天花
息が止まる。
なんで。
固まるボクに、瀬戸さんは「図星だな」と言う。びっくりした感じじゃない。むしろ、やっぱりそうだったとでも言いたげに。
「天さまが天花だったのは中等部の話だ。高等部進学に合わせて天花に変えたんだよ」
そして何のためらいもなく肩を組んでくる。初対面、それが分かったっていうのにだ。
「よかったな、天さまに会う前に分かって。……けど」
軽い調子の声は急に鋭くなる。するりと瀬戸さんは腕をどけて、朝日を背に立ち止まった。逆光でも表情がわかるのは、白道優人が殺生病感染者だからなんだろう。赤い瞳の奥で、瞳孔が細くなるのが見えた。
「お前は白道優人のままでいいのか?」
「それは」
アスファルトは黒い。でも、そこにのびる瀬戸さんの影のほうがもっと黒々としている。
いいのか、なんて。
「…………それしか、ないから」
ためらったのは、医長さんの言葉がよぎったからだ。
戸籍を変えた理由。
狙われるかもしれないと。
……殺したければ殺せばいい。
生きたくなんかないんだ。
なのに体が生きようとするから、辛くて悲しい。
「九カ月前、とある民家が爆破されたんです。ボクはその生き残り、帚木慶。その事件で感染して、黒十字に保護された……らしいです。……保護されてから昨日までの記憶が、ないんですけど」
思ったよりスラスラと言葉があふれ出る。
ひととおり聞いて瀬戸さんは、ゆっくりと息をはいた。
「…………お前も大変だったんだな。優人のふりをしてたのはアレか? 異分子は迫害される、的な」
異分子。
迫害。
白さだけは変わらない手が、白さだけは変わらない髪をいじる。どうせ体つきも何もかも変わっているのなら、もっとみんなと同じになっててほしかった。
化け物、としか言われたことないのに。
そんな白い手を、瀬戸さんがつかむ。
「髪色なんか個性だよ。俺を見ろ、こんなくすみのない赤なんてオンリーワンがすぎるだろ。だからお前の白も個性だ、派手髪仲間どうし仲良くしよーぜ。敬語もいらねー」
朝日が、赤い髪をあざやかに照らしていた。光るような色じゃないのに眩しいくらい。
赤、なんて。
昨日からずっと、血の色しか連想できなかったのに。
少なくとも嫌いな色じゃなくなりそうだ、と思ってうなずいたとき。
リリン、とかすかな鈴の音。
ふわり、とほのかに花の香り。
手首のリストバンドの赤。
耳に、鼻に、目に。飛び込んできて心臓が凍る。
瀬戸さんの手首にもリストバンドがあるのが見えた。けど青い。非感染者の色だ。
「俺は感染の有無とか気にしてないから。黒十字とか関係なく、俺として」
きっと、その言葉に嘘はない。そうでなきゃ感染者の手なんか取らないはず。血液だけが感染症を運ぶっていっても、人はそう簡単に割り切れない。
だって、感染者の手は。
「人を、殺した手だよ」
今度はボクの手がするりと落ちる番だった。
「殺したくなんか、なかったのに……っ。…………自制、できなかった。やっぱり、医長さんが殺してくれてれば、こんなことには……っ」
ゆっくりと、瀬戸さんの目が見開いていく。
「医長って、まさか修羅道独歩執闘医長のことか?」
早口。近くの木から鳥がいっせいに逃げていくほどの声量だ。
「あ、うん……ボクを保護してくれたんだ。……殺してくださいって頼んだけど、駄目だった。執行猶予とか、布製品を破くくらいじゃ死刑にならないとか」
瀬戸さんの目が険しくなる。
「…………妙だな」
気温が低くなった気がした。
さっきまでの軽さは消え失せて、代わりに鋭さ。くしゃりと片手で前髪を押さえ、瀬戸さんは少し目を伏せる。
「天さまのときは、制服をほつれさせただけで一人殺処分になってたぞ。ぱっと見、分かんないレベルだったのに。ダブルスタンダードか?」
「そんなわけ……、だって、執闘医長といえば執闘医の最高峰でしょ? そんなすごい人が、不正なんて」
「いや、やりかねないぞ黒十字なら」
確信しているかのような言い方。瀬戸さんは西の方に顔を向けて、両手を固く握りしめていた。
「たとえば研究局。論文コンテストで、応募作の名義を勝手にいじってた。理論をつくった猟犬候補生の名前をはずす形でだ。……そういう不正が、他にないなんて言いきれんのか?」
嘘、だったらどれだけよかっただろう。
けど、そういえば。
ぼんやりと、日記のページが頭をよぎる。どこかにそんなようなことが書いてあった。蛍の闇落ちの真相と題して。
それで、実際に一人が狂った。
ふと瀬戸さんが、今度は北の方を見た。所せましと家の残骸が並んでいる辺りだ。
「黒十字は大きいけど、きっと絶対正義じゃない。だから『黒十字をぶっ潰す』なんて言ってるチームがいくつも出てくるんだ。……だからさ」
また、瀬戸さんがこっちを向いた。目つきはどこか歪んで、瞳孔は切れかけの糸みたいだ。それでも確かに強い意志。
