日常をなぞる
体が、横に流れた。
コテン、と何かが壁にぶつかる音。
「どう、して」
ふんわりとした、それでいて跳ね返すような感触。
ベッドに倒れたのは間違いない。問題は、なんでこの体は弾をよけてしまったのかってことだ。
横向きの視界で、医長さんが銃をおろすのが見えた。その銃口からは確かな煙。
「実弾で眉間を撃っても感染者は死なない。それに、どのみち刑罰の意味で殺すつもりはなかった。状況的に執行猶予がつくだろうし、そもそも布製品を破くくらいじゃ死刑にならないからな。……まぁ、君が心から望むなら次の狙撃で殺していたが」
その手から銃が放り出される。
「避けたってことは、本当は生きたいんじゃないのか」
「そんな、こと」
あっては、いけないはずなのに。
どうして、否定の言葉が出てこないんだろう。
……言葉で否定できないなら、行動で示せばいい。絶対だれも殺さない。
そのまま時間をつぶした。
分かったことといえば、やっぱりボクは独りらしいってこと。
歩くだけで静まり返る。
目が合ってもそらされる。
白い悪魔、なんて。
そんな悪名が痛い。
血のにおいがする地下室に足が向かったのは、みんなが出たり入ったりしてたからだ。そうに決まってる。そうでなきゃ絶対に行くもんか。
なぜか、ボクが入った瞬間みんな慌てて出口に殺到してきたけど。
なんとなく足が動く。
こんなに大きいロッカー、初めて見た。なんでこんなに並んでるんだろう。それにさっきから、血のにおいしか感じない。
それに不気味だ。たくさんの息遣いを感じるのに、誰の姿も見えないんだから。たまにガンッなんて音がするのに、そっちを見てもやっぱり誰もいない。
こわごわと見渡していたら、床の一部に目がいった。
「…………あれ」
あそこだけ床の感じが違う。ほかはタイルなのに、あそこだけ金網? 排水溝みたいになってる。
いちばん近くのロッカーに、ただなんとなく目を向けた。どのロッカーにもついていた金具は、
「カードキー?」
それっぽいものなんて、ポケットのあった学生証くらいしか。
「…………まさか、こんなので開くわけ」
電子音。
……嘘でしょ。
自然と手が伸びる。まるで自分のロッカーでも開けているみたいな気分だ。変になじんで気持ちが悪い。
中には人。しかも拘束されている。
閉める。
開ける。
中には人。しかも拘束されている。
「え、これって……」
見間違いなんかじゃない。
体の中でなにかがざわつく。
左胸から、ひび割れるような音がした。
右手はへんに熱を感じて、泳いでるみたいで、ひき肉でもこねてるみたいで、なにかを探してるみたいで、なにかを
ぷちっ
握り潰して。
腕が、目の前で縛られている人に埋まっていた。握り潰していた。何を。ぬちゃり、引き抜く白い腕は、赤黒い液体に濡れていた。
「あ、ぁ…………」
殺して、しまった。この手が。この手で、人を。
どうして、あんなやりかたで。
どうして、この体はあんなに手馴れて。
体が、体だけが誰かに乗っ取られたみたいだ。どうやって動かしてるのかも分からない。ただ体が、勝手に誰かの日常をなぞるだけで。
いつの間にか、エントランスの近くにいた。エントランスからちょっと離れた席。まばらに人が歩くのが見えるけど、誰もボクに気づいてない。そのこに、なぜだかひどく安心する。
机に置くのはミント色のノートだ。冷えた指先でなでる表紙には、「白道優人 日記Ⅱ」と硬い文字で書かれている。
そんなノートを、指の腹で静かにめくった。
「これが、日記?」
こんなの、活動報告じゃないか。
いつ、どこで、だれと、なにをしたか。そんなことが、びっしりと書かれてノートが黒く見えるくらいだ。
びっしりと埋まったページをめくって、めくって、めくって――――その手が止まる。
数日前のページらしい。白紙のページはもっとずっとあとっぽい。
けれど、その内容。
入学式の日だったこと。
自分の席の位置。
寮から高等部校舎への道のり。
クラスと、教室への行き方。
学籍番号と出席番号。
担任の名前。
後にはその日の出来事が続く。
話しかけてきたクラスメイトとか。
クラスでおきた断罪劇とか。
誰を、どういうふうに呼んでいるのかとか。フリガナは書いてないけど、まず間違えることはないだろう。親しいのは三人で、うち一人はひらがなの名前なんだから。あと二人も地名と、読み方が簡単な名前ふたつ。間違えようがない。
……今日の分も書けばいいのかな。
ページを閉じたときには、もう人の出入りはなくなっていた。外もあんなに暗い。
「あとは明日から『白道優人』を演じて」
……違う。
これじゃ、生きることが前提みたいで。
それはつまり、誰かを殺すのを肯定してるってことで。
ページを閉じる手がふるえて止まらない。なのに、日記Ⅱってことは一冊目もあるのかな……なんて頭の片隅で考えてしまう。
実際、さっきの部屋にあったけど。
最初に来たときは気づかなかった。二冊目の奥に、わりと分かりやすい感じで飾られていたのに。
ぱらり、めくる。
七月七日
今日から、といっても書いているのは八日だけど。日記をつけることにしました。ぼくの本名は「帚木慶」だったらしくて、でもその記憶を失ってしまったから。もしもう一度すべてを忘れてしまっても、思い出があったことをここに残しておきたいから。
目が覚めた時には殺戮病に感染していて、最初はそれにものすごく驚いた。そして後から自分が記憶喪失なんだって気づいて、それで苦しくなって。死にたい、そう思った。だって、誰かを殺さないと生きられないなんて嫌だったから。こんな、自分が誰だか分からない存在なんかに、誰かを殺してまで生きる資格なんてないって思ったから。でも、修羅道独歩さんが教えてくれた。この感染には裏がありそうだって。だから生きるよ。せめて、真実を知るまでは。
それで、色々な説明を受けた。殺戮病感染者になった。それで、街に潜む感染者を見つけ出す「猟犬」になるために黒十字学園で能力を磨くんだって。学園には非感染者も通っているみたい。将来は感染の垣根を越えてチームになるっていうから。一気に説明されるから、頭がパンクするかと思った。色々な手続きは終わってて、いくらかの現金も持たされた。
感染者だから、毎日人を殺さないといけなくて。だから、殺した。初めての感覚だった。目の前の人から鼓動が消えた。それを奪ったのは。手を離すだけで五分以上かかった気がした。まるで他人の手。この手は、こんなに白かったっけって思ったよ。
ルームメイトの草葉守人くんは優しい人。面倒見がよくて、聴覚抑制装置を外しちゃったときに駆けつけて装着し直してくれた。本当に気遣ってくれていた。心が壊れるような真似はやめろ、そう言う守人くんの顔が縋るようだった。でも、もうあんな顔してほしくない。だから、絶対に狂わないよ。
「この日付って」
びっしりと書かれた文字をなぞる。七月七日。ボクの中の、「今朝」の日付だ。
事件のショックで記憶を失っていた?
