくる。資料集と合わせてもよく分からなかったのに。


「だが、それが民間人の結束を固めた。特に力が強かったのが黒十字。その理念は『殺生病感染者は、たまたま感染してしまっただけである』。そして、それを裏づけるように感染症の研究を開始。さらに感染を即時判別できるリストバンドを発明したことで」

 

 軽く袖をまくる動きにつれて、リストバンドが姿をあらわす。今じゃ義務になっているくらいの代物だ。


「黒十字の地位は、揺らがないものになった」


 そう、解説を締めくくる。


「すごい」

 そんな言葉が口をついて出た。

「分かりやすいよ。教えるの、上手なんだね」


 ゆるく、天花さんは微笑んだ。そして、遠くを見るような目で壁を見る。ぼんやりと。

「小学生のとき、クラスメイトに教えてた。先生に頼まれて、居残り組の人に。昨日、それを思い出したから。あとは私が、記憶力を手にする前に使ってた方法。歴史には、ストーリー仕立てがいい」

 

 よく見れば、その手にはペンだこ。昨日や今日できたものじゃない。

「努力家なんだね」

 しみじみとつぶやいたのは、ただの感想。


 けれど、その感想に天花さんは桜のように笑う。

「ありがとう。やっぱり、あなたは優しい人」

 生粋の日本人、まじりけのない瞳がボクに向けられる。白い髪を、色の薄い瞳を、こうしてる今も血の気を感じさせてないであろう顔を。それぞれ見る。

 

 化け物。

 

 母さんの声が頭に響く。


 白い手が白い髪を押さえつけようと動いて

「私はその外見、いいと思う。天使みたいで」

 なんでもないことのように天花さんが笑う。


「…………ば」

 のどが、ひりつく。

 でも、それ以上に声が漏れる。

「化け物とか、思わないの?」

「? 別に?」

 本当に、本当に。

 本当にただ、不思議そうな顔だ。


 きっと、本音。

 目頭が熱くなっていくのが分かって蛍光灯を見上げる。

 白くて、とてもまぶしい。



「…………きみのほうが、優しすぎるよ」

 少しだけ、この世界を好きになれたかもしれない。


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