「逃げたいとか裏切りたいとか。そういうのがあるなら俺は見逃すぜ。なんたって」
動作だけは冗談交じりに赤毛をつまむ。
「俺はお前の、派手髪仲間だからな」
別れ際、瀬戸さんは誰かにメッセージを飛ばしていた。
スマホから顔を上げ、アドバイス。
「午後になったら学園図書館二階の談話室に行きな。記憶と勉強のスペシャリストを十三時に招いといた」
記憶と勉強のスペシャリストは、思っていたよりずっと若かった。というか。
「事情は聞いた、瀬戸から。私は高嶺天花。優人とは同じクラス。つまり、きみともクラスメイト。よろしく」
同い年なのだという。
「あ、えっと、帚木慶、です…………その、よろしくお願いします、高嶺さん」
「天花でいい。あと、かしこまらないで。とりあえず数学から。でも、その前に」
雲が動いたのか、窓からの光が天花さんを背後から照らす。逆光。でも感染者の瞳には、アルカイックスマイルの形までくっきりと読み取れる。
「すごく白い」
心臓が跳ねるのが分かった。
化け物、そう呼ぶ声が頭に響く。だけじゃない。笑い声。冷たい目線。目線。天花さんも見ている。熱のなさそうな黒い瞳で。笑って、いる。その口が開く。止めて、聞きたくな
「綺麗。髪の毛も、瞳の色も。天使みたい」
天使、と。彼女は確かにそう言った。
熱。知らない熱。胸の奥からこみあげて、目頭を濡らして、頬をなぞる熱。
理由は分かってる。
「……初めてだ。外見、褒められたの」
滲む視界一杯に、ただ一人の変わらない微笑み。乱反射する光が眩しい。
「初めて、か」
そっとつぶやいて天花さんは、ほほえみに寂しそうな色をまぜる。
「記憶のスペシャリスト、なんて瀬戸は言ったかもだけど。私も、記憶喪失の治し方は知らない」
さっきの話やあの表情とどうつながる言葉なんだろう、なんて疑問には気づかなかったことにしよう。
それより気になることがあるから。
「じゃあ、なんでスペシャリストって」
一歩まちがえれば責めるような疑問。なのに天花さんは、気分を悪くしてないらしい。あくまで微笑んだまま、
「ぜんぶ、覚えてるから。生まれた瞬間からのこと」
とんでもないことを言ってのけた。それも、ただの日常会話ですという調子でさらりと。流すように。
「は……、可能なの? そんなこと」
「うん。忘れたくないって思ったら、なんかいけた。だから生まれつきじゃないし、たぶん誰でもできる。慶も」
誰でもできる、って。
「それなら苦労しないよ」
そんな簡単なわけない。
嫌味っぽくなってしまった物言いに、けれど天花さんは余裕の笑みだ。
「記憶についての話、完了。次は勉強。とりあえず数学から。教科書二五三ページ」
これでもかってほどに切り替えが早い。
しかも、指導方法は一言でいえばスパルタだ。
教科書を開いて、読んで、問題を解いて自己採点して、間違えた原因と正しい解法をメモして。それを参考書と問題集も、それぞれ。終わる頃には夕方になっていた。
「うん、ここまで。でも図書館しまるから、日本史は宿題。頭に入れれば、公民が楽になる」
音一つ立てずに天花さんは立ち上がった。そして、満開の桜を思わせる微笑みでボクを見下ろして
「去年の二学期、現代史の範囲。教科書、一〇五ページから読んできて。それと資料集。二五三ページから最後まで、ぜんぶ。写真も、細かい解説も」
無理難題を押しつけてきた。
「そうすれば明日は、問題集だけ。ちなみに九二ページからぜんぶ」
「…………つまり、今日だけでこの量を読めと?」
「? 勉強会、放課後。今日は教科書、明日は朝と休み時間に資料集、とか」
「っ同じだよ」
声が、荒くなったのが分かった。その答えだけに感情をぶつけるような。けど、声は止まってくれない。
「そんな時間、ない。そりゃ、天花なら記憶力があるからページを眺めるだけで覚えられるんだろうけどさ。けどそうじゃない人は、一文字一文字じっくり読まないと覚えられない。記憶力は生まれつきじゃなかったんでしょ、なら身に覚えあるんじゃないの。それとも、自分ができるようになった瞬間にできない人の気持ちは無視する気? そんなんで記憶喪失になった人の気持ちなんて、天花に分かるの!? 別に記憶喪失になってほしいとかじゃないけど、完全記憶力を手に入れる前のことをちょっとは思い出してよ! 天花ならできるでしょ?」
言って、しまった。
最低だ。
八つ当たりするなんて。ボクが忘れたことは、天花さんのせいじゃないのに。なんなら、高嶺天花は白道優人に忘れられているってことになるのに。
なのに。
天花さんは微笑んでいるだけだった。
その笑みは、人形のように完成されたもの。完璧な形なのに、そこに心がないような。どこか、そんな気さえしてくる。
完璧な記憶力を持つ天花さんは、完璧な微笑みのままボクを見て。
「明日、見せてあげる——私の記憶力が、何のためにあるのか」
完璧な声音でそう言った。