ページをめくる。
七月八日
編入初日からテストなんて、聞いてないよ! マーク式で、なぜか解けたけど!
飛火入蛍っていう女の子が話しかけてくれて、守人と蛍と話せるようになった。蛍は金色の三つ編みがきれいな女の子。別クラスの星垂つぐみって子とも話せるようになった。茶髪の子で、きっと蛍を大事に思ってる。ふたりの論文、いい賞を取れますように。
帰りにノートを買った。このノート。いちばんページがあるシリーズで、色がよかったから。これを日記にしようと思う。商店街の文房具屋さんで売ってたから、代替わりするならぜひ。
それと、お肉屋さんがコロッケをくれた。鼻がなれてないから食べるのは寮の食堂だったけど、おいしかった! これでまだ試作品なんだもんね、プロの世界は厳しいや。いつか、四人で揚げたてを食べたいな。守人と蛍とつぐみとぼくで。
こんな感じで、その下にも日記は続く。
けど、本当に同一人物が? だって、こんなにも感情豊かで。
ぱらりぱらり、ページをめくる。
なぜか、向かって右の一ページだけ真っ白。
めくると、
ぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺したぼくが殺した
それだけが、ただひたすらびっちりと並んでいた。
思わず閉じて、部屋中に視線を走らせたくらいだ。
それくらい、息が荒くなる。心臓が跳ねる。視界が赤に濡れた錯覚。右腕に赤い液体がまとわりついて、右手の指の隙間にぐぢゅぐちゅした何か、嫌なものがこびりついて、何かをぷちっと握り潰したようで。
そんな、そんな日の記憶なんてないのに。
少なくとも、これを書いた日の記憶なんて。
……けど。
どうにか、ふるえる手でページを開き直す。直前が空白ページだったから探すのは簡単だ。暗い部屋に、ただページをめくる音だけが静かに響く。
「ちゃんと、読まなきゃ」
となりのベッドの人を起こさないように。だから声も、ほとんど吐息だ。
きっと、この日に何かあった。なら、次のページを読めば。
ぱらり。
……ここからだ。
連なるのは短文。ただの記録。感情なんて見当たらない。だけじゃない。
蛍の名前が、見当たらない。
ふと、日記Ⅱが頭をよぎる。
開くのは断罪のページ。
蛍が闇落ちした事件の真相。それが書かれた行を指でなぞる。
きっと、この事件が起きたのが。
あの「ぼくが殺した」のページなんだ。
初代の日記のページをめくる。めくってめくって、最後のページ。
「…………っ、優人」
吐息がふるえた。
閉じる。
長い息。
……あなたは。
友達を、二人も殺さなきゃいけなかったんですね。
体に染み込んだ動きはきっと。
慣れて、「もう大丈夫」と乗り越えるために。
気づいたときには朝になっていた。
ルームメイトらしい人が視線を向けてきて、けれど何も言わないまま目をそらすのが分かった。
仲良く、なんてできてなかったんだ。そんな描写、日記にはなかった。
頭が重いのは、きっと日記を読んでいたから。結局、ぜんぶのページを読み込んでいた。そうやってるうちに朝になってた。
外を歩いてるのは、きっとそれが習慣だから。昨日の……殺人、だってそうだった。なら、どうせ今もそうに決まって
「お、ユウ」
そんな声が耳に届いた。
寮の敷地を出た路地だ。目の前に、赤が印象的な男子が割り込んでくる。
「昨日は災難だったな。犯罪感染者に襲われたんだって?」
時間が、止まった気がした。
白道優人を「ユウ」と呼ぶ赤髪の男子。確か名前は
「瀬戸」
口調、おかくしありませんように。
探るような響きが伝わりませんように。
日曜日の朝だからか、人の姿はない。
声が届くのは瀬戸さんひとり。
「別にたいしたことじゃないよ。瀬戸のほうこそ、交渉はどうだったの」
質問に瀬戸さんは胸を張り、笑顔で親指を立てた。
「バッチリだぜ。協力してくれるってよ。まぁ性格はアレだったけど。天さまが同行拒否すんのもうなずけるよ、ありゃ」
天さま……特待生か。なぜか白道優人を気に入った、すごく頭のいい女子。本名は、
「天花が嫌うなんて、ちょっと想像できないな」
「だろ? あと」
真っ赤な瞳がボクを凝視した。頭の先からつま先まで。瞳孔が、糸みたいに細くなっていく。
「おまえ誰だ」




